発注した切手が届いた。コロナ騒動閉鎖になってから初めての発注だ。三ヶ月ほど何も発注していなかったことになる。先ずは郵便局がポストに入れる切手から。ベートーヴェンを買い足すのも目的だったが、リヒャルト・フォンヴァイツゼッカーのはどうしても欲しかった。話したこともお呼ばれしたことも無かったが顔だけはしっかり合わせたことがある。中々切手になる人とそのような経験はない。他にそれに相当する人は居たかなと考えるが思い浮かばない。同時に今まで眼を覗き込んだ中で一番深みがあった人の一人だ。お兄さんの方はあったことも無いが、ハイゼンベルクの弟子で物史学者だが、話しを聞く限りあまり賢いようには感じない。それでもやはりこの二人は優秀には違いない。
先日1935年頃の日本帝国在ベルリン大使館の写真から、リッペントロップ外相に代わる時の前後の様子を垣間見た。要するに外交関係においては一方的にナチ化がなされずに段階を踏んで表向きにナチが登場する様子だ。既に一年以上背後ではナチの手先となって外務省にリッペントロップ室が確立されていて、背後からナチイデオロギーへと変えて行ったことになるのだろう。だから親父のエルンストフォンヴァイツゼッカーなどはSSに宣誓してそうした保守基盤からの仲介となっている。戦後のニュルンベルク裁判でも「フランスにユダヤ人を置いておくよりも東方に移した方が安全と考えた」とか、「アウシュヴィッツや最終処理が殺戮の意味を持っていたとは知らなかった」と弁明しているが、これも良くある弁明の例の一つであった。
今回のコロナ騒動でも丁度あの程度の死者数ならば、当時の街からしょっぴかれた隣人ユダヤ人の比率とは変わらないと感じた。要するに「知らなかった」と気が付かないふりをしておけば過ぎ去ってしまうものなのである。同じような言い訳は今でもドイツの街中で聞こうと思えばいつでも聞けるのである。
先日のメトからの中継がよかった。亡くなったチェコの指揮者ビエロフラーヴェックの公演がとても良かった。ヤナーチェック作「カーチャ・カヴァノーヴァ」の公演だったが、演奏がとても良かった。その語法が難しいと思うが、客演の座付管弦楽団を思いのままに指揮している様子で、自国作品とは言いながら見事だった。もう少し詳しく研究してみたい。
中欧の音楽を中心に考えているとロシア音楽も遠いが、東欧の音楽も辺境の音楽にしか聞こえなくなる。それには様々な事情があって、言語への不理解だけでなくて、音楽文化的な事情も大きく関係している。上の指揮者が亡くなったのは損失なのはそういう意味からだ。ちらりと見たら昔チェコのフィルハーモニカーを聴いた時の指揮者コシュラーは1992年に引退して暫くして亡くなっているのを知った。確かにあの程度の荒っぽい指揮者となるとそこまでチェコの音楽文化の神髄というものは示せなかっただろう。
参照:
IDの危機と確立の好機 2005-04-20 | 文学・思想
吟味した暫定的なマスク 2020-04-24 | 生活
先日1935年頃の日本帝国在ベルリン大使館の写真から、リッペントロップ外相に代わる時の前後の様子を垣間見た。要するに外交関係においては一方的にナチ化がなされずに段階を踏んで表向きにナチが登場する様子だ。既に一年以上背後ではナチの手先となって外務省にリッペントロップ室が確立されていて、背後からナチイデオロギーへと変えて行ったことになるのだろう。だから親父のエルンストフォンヴァイツゼッカーなどはSSに宣誓してそうした保守基盤からの仲介となっている。戦後のニュルンベルク裁判でも「フランスにユダヤ人を置いておくよりも東方に移した方が安全と考えた」とか、「アウシュヴィッツや最終処理が殺戮の意味を持っていたとは知らなかった」と弁明しているが、これも良くある弁明の例の一つであった。
今回のコロナ騒動でも丁度あの程度の死者数ならば、当時の街からしょっぴかれた隣人ユダヤ人の比率とは変わらないと感じた。要するに「知らなかった」と気が付かないふりをしておけば過ぎ去ってしまうものなのである。同じような言い訳は今でもドイツの街中で聞こうと思えばいつでも聞けるのである。
先日のメトからの中継がよかった。亡くなったチェコの指揮者ビエロフラーヴェックの公演がとても良かった。ヤナーチェック作「カーチャ・カヴァノーヴァ」の公演だったが、演奏がとても良かった。その語法が難しいと思うが、客演の座付管弦楽団を思いのままに指揮している様子で、自国作品とは言いながら見事だった。もう少し詳しく研究してみたい。
中欧の音楽を中心に考えているとロシア音楽も遠いが、東欧の音楽も辺境の音楽にしか聞こえなくなる。それには様々な事情があって、言語への不理解だけでなくて、音楽文化的な事情も大きく関係している。上の指揮者が亡くなったのは損失なのはそういう意味からだ。ちらりと見たら昔チェコのフィルハーモニカーを聴いた時の指揮者コシュラーは1992年に引退して暫くして亡くなっているのを知った。確かにあの程度の荒っぽい指揮者となるとそこまでチェコの音楽文化の神髄というものは示せなかっただろう。
参照:
IDの危機と確立の好機 2005-04-20 | 文学・思想
吟味した暫定的なマスク 2020-04-24 | 生活