朝は寒かった。早朝から目が覚めたので、前夜に解決しなかった宿探しなどをしていた。出かけるには冷え過ぎたので、一度床に戻ってから出かけた。鬱陶しく、寒い。峠へと林道を走り出すと上から森の小屋かららしい車が下りてきた、横を走り抜けようとすると、車が止まって窓が開いた。前日に猟犬を探していた親爺だ。森の中で仲間が見つけたと話した。六時間以上も居なくなっていたんだと、やはり一寸間抜けな話をしていた。駆け足をしながら、「それはやれやれ」と言って別れた。あまりにも寒かったのでパンツのままで走ったが、峠から降りるときに霜を踏んだ。寒い筈だ。走り乍ら考えていたのはハムブルク行のことだった。
ケント・ナガノの「影の無い女」最終回に出かけることにした。宿も高くなったが、二連泊するので価値はあるだろう。そして何よりも火曜日に五時間以上車を走らせて、明くる日の帰路五時間は辛いだけだ。一日でも北ドイツでゆっくりしたい。五時間の長丁場でもそれほど力を入れずに観劇すればよい。とは言いながら、面白い席があったから購入したので、齧り付きのロージェである。ハムブルクの劇場のその戦後の民主的スタイルのその座席構造は、似たものではドィツェオパーベルリンのは知っているが、外から見たことしかなくそこに座ったことがなかったのだ。やはり私にとってのハムブルクはブラームスの生家とかの一帯と、この劇場とライスハーレはやはり欠かせないと思う。今回はエルブフィルハーモニーでペトレンコ指揮の翌晩に偶然に音楽監督が成功作を振るとなると好機に違いなかった。
それにも拘らず躊躇っていたことには触れたが、もしこれがティーレマン指揮だったりすれば文句をつけに冷やかしに出かけるのだが、ナガノの場合は恐らくペトレンコの次に多くそのオペラ指揮を聞いている音楽家であり遥かに複雑だ。要するに私はファンなのである。ヤンソンスか、ナガノかが当時のザルツブルクであり、私は勿論ナガノ派だった。それ以降もメルケルが来ていた殆どこけら落とし公演のようなメディア化されているバーデンバーデンでの「パルシファル」も聞いている。しかしその後のミュンヘンでは一度も行かなかった。新聞評などでもこれといった成功をしていなかったことが原因で、やはりこちらが期待するほどの成果を挙げていない限りは聞きたくないというのが本当のファン心理なのかもしれない ー ペトレンコ指揮「ディゾルダーテン」のそれは全く異なる絶賛だった。
2017年復活祭のクリーゲンブルク演出の初日の評価は、フランクフルターアルゲマイネ新聞では少なくとも管弦楽に関しては大変評判が良かった。これまた複雑な心境で、ミュンヘンのそれに比べてどうだろうかと異議を挟みたくなるものだった。そして今回改めてトレーラーを聞いても豪快に鳴らしていて、歌手とのバランスなどとても気になるのだ。それに引き換えミュンヘンでは今の演奏水準に比較するとまだまだ甘いのが録画からも聞き取れる。言い換えれば、ハムブルギシェスシュターツオーケストラというのがどの程度かは改めて確かめてみたい。そして齧り付きでナガノのオペラの指揮を現在の視点で再び吟味してみたくなったのだ。
歌手陣もミュンヘンのことを考えると英語圏の人が多く、その差は大きいが、今回はバラク役をヴォルフガンク・コッホが受け持つ。これだけで引き締まりそうなのだが、九月に休演したミュンヘンの敵をハムブルクで打つとは、あまり期待しない。兎に角、全体のアンサムブルにも初日メムバーでの再演ゆえに期待したい。
今後ハムブルクの劇場に足を踏み入れるとしても、ナガノが好評なうちは可能性があるとしても、それ以外にここに就任しそうな魅力的な音楽監督はと思うとあまりにも心許ない。それなら先ずはその仕事ぶりを生で確かめるのもファンのお務めだ。先の「フィデリオ」の放送やその後の評価を聞くと、悠長に機会を見ていては手遅れになるとも感じていた。ミュンヘンで機会を逃したようにである。キャリアを順調に積み重ねてきて、一度落ち目になると皆が叩き始める、やはりそうしたときにこそしっかりと見定めてあげなければいけないと思う。楽譜も一度目を通しておかないといけないかもしれない。
ボーヌの街から北西に位置するサヴィニー・レ・ボーヌの2015年物を開けた。ボーヌのそれは寝かすにしてもあまりに重くエレガントさを期待できないので好まない。またサントネとかの街より南の地域のものはあまりにも軽くあまり価値がない。そしてこれはそれらよりも良かった。エレガントな風味は申し分ない一方、あまりミネラルの深みは求められそうにはない。方向としてもサンジョルジュかそちらの傾向だとは分かった。価格も手頃なので、まあ悪くはないだろう。
参照:
ハムブルク行の計画 2018-12-15 | 生活
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般
ケント・ナガノの「影の無い女」最終回に出かけることにした。宿も高くなったが、二連泊するので価値はあるだろう。そして何よりも火曜日に五時間以上車を走らせて、明くる日の帰路五時間は辛いだけだ。一日でも北ドイツでゆっくりしたい。五時間の長丁場でもそれほど力を入れずに観劇すればよい。とは言いながら、面白い席があったから購入したので、齧り付きのロージェである。ハムブルクの劇場のその戦後の民主的スタイルのその座席構造は、似たものではドィツェオパーベルリンのは知っているが、外から見たことしかなくそこに座ったことがなかったのだ。やはり私にとってのハムブルクはブラームスの生家とかの一帯と、この劇場とライスハーレはやはり欠かせないと思う。今回はエルブフィルハーモニーでペトレンコ指揮の翌晩に偶然に音楽監督が成功作を振るとなると好機に違いなかった。
それにも拘らず躊躇っていたことには触れたが、もしこれがティーレマン指揮だったりすれば文句をつけに冷やかしに出かけるのだが、ナガノの場合は恐らくペトレンコの次に多くそのオペラ指揮を聞いている音楽家であり遥かに複雑だ。要するに私はファンなのである。ヤンソンスか、ナガノかが当時のザルツブルクであり、私は勿論ナガノ派だった。それ以降もメルケルが来ていた殆どこけら落とし公演のようなメディア化されているバーデンバーデンでの「パルシファル」も聞いている。しかしその後のミュンヘンでは一度も行かなかった。新聞評などでもこれといった成功をしていなかったことが原因で、やはりこちらが期待するほどの成果を挙げていない限りは聞きたくないというのが本当のファン心理なのかもしれない ー ペトレンコ指揮「ディゾルダーテン」のそれは全く異なる絶賛だった。
2017年復活祭のクリーゲンブルク演出の初日の評価は、フランクフルターアルゲマイネ新聞では少なくとも管弦楽に関しては大変評判が良かった。これまた複雑な心境で、ミュンヘンのそれに比べてどうだろうかと異議を挟みたくなるものだった。そして今回改めてトレーラーを聞いても豪快に鳴らしていて、歌手とのバランスなどとても気になるのだ。それに引き換えミュンヘンでは今の演奏水準に比較するとまだまだ甘いのが録画からも聞き取れる。言い換えれば、ハムブルギシェスシュターツオーケストラというのがどの程度かは改めて確かめてみたい。そして齧り付きでナガノのオペラの指揮を現在の視点で再び吟味してみたくなったのだ。
歌手陣もミュンヘンのことを考えると英語圏の人が多く、その差は大きいが、今回はバラク役をヴォルフガンク・コッホが受け持つ。これだけで引き締まりそうなのだが、九月に休演したミュンヘンの敵をハムブルクで打つとは、あまり期待しない。兎に角、全体のアンサムブルにも初日メムバーでの再演ゆえに期待したい。
今後ハムブルクの劇場に足を踏み入れるとしても、ナガノが好評なうちは可能性があるとしても、それ以外にここに就任しそうな魅力的な音楽監督はと思うとあまりにも心許ない。それなら先ずはその仕事ぶりを生で確かめるのもファンのお務めだ。先の「フィデリオ」の放送やその後の評価を聞くと、悠長に機会を見ていては手遅れになるとも感じていた。ミュンヘンで機会を逃したようにである。キャリアを順調に積み重ねてきて、一度落ち目になると皆が叩き始める、やはりそうしたときにこそしっかりと見定めてあげなければいけないと思う。楽譜も一度目を通しておかないといけないかもしれない。
ボーヌの街から北西に位置するサヴィニー・レ・ボーヌの2015年物を開けた。ボーヌのそれは寝かすにしてもあまりに重くエレガントさを期待できないので好まない。またサントネとかの街より南の地域のものはあまりにも軽くあまり価値がない。そしてこれはそれらよりも良かった。エレガントな風味は申し分ない一方、あまりミネラルの深みは求められそうにはない。方向としてもサンジョルジュかそちらの傾向だとは分かった。価格も手頃なので、まあ悪くはないだろう。
参照:
ハムブルク行の計画 2018-12-15 | 生活
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般