Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

急に左から右へと

2020-05-09 | 
タンスに虫よけを入れた。何回か買い物で忘れていたので遅れた。毛糸に虫食いが入ると特にセーターなどは着れなくなる。流石にコートとか上着とかはやられたことが無いが、いつも脅えている。早速日付を書き込んで吊るすと、昨年のものも5月6日になっていて二日間だけ遅れただけだった。いつもギリギリの感じだが有効期限も半年になっているので、その11月ならば冬物に袖を通して、虫食いの心配も要らなくなる。これが毎年の衣替えである。

先日から腰が直ぐに痛くなる。これはまたおかしな病気かなと思っていたら、急に左から右へと痛みが移った。このようなことも初めてで何が何だか分からない。兎に角コロナのお蔭でおかしなことが続出する。どうしてこんなに数時間のうちに、つまり座る前と立ち上がる時では腰の痛みが反対側に移っていたのだ。ぎっくり腰とかその手のものならば姿勢で直ぐにぎっくりと起きてとても立てないのが何日か続く。しかしこれは動けるのだが、その酷くなる手前で留まる不調なのだ。コロナ感染以降こうした症状ばかりが続いている。これも日和見感染の一つなのだろうか?

フランクフルトの新シーズンの予定が出た。八月末の初日から九月二十日までの間、注目のオクサーナ・リニヴが再演でベルリーニの「清教徒」を振る予定になっている。一日出かけていたかと思うと残念だ。試しに少人数で何かをやる可能性はないとも言えないが、客演指揮者がなれないところで試行錯誤をするのは難しいだろうから飛んでしまうか。もし何かやるなら覗きに行ってもいいと思う。なんといっても近くでお喋りしているのは聴いているが、生では指揮したのは聴いていない。若手指揮者ヴィオッティよりも上手に演奏されるかどうかが判断基準だ。

金曜日はバイエルンの交響楽団のアーカイヴ放送がよかった。1991年に指揮者シノポリが客演した時のマーラーの交響曲七番である。先ず何がよかったかと言えば放送交響楽団のもたもたした楽器間の出入りで、十年後の急死前に聴いたシュターツカペレドレスデンを指揮した第六番の演奏を思い出した。アンサムブルとしては矢張り交響楽団だけによいのだが、共通したところも沢山あった。特にヘルクレスザールで無理して演奏しているものだから余計に窮屈そうなところもあってそれがまたいい味わいだ。その前後にマゼールの指揮でガスタイクでブラームスなどを聴いているのだが、遥かにこちらの演奏がよい。シェフがマゼールでなければ更なる客演があったのではなかろうか。その続きで生中継を聴いたバレンボイム指揮と同じようにネオロマンティシズムと呼ばれるような世代かも知れないが、とことん楽想の意味づけをしてきていて、その点では今日的なマーラー解釈の先駆的な面があるかと思った。もし生きていたらここのところのマーラーフェストの中心的な存在になっていたかもしれない。そのメロドマティックな描き方は貴重な演奏である。バーンスタインのマーラーを体験した世代であるとどうしても腑分けしたような違和感もあったのだが、その亜流の指揮者群の演奏よりも遥かに音楽史的にも収まりがよい。何回も癖になって聴いてしまいそうだ。クーベリック指揮以降初めてのこの曲の演奏だったのではなかろうか。とても趣がある。正確さとか音響とかは全く異なるのだがセマンティックという意味においてはキリル・ペトレンコ指揮のマーラーなどに引き継がれている所も少なくない。余白で放送された1977年のムジカノーヴァでのこれまた早世したマデルナを偲ぶブーレーズの曲の指揮がそれ以上に愉しみ。



参照:
ヤマ場に溜まったもの 2020-05-08 | 生活
ミュンヘンはこうありたい 2020-05-07 | 文化一般
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