Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

21世紀の機能和声の響き

2020-01-26 | 
承前)マルカンドレ・アムランのリサイタルでのフェインベルクには興奮させられた。前夜のムーテイ指揮の躍動感に中てられた。そして一日おいて、日曜日にはお待ちかねのユジャ・ワンとゴーティエ・カプサンとのデュオコンサートがあった。こちらはフランクフルトとは反対にバーデンバーデンへと南下した。一旦フランスへと入り再びラインを超えてドイツへと再入国する。前回の祝祭劇場への訪問は復活祭のランランとペトレンコの最初で最後の共演だったと思う。つまり今シーズンに入ってから出かけていない。先ず何よりも今復活祭の二ケタに及ぶティケットの中で只唯一回収できていないそれを受け取った。先方が受け渡しを間違えていただけなのだが、自由席であり祝祭が始まる前に回収しておきたかった。既に旧年四月中にメールで確認させておいたので全く問題はなかった。

バーデン・バーデンがこの欧州公演ツアーの一役を担ったことは興味深い。このチェロソナタでのデュオというのはそれほど大きな催しではなく、今まででも名チェリストが弾いて名ピアニストが付ける公演というのはそれほど催されていない筈だ。実際ロストロポーヴィッチも聴いているが、ショパンのそれは記憶が無い。要するにワンという名前があってもこのリサイタルに駆け付ける人は可成りの通で、チェロを弾いている人程度ではない。流石に客層は印象からすると玄人筋も多かった。

2000人仕様の上階を締めてでもあまり売り切れていなかったが、平土間やサイドバルコンは売れていた。恐らく千数百人は入ったと思う。ポリーニがバルコンを締めて数百人、ソコロフの時はもう少し入っていただろうか。舞台上の照明は暗めであった。室内楽に関しては既に駐車場に小ホールの併設案が上がっているがオーナーである市が決定してからでも時間が掛かるので数年掛かるのではなかろうか。先ずは祝祭景気が市の財政にどのように反映されるかだ。ブーレーズハウスの話しもあり大変だ。

さて曲目変更になったので前半の終わりに序奏とポロネーズがフランクに続けて演奏された。ここで漸くピアノも活躍するようになる。それほど前半のフランクではワンが伴奏に専任していたかでもあり、同時にカプサンのチェロはその台付の椅子でも分かるように床から大分上げられているために胴声とはならずにどちらかというとシェップスのマイク録音の音質のように当りのある音色で良かった。楽器も1746年産のジョゼフ・コントレラスという名器のようだ。

ここまで聴いても如何にワンが合わせていることに徹していて、それも通常の伴奏者とは全く異なる次元で合せていたことに気がついた筈だ。その分、終始チェロとの音量にも配慮されると同時にその受け渡しも見事で、それに近いのはペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの伴奏でまさに一拍一拍当てるように合わせていた。これが出来るのは伴奏ピアニストではない。

そしていよいよショパンのソナタである。この曲は良く知られている。しかしそれほど名演奏に接する機会はない。演奏技術上の問題もあるかもしれないが、何よりも曲が難しい。何が難しいか?それはこの晩のオリエンテーリングの中心主題だった。なぜ難しいか?それはこの曲が典型的な十九世紀前半のロマン主義美学様式に属すからで、その正反対に同世紀後半の後期ロマン派のフランクがあるとする話しだった。つまり後半には既に過去へと戻り、フランクの循環形式などの様に、分かり易く明晰な構造が取られたとなる。音楽で言えばブラームスなどの新古典主義ももうそこだ。文学においても詩作から長編の物語へと変化する。同じ話者から語られたファンタジーポロネーズの「忘却とは忘れることなり」の内容と同じである。ソナタとは言いながらその主題の流れを把握するのがとても難しいのである。だから中々全体の構成が認識できない。そのように作曲されているのがロマン派である。

ワンのピアノが精妙なタッチで以ってシュパンを奏でるのだが、そこでは所謂和声の澄み切った古典的なショパンを超えた音楽なので、最早バスの底音に累々と乗るのではなくて丁度当てて行くといった感じのピアニズムであって、彼女がソロではなくてこのソナタで素晴らしい成果を挙げているのはとても賢い企画であることがよく分かる。これだけ微細なソナタ演奏は今まで聴いたことが無かった。チェロも正確に発声することに留意している。

そこに詰めかけた聴衆の多くは室内楽初心者ではなかったであろう。家庭で演奏する人よりも玄人筋の人の方が多いぐらいだったかもしれないが、ああしたデュオを目の辺りにすると意識が変わる。先ず何よりも昨今のその音楽の作り方は皆共通しているかもしれない。シカゴ交響楽団のサウンド、アムランのピアノ演奏共通しているのは、その機能和声の響かせ方であり、如何に我々が二十世紀後半になされていたカラヤンサーカス団流のサウンドから遠いところに来ているかという事である。(続く)



参照:
忘却とは忘れる事なり 2019-05-14 | 音
雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
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