Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シカゴ交響楽団のサウンド

2020-01-25 | 
承前)「新世界から」でも最も功績があったのがシカゴの交響楽団のサウンドとそのアンサムブルである。いつも乍のドライな響きが更に現在の低調な弦楽陣で余計に無機的な機械仕掛けのような音の絨毯を提供する。ショルティ時代ならばそれが最後のプルトまで徹底して弾き込んでくるので耳に突き刺さるような鋭い響きとなった。しかし今は上手なのを前に集めていて、下手な者が後ろに座っている。それが機械的に合わせてくるものだから揃っての腰のある音が出ない。その点ではフィラデルフィアの弦楽陣が上でコントラバス陣も強靭さがある、恐らくニューヨーカーは更に野太く歌ってくるだろう。その意味では本格的でないという事ではクリーヴランドの弦楽陣にも似ているかもしれない。

しかし金管陣はまさにシカゴブラスなので突出する。しかし決して野放図なロスのようなサウンドトラックの響きにはならない。それがビッグファイヴの歴史で伝統なのだが、敢えてトラムペット、トロムボーン陣を離して配置するとか同じアメリカン配置でもフィリーとは異なり興味深かった。しかし今回の「新世界から」においては全てがいい方へと働いていた。あまりにもマエストロが乗った指揮をするのでトラムペット主席バターランが様子を窺がっていたぐらいだ。中々現在あれだけの運動量で熱烈な指揮をすることは79歳の病気持ちの指揮者にはないのではないか?その意味では最後の舞ではないがあれだけの情熱的な指揮振りには「命を懸けた遊び」が感じられて聴衆を感動させたに違いない。

前半はシカゴ交響楽団の現在の状況を詳しく計るに充分だった。音取りも撮影したが、よくそのアンサムブルの特徴が出ていた。そして今気が付いたが以前は異なった音取りをしていたのではないかと思った。コントラバスから上に合わせて行くのはチェリビダッケ指揮にロンドン交響楽団だったと記憶するが、ショルティー時代はもう少し徹底していた印象がある。

二曲目のヒンデミット「画家マティス」が楽団の腕の見せ所であったが、フーガの扱いなどそれなりに弾いていても、ヴィオラ陣が前に出てきても明らかに群としての腕前を示すには至らなかった。顔ぶれは決して老けているどころかアジア系の若い人も多いが、MIDIで音を打ち込んでいるような流してしまうような弾き振りで、やはりコンサートマスターのロバート・チェンという人はソロでも活躍している人のようだが、到底ベルリンのダイシンとは比較にならない。少なくともマスターとしては安定はしているのかもしれないが並である。血の気の失せたゾンビ軍団の頭だ。それでもやはり管などの合わせ方は上手く、ヒンデミット曲にはやはり嬉しい。

一曲目は「さまよえるオランダ人」であったが、往路の車中でショルティー指揮の録音を聴いていた。何が最も異なるかというと自然なアーティキュレーションで、些か初期のヴァークナーかヴェルディかの差が分かり難かったのだが、それだけでもショルティ指揮よりもムーティ指揮の方が良く歌っていて見事だった。あのショルティほどの経験豊かな指揮者が何故明らかに寸足らずのヴァークナー演奏になっているかが分かり難かった。どうもあの当時のショルティー指揮シカゴの締まり切ったバスを鳴らしつつそこから上へと倍音成分を重ねて行くようなまるで正弦波のような音出しをしていたからで、それに比較するとムーティ指揮のヴァークナーは軽やかだ。言葉を変えれば嘗てのショルティー指揮と比べるまでも無く全く鳴り切らない大交響楽団になった。あの1700席ほどの最良のホールで鳴り切らない、鳴らさない。交響楽団としてその使命を放棄していた。

謂わばこれで現在のシカゴのそのアンサムブルがとてもよく分かり、またこのような初期中期のヴァークナー演奏ならばあの奈落を使ってもムーティ指揮は上手く鳴らせるのではないかと思った。嘗てクリュイタンス指揮などが比較的成功した様なサウンドが想像された。

しかし二年ほど前にバイロイトデビューの噂が出た時は到底その労働には耐えられないと思ったものなので、今回のマエストロの健康状態は異常に良かったのである。同時に現在のシカゴ交響楽団のアンサムブルは嘗てのサウンドの形骸化としても実は意外に的を得た趣味ではないかとも考えたのだ。その理由は明くる晩のアムランのピアノリサイタルで更に明白になるのであった。(続く)



参照:
2019年「気候ヒステリー」 2020-01-15 | 文化一般
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音 
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