昨日の朝の車中のニュースはストラスブルクのテロ事件関連もあった。あそこのクリスマスマーケットがいつも狙われているのは分かるが、放送エリアでは国境を超えて通勤している人が多い。そして犯人らも先ずは国境を超えるなどの逃走をする。同時に国境も検問がなされる。交通の混乱が起こるのは当然で、平素は徐行だけで済む箇所が90分ほどの待ち時間になっているということだった。クリスマスマーケットどころか経済的な影響も広範だ。
(承前)新聞にスカラ座の「アッティラ」初日の評が出ているのを読んだ。そこでも話題になっているのはアルプス以北では無いオペラの位置づけであり存在だ。そこが今回の「オテロ」でも最も語るべきところである。そこでその三幕の演奏について記録しておかなければいけない。デスデモーナとオテロの夫婦の対話が始まりカッシオの名前が出ると文字通りアレグロアジタートとなるのだが、そこからの目くるめくテムポの転換こそがまさしくヴェルディの音楽的構造である。それに続いてオテロの独唱へとこの作品のハイライトとなる。その後のカッシオの夢物語から既に触れていた三重唱への収まり感が、エピソードでもある大重唱や短い四幕へと続いて行くのは当然のことである。ある意味クライマックス後の筆捌きにヴェルディの後期の腕が見えるのかもしれない ー 実際そこでの滑稽味は「ファルスタッフ」の持ち味である。
ガイダンスではこの構造に関しては話題にはなっていなかったが、少なくともキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽が最も電光石火の演奏を繰り広げたところでもあり、流石のこの両者の関係でもこのような打てば響くようなムジツィーレンぶりを示したのはボンでのチャイコフスキーの五番から火花散る「ルスランとリュドミラ」序曲のアンコールにおいてしか知らない。どうしてこのように上手く行くのかと不思議に思っていた。
当夜はマイクロフォンがないゆえの思い切ったアゴーギクの効かせどころでもあり、楽譜上はヴァークナーのように音楽的にではなく、休止などを挟む形となっているので、度重なる加速減速は必ずしもそうした音楽的な腕の見せどころではなく、むしろありふれた劇場指揮者の職人的なマネージメント能力に頼っているだけに過ぎない。しかし、音楽は流れ、そこに劇が発生するとすれば、その絶妙なテムポの交代が劇そのものに違いない。見方によっては、歌手にも小手先の色付けを許さないほどの反射神経が求められていて、本番で四回歌って身についたものが力み無しに出てくるような演技と歌の素地がそこにあり、特筆しないといけないのはやはりヨーナス・カウフマンのその技巧でもあった。批判されるように声に魅力が欠ける部分にこそ管弦楽がしっかりと支えるような配慮が最初から聞かれていたが、ここにきてオテロの独唱までの流れは本当に魅せどころだった。
フィンレーのイアーゴが記念碑的なとの評価もあったのだが、ここでのカウフマンの歌唱は明らかにハイライトを当てられるたものだった。当然、ハルテロスにも声つくりを許さないほどの反射神経が求められたのである。劇的には夫婦の丁々発止なのだが、音楽的にそこまでのスリリングな劇を感じるのは管弦楽団のそれゆえであり、それが劇的になったということでしかない。こうした音楽と上演の関係はバイロイト祝祭劇場のものではなく、やはりイタリアオペラのそれもヴェルディのものなのだろう。
心理劇で室内劇という評価も、この回の音楽の電光石火を経験すると、全く以ってイタリアの劇の歴史に根差した音楽劇そのもので、家庭劇でありながら大劇となっていたとなる。「運命の力」ならず「音楽の力」である。ヴィデオで観察した演出上の細やかな点も可成り近い席で見ていても全く違和感のない動きとこなれた動作で以って、第一級の芝居にもなっていた。また舞台の色彩も言われたような病的な感じは全く受けなかった。しかしそれでいながら、繰り返すが、この夫婦間の葛藤からこの四幕を残す幕フィナーレの大団円への流れは本当に大歌劇でしかなく、漸く晩年のヴェルディが何を目指していたのかが明白になる三幕であった。(続く)
参照:
初日に間にあったSSD 2018-11-23 | 生活
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評
(承前)新聞にスカラ座の「アッティラ」初日の評が出ているのを読んだ。そこでも話題になっているのはアルプス以北では無いオペラの位置づけであり存在だ。そこが今回の「オテロ」でも最も語るべきところである。そこでその三幕の演奏について記録しておかなければいけない。デスデモーナとオテロの夫婦の対話が始まりカッシオの名前が出ると文字通りアレグロアジタートとなるのだが、そこからの目くるめくテムポの転換こそがまさしくヴェルディの音楽的構造である。それに続いてオテロの独唱へとこの作品のハイライトとなる。その後のカッシオの夢物語から既に触れていた三重唱への収まり感が、エピソードでもある大重唱や短い四幕へと続いて行くのは当然のことである。ある意味クライマックス後の筆捌きにヴェルディの後期の腕が見えるのかもしれない ー 実際そこでの滑稽味は「ファルスタッフ」の持ち味である。
ガイダンスではこの構造に関しては話題にはなっていなかったが、少なくともキリル・ペトレンコ指揮の管弦楽が最も電光石火の演奏を繰り広げたところでもあり、流石のこの両者の関係でもこのような打てば響くようなムジツィーレンぶりを示したのはボンでのチャイコフスキーの五番から火花散る「ルスランとリュドミラ」序曲のアンコールにおいてしか知らない。どうしてこのように上手く行くのかと不思議に思っていた。
当夜はマイクロフォンがないゆえの思い切ったアゴーギクの効かせどころでもあり、楽譜上はヴァークナーのように音楽的にではなく、休止などを挟む形となっているので、度重なる加速減速は必ずしもそうした音楽的な腕の見せどころではなく、むしろありふれた劇場指揮者の職人的なマネージメント能力に頼っているだけに過ぎない。しかし、音楽は流れ、そこに劇が発生するとすれば、その絶妙なテムポの交代が劇そのものに違いない。見方によっては、歌手にも小手先の色付けを許さないほどの反射神経が求められていて、本番で四回歌って身についたものが力み無しに出てくるような演技と歌の素地がそこにあり、特筆しないといけないのはやはりヨーナス・カウフマンのその技巧でもあった。批判されるように声に魅力が欠ける部分にこそ管弦楽がしっかりと支えるような配慮が最初から聞かれていたが、ここにきてオテロの独唱までの流れは本当に魅せどころだった。
フィンレーのイアーゴが記念碑的なとの評価もあったのだが、ここでのカウフマンの歌唱は明らかにハイライトを当てられるたものだった。当然、ハルテロスにも声つくりを許さないほどの反射神経が求められたのである。劇的には夫婦の丁々発止なのだが、音楽的にそこまでのスリリングな劇を感じるのは管弦楽団のそれゆえであり、それが劇的になったということでしかない。こうした音楽と上演の関係はバイロイト祝祭劇場のものではなく、やはりイタリアオペラのそれもヴェルディのものなのだろう。
心理劇で室内劇という評価も、この回の音楽の電光石火を経験すると、全く以ってイタリアの劇の歴史に根差した音楽劇そのもので、家庭劇でありながら大劇となっていたとなる。「運命の力」ならず「音楽の力」である。ヴィデオで観察した演出上の細やかな点も可成り近い席で見ていても全く違和感のない動きとこなれた動作で以って、第一級の芝居にもなっていた。また舞台の色彩も言われたような病的な感じは全く受けなかった。しかしそれでいながら、繰り返すが、この夫婦間の葛藤からこの四幕を残す幕フィナーレの大団円への流れは本当に大歌劇でしかなく、漸く晩年のヴェルディが何を目指していたのかが明白になる三幕であった。(続く)
参照:
初日に間にあったSSD 2018-11-23 | 生活
玄人の話題になる評論 2018-11-27 | マスメディア批評