(承前)音楽に詳しくない人に質問された。どうしてそのアムランとかの超名人がランランどころかワンよりも有名でないの?とても鋭い質問だった。これに正しく回答するのは今回の一連の音楽会の纏めのようなものになる。特集記事を書ける内容である。しかし先ず走り乍も考えていたのは、それに関する一つの命題だ。
パン屋が再開した。まだ歯が落ち着かないので思い留まるところなくとはいかないが、平常に戻ってきている。久しぶりに沢往復をしたが、走る前は腰が重かった。頂上攻撃から一日空けただけだが、またそれに比べれば平地に近いので何でもない筈なのだが、習慣で何とか走っているだけに過ぎない。アウトバーンも数キロとなるとそれなりに遠いのだ。
ピアニストの女王って本当に居るのか。歴史的に見ればクララ・シューマンなどは素晴らしいピアニストだったと語り継がれている。そして現役の女流ではアルゲリッチと内田光子以外に思い当たらない。要するに大きな舞台でリサイタルを開けるのはこの二人以外にいない ― フランスのグリモーも入れておこうか。そこに日曜日にバーデンバーデンで聴いたユジャ・ワンが入ってくるだろうか。
前者のアルゲリッチはそのプロコフィエフ協奏曲三番で直接ワンと比較される対象である。しかしアルゲリッチは本格的にソロリサイタルを開いていた時期はそれほど長くはないだろう。現在は室内楽奏者やプロデューサーとして活躍しているに過ぎない。内田も大きな舞台を与えられているが中ホールが埋まらない。男性に眼を広げると人気があるのはソコロフとかで、場を選んで地方を上手く混ぜているがそれでも欧州ツアーを敢行し続けている。その他若手でも何人かいてそれなりに興業が成り立っている。しかし女流では隙間市場狙いでのツアーは成り立っていてもメインで回れる人はいない。
そこで考えられたのが所謂ポルノ女流ピアニストで、肌を見せたり胸を見せたりで市場を拓いた。その一人がワンだったが、それでも未だにランランほどの知名度には至らない。如何に市場開拓が難しいかという事である。実はここに音楽的な大きな大命題が隠されていて冒頭の質問に正しく答えることになるだろう。
そしてバーデンバーデンの大祝祭劇場を千数百人規模ホール扱いとして催されたデュオリサイタルは大成功だった。待ち構える聴衆の前には今まで見たことの無い女性が現れた。どうも新社長の様だった。そして「悪いお知らせではありません」と始めた。「演奏家二人ともご機嫌ですが、プログラムの順番を変えたいという事です」と断って、当初フランクのソナタで〆るところが最初に持ってこられて、続けてショパンのイントロとポロネーズそして休憩を挿んでショパンのソナタと私が考えていた通りの順序に変わった。
その効果は?なによりも本格的なピアノを最後に聴けるというのは一番大きい。そもそもこのツアーを計画するに至って、フランクは最も収まりがよく最後に持ってこられていた。このことにも留意したい。予め断っておくが、チェロのゴーティエ・カプソンは私が想像していた範囲の中での想定の最高級の奏者だった。少なくとも今回のデュオにおいては何一つ文句のつけようが無かった。それどころか二人のデュオへの姿勢は徹底していて、上手くメディアと兼ねて市場を拓いて行こうという程度の態度ではなかった。逆にその先にあるものがこの企画の奥に見え隠れしていた。
そのフランクのソナタはそもそもヴァイオリンのために書かれた古今の名曲の一つであり、私が最も生演奏で印象に強く残っているのはアイザック・スターンの演奏だった。その最後での盛り上がりと大会場の湧き方は室内楽ソナタものとして最高級のものっだった。そして今後ともそのようなヴァイオリンを弾くのはムターぐらいしかいないのではないかと思う。
その反面、その循環形式で現れる動機が分かりやすければ安い程眠りに誘われる名曲である。古今の曲の中でこの曲は眠くなる曲の筆頭で、同じくフランクの二短調交響曲と双璧でないかと思う。あの循環というのがとんでもなく眠気を誘うのは、ゴールトベルク変奏曲の轍だろうか?
しかし最初から弱音も駆使しながら、技術的な精査で眠気を誘うにはあまりにも耳を取られ集中も強いられた。とは言っても決して神経質なことは無く、まさに予定調和的な収まりと、ベートーヴェンやバッハを想起させるような音楽の旅が予定通り進む。その途上のバスの車窓からの景色を眺めながら少し意識が飛ぶぐらいであった。(続く)
参照:
雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音
パン屋が再開した。まだ歯が落ち着かないので思い留まるところなくとはいかないが、平常に戻ってきている。久しぶりに沢往復をしたが、走る前は腰が重かった。頂上攻撃から一日空けただけだが、またそれに比べれば平地に近いので何でもない筈なのだが、習慣で何とか走っているだけに過ぎない。アウトバーンも数キロとなるとそれなりに遠いのだ。
ピアニストの女王って本当に居るのか。歴史的に見ればクララ・シューマンなどは素晴らしいピアニストだったと語り継がれている。そして現役の女流ではアルゲリッチと内田光子以外に思い当たらない。要するに大きな舞台でリサイタルを開けるのはこの二人以外にいない ― フランスのグリモーも入れておこうか。そこに日曜日にバーデンバーデンで聴いたユジャ・ワンが入ってくるだろうか。
前者のアルゲリッチはそのプロコフィエフ協奏曲三番で直接ワンと比較される対象である。しかしアルゲリッチは本格的にソロリサイタルを開いていた時期はそれほど長くはないだろう。現在は室内楽奏者やプロデューサーとして活躍しているに過ぎない。内田も大きな舞台を与えられているが中ホールが埋まらない。男性に眼を広げると人気があるのはソコロフとかで、場を選んで地方を上手く混ぜているがそれでも欧州ツアーを敢行し続けている。その他若手でも何人かいてそれなりに興業が成り立っている。しかし女流では隙間市場狙いでのツアーは成り立っていてもメインで回れる人はいない。
そこで考えられたのが所謂ポルノ女流ピアニストで、肌を見せたり胸を見せたりで市場を拓いた。その一人がワンだったが、それでも未だにランランほどの知名度には至らない。如何に市場開拓が難しいかという事である。実はここに音楽的な大きな大命題が隠されていて冒頭の質問に正しく答えることになるだろう。
そしてバーデンバーデンの大祝祭劇場を千数百人規模ホール扱いとして催されたデュオリサイタルは大成功だった。待ち構える聴衆の前には今まで見たことの無い女性が現れた。どうも新社長の様だった。そして「悪いお知らせではありません」と始めた。「演奏家二人ともご機嫌ですが、プログラムの順番を変えたいという事です」と断って、当初フランクのソナタで〆るところが最初に持ってこられて、続けてショパンのイントロとポロネーズそして休憩を挿んでショパンのソナタと私が考えていた通りの順序に変わった。
その効果は?なによりも本格的なピアノを最後に聴けるというのは一番大きい。そもそもこのツアーを計画するに至って、フランクは最も収まりがよく最後に持ってこられていた。このことにも留意したい。予め断っておくが、チェロのゴーティエ・カプソンは私が想像していた範囲の中での想定の最高級の奏者だった。少なくとも今回のデュオにおいては何一つ文句のつけようが無かった。それどころか二人のデュオへの姿勢は徹底していて、上手くメディアと兼ねて市場を拓いて行こうという程度の態度ではなかった。逆にその先にあるものがこの企画の奥に見え隠れしていた。
そのフランクのソナタはそもそもヴァイオリンのために書かれた古今の名曲の一つであり、私が最も生演奏で印象に強く残っているのはアイザック・スターンの演奏だった。その最後での盛り上がりと大会場の湧き方は室内楽ソナタものとして最高級のものっだった。そして今後ともそのようなヴァイオリンを弾くのはムターぐらいしかいないのではないかと思う。
その反面、その循環形式で現れる動機が分かりやすければ安い程眠りに誘われる名曲である。古今の曲の中でこの曲は眠くなる曲の筆頭で、同じくフランクの二短調交響曲と双璧でないかと思う。あの循環というのがとんでもなく眠気を誘うのは、ゴールトベルク変奏曲の轍だろうか?
しかし最初から弱音も駆使しながら、技術的な精査で眠気を誘うにはあまりにも耳を取られ集中も強いられた。とは言っても決して神経質なことは無く、まさに予定調和的な収まりと、ベートーヴェンやバッハを想起させるような音楽の旅が予定通り進む。その途上のバスの車窓からの景色を眺めながら少し意識が飛ぶぐらいであった。(続く)
参照:
雪辱を果たす様な気持ち 2019-09-20 | 女
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音