やはり生でなければ分からないことがある。これはメディアを幾らかは知っている者にとってはとても考えさせられる。ミュンヘンで11月23日に初日だった新制作オペラ「オテロ」を生放送で聞き、録音して、更に12月2日の第三回公演を映像を含めてストリーミングで見てDLした録画を道中流していた。そして第五回公演を訪ねて改めて経験した。ミュンヘンでの初日シリーズをストリーミングの後で出かけるのは初めてかもしれないが、その影響があったのかどうかはよく分からない。なるほど録画したその映像も流していただけなので、正しいメディア需要ではない、それでも明らかにそこに欠落していたものがあったと思う。言い訳をさせてもらえば、その欠落の存在を初めから何となく感じていた。
今回の制作は、「アイーダ」や「椿姫」作曲で有名なジョゼッペ・ヴェルディの晩年の作品「オテロ」であり、そのシェークスピアの「オセロ」との関係にも公演前のガイダンスで若干触れられていた。因みに今回の講者はオペラ劇場のドラマトュルギーを担当しているマルテ・カースティング博士である。ペトレンコ指揮制作の重要なスタッフである。ガイダンスは何度か訪れたがいつもあまりに哲学的に抽象的で全く価値がなかったが、流石にカースティング博士の場合は音楽と演出の双方のドラマを司っているためにとても具体性が話の裏に感じられた。
この制作の価値を測る場合に、その創作の依頼やその工程にまで言及するのはとても重要だった。要するに一度は筆をおこうとした作曲家の再びの創作意欲や動機をそこに想像しないといけないからだ。音楽的に詳しくは来年の復活祭のバーデンバーデンでの準備まで時間があるのでゆっくりやっていく、しかしそうした詳細な作曲技術的なアナリーゼよりも後期のヴェルディ作品を読み込むときにはやはりその「オペラ事情」を考えるべきだ。
簡略すれば、影響を与えたリヒャルト・ヴァークナーはバイロイトにおいて理想を音楽劇場として創作した。それならばヴェルディは、ただそうした音楽的な方法を利用しただけで、ただイタリアの「オペラ」を創作しただけなのか?これが問いかけとなる。
音楽の詳細には一挙には触れないが、キリル・ペトレンコと管弦楽団が劇の土台を形作ったとするような論評は正しかった。これも具体的には分かりにくい表現なのだが、例えば指揮に対して楽団が敏感に判断して出来上がるドラマとは、ヴァークナーではあるのか、それならばヴェルディではと考えるとこれはとても音楽的に深入りすることになる。前日に客演したヴィーンでは全てが無視されているような演奏だったが、流石にここではベルリナーフィルハーモニカーが羨む六年目の関係は只者ではない。指揮に食らいついてくるだけでなく、それ以上に敏感に音楽的な反応がなされる。まさしくペトレンコが理想とする「共にムジツィーレン」がそこにある。
ミュンヘンの座付管弦楽団が、その各奏者が真面目に準備してとかの心構えの問題ではなく、私自身が学ぶことばかりなのでお勉強をして準備するのと同じように、残された機会に如何に多くの音楽を学べるかと貪欲になっているからだ。
具体的には、一幕におけるとてもシャープな不協和とヴァイオリンのピアニッシシモのダイナミックスと音色の相違も甚だしく、予想以上に声が通ったカウフマンのオテロの第一声も決してドミンゴの第一声に引けを取らなかった。その背後にはとても制御された管弦楽があるのだが、その自然な流れ、二幕へと更に淀みなく、自由度とその劇的効果は初日、三日目を上回っていた。その二回との比較すれば、やはりその間にフィッシュ指揮の公演が挟まった影響もあるかもしれない。なにか自由に指揮棒に反応するような見事なもので、楽員の各々が自らの表現意思のようなものを発散させていた。このような指揮者と管弦楽団との関係は今まで知らない。
二幕はとりわけ素晴らしく、ショスタコーヴィッチの「レディ―マクベス」での引用を感じさせる一幕以上に、古典的なイタリアオペラ劇の造形美を堪能した。ヴェルディの扱いは三幕の大掛かりな対位法のみならずに、初期からのそのオペラ劇場的な骨子が音楽的に嵌められていて、シェークスピア劇へと最後の「ファルスタッフ」への道程がはっきりする。批判されていたデズデモーナのハルテロスもその点を留意していて更に修正していたのは確認されたが、それどころか舞台の印象もコケットさをもう少し落としたような感じで、恐らく歌声で留意した分デズデモーナの推定年齢が下がったような印象だった。ただ一つクライバー指揮のスカラ座の上演と比較して至らなかったとすれば合唱団の若干暗い歌声で、やはりイタリア語文化圏の中での声は輝かしさが違う。それは逆も真であるのは当然だ。(続く)
参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
今回の制作は、「アイーダ」や「椿姫」作曲で有名なジョゼッペ・ヴェルディの晩年の作品「オテロ」であり、そのシェークスピアの「オセロ」との関係にも公演前のガイダンスで若干触れられていた。因みに今回の講者はオペラ劇場のドラマトュルギーを担当しているマルテ・カースティング博士である。ペトレンコ指揮制作の重要なスタッフである。ガイダンスは何度か訪れたがいつもあまりに哲学的に抽象的で全く価値がなかったが、流石にカースティング博士の場合は音楽と演出の双方のドラマを司っているためにとても具体性が話の裏に感じられた。
この制作の価値を測る場合に、その創作の依頼やその工程にまで言及するのはとても重要だった。要するに一度は筆をおこうとした作曲家の再びの創作意欲や動機をそこに想像しないといけないからだ。音楽的に詳しくは来年の復活祭のバーデンバーデンでの準備まで時間があるのでゆっくりやっていく、しかしそうした詳細な作曲技術的なアナリーゼよりも後期のヴェルディ作品を読み込むときにはやはりその「オペラ事情」を考えるべきだ。
簡略すれば、影響を与えたリヒャルト・ヴァークナーはバイロイトにおいて理想を音楽劇場として創作した。それならばヴェルディは、ただそうした音楽的な方法を利用しただけで、ただイタリアの「オペラ」を創作しただけなのか?これが問いかけとなる。
音楽の詳細には一挙には触れないが、キリル・ペトレンコと管弦楽団が劇の土台を形作ったとするような論評は正しかった。これも具体的には分かりにくい表現なのだが、例えば指揮に対して楽団が敏感に判断して出来上がるドラマとは、ヴァークナーではあるのか、それならばヴェルディではと考えるとこれはとても音楽的に深入りすることになる。前日に客演したヴィーンでは全てが無視されているような演奏だったが、流石にここではベルリナーフィルハーモニカーが羨む六年目の関係は只者ではない。指揮に食らいついてくるだけでなく、それ以上に敏感に音楽的な反応がなされる。まさしくペトレンコが理想とする「共にムジツィーレン」がそこにある。
ミュンヘンの座付管弦楽団が、その各奏者が真面目に準備してとかの心構えの問題ではなく、私自身が学ぶことばかりなのでお勉強をして準備するのと同じように、残された機会に如何に多くの音楽を学べるかと貪欲になっているからだ。
具体的には、一幕におけるとてもシャープな不協和とヴァイオリンのピアニッシシモのダイナミックスと音色の相違も甚だしく、予想以上に声が通ったカウフマンのオテロの第一声も決してドミンゴの第一声に引けを取らなかった。その背後にはとても制御された管弦楽があるのだが、その自然な流れ、二幕へと更に淀みなく、自由度とその劇的効果は初日、三日目を上回っていた。その二回との比較すれば、やはりその間にフィッシュ指揮の公演が挟まった影響もあるかもしれない。なにか自由に指揮棒に反応するような見事なもので、楽員の各々が自らの表現意思のようなものを発散させていた。このような指揮者と管弦楽団との関係は今まで知らない。
二幕はとりわけ素晴らしく、ショスタコーヴィッチの「レディ―マクベス」での引用を感じさせる一幕以上に、古典的なイタリアオペラ劇の造形美を堪能した。ヴェルディの扱いは三幕の大掛かりな対位法のみならずに、初期からのそのオペラ劇場的な骨子が音楽的に嵌められていて、シェークスピア劇へと最後の「ファルスタッフ」への道程がはっきりする。批判されていたデズデモーナのハルテロスもその点を留意していて更に修正していたのは確認されたが、それどころか舞台の印象もコケットさをもう少し落としたような感じで、恐らく歌声で留意した分デズデモーナの推定年齢が下がったような印象だった。ただ一つクライバー指揮のスカラ座の上演と比較して至らなかったとすれば合唱団の若干暗い歌声で、やはりイタリア語文化圏の中での声は輝かしさが違う。それは逆も真であるのは当然だ。(続く)
参照:
PTSD帰還士官のDV 2018-12-03 | 文化一般
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評