Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

押しつけがましく無いこと

2020-01-29 | 
承前)曲順の変更があった。お目当てのカンタータ「侯妃よ、さらに一条の光を」BWV198が最後に演奏される筈だった。手元のプログラムに載っている通りだ。しかしその前に演奏される予定だったモテット「おおイエス私たち命の光よ」BWV118が最後に持ってこられた。そのコラールからの曲でカンタータを始めればとプログラムにある通り、正しくはそれで終わった方が形が良い。実際の演奏で前の死者の為のカンタータの後でどのように繋ぐか興味深く見守っていた。

本当に好奇心のある人の態度はそうであって、こうした珍しい曲のそのプログラミングの意思を探るためには、指揮者のヘルヴェッヘがどのような態度を取るかじっくり眺めていた。若干間を置いたが拍手を求めるような感じで手を下げた。その後音取りをしていたのでそれも一つの理由だろう。この指揮者ほど音楽における叙述法を語る音楽家を知らない。だからそこも見逃さなかった。

そこからその前のカンタータの出来がやはり強調された形になる。そしてこの曲の最初と最後の曲の歌詞が失われたマルコ受難曲のアリアと一致しているのである。二本のガムバとリュートが伴奏するという楽器編成となっている。その楽器編成だけでなく和声的にもとても興味深く、殆ど私達が知っているバロックオペラ的でもあり、ここまでやれば彼のヘンデルにも対抗できたと思う腕である。

カンタータがここまで面白いとは正直思ったことがなかった。そもそもレツィタティーヴも退屈であり、更にアリアとなるとダカーポで繰り返されるとかどうしようもない気持ちになる。しかしダカーポアリアはヘンデルのオペラでもそうであって、昨年になって初めてその意味を理解したのだ。演出家クラウス・グートのお蔭で、つまり彼が演出を繰り返しの時により深く先へと進むようにつけていたからだ。つまりバッハがお決まりのように受難曲でダカーポするときに意味は明白となる。三省でなくて二省へと少なくとも進む。ある意味どうしてそんな簡単なことが今まで分からなかったのかと思うのだが、ここではダカーポなしにすんなりと前へと進む。勿論テクストの付け直しとかの原文の問題であるのだ。

余談ながらソナタ形式における提示部の繰り返しなどもそこから演繹的にその意味が知れるだろう。後期バロックから古典音楽へと、まさしくこの音楽にはとても重要な要素がたくさん詰まっている。そもそもバロックにおける走句などの作曲技法もたとえそこに番号付きの通奏低音が付けられようがもう一つよく分からなかったのだが、ここで大バッハが筆を走らせるか鍵盤に指を走らせているその思考形態と雰囲気がとても理解できるようになってきた。

指揮者ヘルヴェッヘは一言も声を出していない。しかし、こうして周りを取り囲み各々ああだこうだと考えている。もうそれだけで我々のバッハなのだ。それどころか前半一曲目の「人よ、何時に良きことを告げられたり」BWV45が始まって、正直あらあらと思った。思い出したからである、その優秀な合唱に比べて管弦楽の弱いこの団体をだ。そして直ぐに夏のルツェルンで購入した高価なティケットでどれほどの演奏をアムステルダムのコンセルトヘボー管弦楽団ができるものかとやけっぱちになった。

通常の音楽表現として物足りない。更に会場の残響で二階バルコンの前から五列目でも音が滲む。CD録音のように細かなところがはっきり聴こえない。そもそも録音の時は一流ゲストの助っ人が入っているではとか詰まらないことも頭に浮かんだ。しかし、進むにつれて聴き慣れた合唱は聴こえてくる。しかしである、明らかにこちらの耳が変わってきている。それは超一流劇場のオペラ公演で慣れた耳で、特に独唱の発声とか言葉の明瞭性などの比較になる。一番はっきりしていたのが教会音楽での第一人者ぐらいに有名なバスのコーイでその歌唱力だ。確かに声は大きいが、以前よりも悪くなっているのもあるかもしれないが、御馴染になった超一流のオペラ歌手と比較すれば音楽性が大分落ちる。他のカウンターテナーのアレックス・ポッター、テノールのトーマス・ホッブス然りで、その流派などに関わらず決して超一流のオペラ上演に出れるような実力を持ち得ていない。ただ一人、殆ど無名の若いソプラノのドロテー・ミールズは声も良くまだ可能性を感じた。

そして二曲目がこれまた有名なカンタータ「我が魂なるイエスよ」BWV78で、そのデュオが聴きものだった。そしてこの曲こそ初期ルター派を思い起こさせるような、つまりあのクラナッハ時代の新興宗教の教条的な押しつけがましいカンタータである。今回はこの曲は参考に聴かなかったが、あの人を食ったようなコープマンの指揮になるのはその為である。(続く



参照:
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
それは、なぜ難しい? 2007-11-10 | 音
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