ベルリナーフィルハーモニカーのジルフェスターコンツェルトを観聴きした。全体の印象としては無難に纏めていて、音楽的な質を落とさずに適当に目的にも適っていた。キリル・ペトレンコの基本姿勢は変わらず、機会に関わらず真面目な姿勢は変わらない。管弦楽団もしっかりと練習させられたようだが、まだまだ難しいところが見受けられた。やればやるほど更に難しいところが出てくる。最終的にはその楽譜がどこまでのものを求めているかの芸術的な判断になる。
「アイゴットリズム」なども見事な演奏をしていて、管弦楽的にとても上質だ。殆どの曲は昨年初めにユース楽団とそして夏にオープンエアーでミュンヘンで演奏したものだ。管弦楽の技術が比較にならないので限が無いのだが、恐らく一つの基準はビッグファイヴが同様の曲を演奏したらという比較になるだろう。
二曲目のダマロウの歌で気が付いたのは、この歌手は余り英語が上手くなかったなということで、ドイツ語であそこまで攻めてきても、こうした楽譜化にも限界のある曲であると英語のニュアンスが付けれないと抜け落ちたものが多い。声や技術は異なってもミュンヘンでのゴルダ・シュルツの方がニュアンスに溢れていた。勿論管弦楽団も声に合わせることでは座付とは比較にならない。そのシュルツは、数時間後のメトからの中継でインタヴューに答えていた。当地で「ばらの騎士」を歌っているからだ。
「ウエストサイドストーリー」などのバーンスタイン曲でのペトレンコの指揮はとても大切だと思う。自作自演の録音と比較してみるとよく分かるのだが、その筆の運びなどはペトレンコ指揮の方が遥かによく分かる。ミュージカルに関わらずバーンスタイン作曲の歴史的な今後の評価を考える時の基準になると思われる。本人の指揮では感覚的な内容ばかりが強調され過ぎていた。
どうもショービズの高揚感が無いという意見もちらほらするのだが、良く聴くととても高度なことをしていて、殆ど制作録音のような塩梅になっている。録音しておいて何回も流すと気が付くことが大変多いだろう。作曲家が次にそこに書き込んでいく意思というか必然性が最も興味のあるところなので、その意思つまり音楽の内容が手に取るように分かることがとても重要なのだ。そもそもこうしたヒットソングにその価値とか何とか云っても始まらないのである、それよりもなぜそのように作曲されて、なぜ成功したかということの方が遥かに重要な表現内容なのである。つまり無意味な音も沢山書かれている事情というのもよく分かるのである。
なぜそこまで気が付くかというと、昨年逝去したアンドレ・プレヴィンのベルリンでの演奏会のアーカイヴを先週聴いたからである。子供の頃に昔のフィルハーモニーで聴いたフルトヴェングラーの演奏を聴いた為に高熱を出したゆえか、アメリカに渡ってシュービズの世界で生きたアレンジャーだったが、「映画の世界では拍毎に金が貰えるので八分音符で出来るだけ多くの拍節にした」とかに通じる音楽を後も指揮者としてやっていた。ロスでのシェーンベルクとのテニスの話しやその管弦楽曲の指揮録音もあった。丁度反対側からのその演奏指揮であった。
プログラム構成は啓蒙的教育的な配慮に満ち溢れていて、ここでその必然性につまりリタラシーに目覚めて、今後通常の定期演奏会にも足を運んでくれることを願って構成されている面もある。ペトレンコのプログラミングは芸術的、経済的に考え尽くされているのみならず、系統的な構成となっている。ベルリンの会場には期待する顧客層としてアンゲラ・メルケル首相が一人で訪れていた。夏のバイロイトでも一人で、旦那は体調が悪いのではとかあったが、確かに一人だった。
年末のミュンヘンからのアブラームセン作曲「ザスノークイーン」を待って、オペラ賞の投票をしておいた。初演は当然の事、そこで変わったのは新人に歌手にラッチェル・ウィルソンを書き加えておいた。さて幾つが賞を取るだろうか?
参照:
ネットパーティー予定表 2020-01-01 | 暦
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
「アイゴットリズム」なども見事な演奏をしていて、管弦楽的にとても上質だ。殆どの曲は昨年初めにユース楽団とそして夏にオープンエアーでミュンヘンで演奏したものだ。管弦楽の技術が比較にならないので限が無いのだが、恐らく一つの基準はビッグファイヴが同様の曲を演奏したらという比較になるだろう。
二曲目のダマロウの歌で気が付いたのは、この歌手は余り英語が上手くなかったなということで、ドイツ語であそこまで攻めてきても、こうした楽譜化にも限界のある曲であると英語のニュアンスが付けれないと抜け落ちたものが多い。声や技術は異なってもミュンヘンでのゴルダ・シュルツの方がニュアンスに溢れていた。勿論管弦楽団も声に合わせることでは座付とは比較にならない。そのシュルツは、数時間後のメトからの中継でインタヴューに答えていた。当地で「ばらの騎士」を歌っているからだ。
「ウエストサイドストーリー」などのバーンスタイン曲でのペトレンコの指揮はとても大切だと思う。自作自演の録音と比較してみるとよく分かるのだが、その筆の運びなどはペトレンコ指揮の方が遥かによく分かる。ミュージカルに関わらずバーンスタイン作曲の歴史的な今後の評価を考える時の基準になると思われる。本人の指揮では感覚的な内容ばかりが強調され過ぎていた。
どうもショービズの高揚感が無いという意見もちらほらするのだが、良く聴くととても高度なことをしていて、殆ど制作録音のような塩梅になっている。録音しておいて何回も流すと気が付くことが大変多いだろう。作曲家が次にそこに書き込んでいく意思というか必然性が最も興味のあるところなので、その意思つまり音楽の内容が手に取るように分かることがとても重要なのだ。そもそもこうしたヒットソングにその価値とか何とか云っても始まらないのである、それよりもなぜそのように作曲されて、なぜ成功したかということの方が遥かに重要な表現内容なのである。つまり無意味な音も沢山書かれている事情というのもよく分かるのである。
なぜそこまで気が付くかというと、昨年逝去したアンドレ・プレヴィンのベルリンでの演奏会のアーカイヴを先週聴いたからである。子供の頃に昔のフィルハーモニーで聴いたフルトヴェングラーの演奏を聴いた為に高熱を出したゆえか、アメリカに渡ってシュービズの世界で生きたアレンジャーだったが、「映画の世界では拍毎に金が貰えるので八分音符で出来るだけ多くの拍節にした」とかに通じる音楽を後も指揮者としてやっていた。ロスでのシェーンベルクとのテニスの話しやその管弦楽曲の指揮録音もあった。丁度反対側からのその演奏指揮であった。
プログラム構成は啓蒙的教育的な配慮に満ち溢れていて、ここでその必然性につまりリタラシーに目覚めて、今後通常の定期演奏会にも足を運んでくれることを願って構成されている面もある。ペトレンコのプログラミングは芸術的、経済的に考え尽くされているのみならず、系統的な構成となっている。ベルリンの会場には期待する顧客層としてアンゲラ・メルケル首相が一人で訪れていた。夏のバイロイトでも一人で、旦那は体調が悪いのではとかあったが、確かに一人だった。
年末のミュンヘンからのアブラームセン作曲「ザスノークイーン」を待って、オペラ賞の投票をしておいた。初演は当然の事、そこで変わったのは新人に歌手にラッチェル・ウィルソンを書き加えておいた。さて幾つが賞を取るだろうか?
参照:
ネットパーティー予定表 2020-01-01 | 暦
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評