シュトッツガルト劇場の「ボリス」再演を堪能した。これだけの制作の全体像をどのように書き伝えるかはまた別の問題である。結構な体験であり、恐らく音楽劇場制作としては今迄大劇場で行われたものでは最も完成していたものだと思う。
当然のことながらストリーミングで観たものと体験とはまた異なる。その異なる所が音楽劇場の核であるとしてもそれ程間違いではないだろう。
残念ながら前プログラムのモスクワの作曲家セルゲイ・ネヴィスキーと学者の対談には間に合わなかった。途中の工事渋滞で30分以上遅れてしまったからである。それでも劇場前のウクライナ支援演奏会は遠巻きで観れた。
そこでの市長などの政治家のプーティン糾弾やウクライナ難民受け入れのメッセージは劇場内のそれで十二分に客観化された。シュトッツガルト程度でも政治家はあの程度の発言しかできないのかと思う一方、だからこそこうした高度な芸術が公的に行われることの意味がより鮮明になる。
その意味からは、音楽劇場は全ての市民に開かれて、街の中に場を作るとするミュンヘンの劇場支配人ドルニーの考えとは矛盾するところもあるかもしれない。音楽劇場を体験するにはなにもそれ程の特別な知識や経験は必要がない。しかし、それだけのハイブローな意識や能力は欠かせないだろう。文字通り教養であり、こうした高度な芸術を育み、それによって更に高度な進化した人類が社会がとなる啓蒙思想の指すところである。
そうした進化した卓越した人々が社会を世界を形成するという考え方の丁度影絵のようなものがこの「ボリス」で創造された音楽劇場空間なのである。それがスヴェトラーナ・アクセルヴィッチのソヴィエトを描いた「セコハンの時代」であり、この「ボリス」のモット―となっている。
人によれば、プログラム冊子にある様に、そこにジャック・デリダの「マルクスの亡霊」における「理念や夢やユートピアの亡霊のような進化の理論を土台として、進化の名において、敗北の為の説明をするようなもの」とするかもしれない。若しくはヴァルター・ベンヤミンなど様々だろう。
劇場空間でそうした世界観ではなくて世界そのものをどのように幻出させるか?翌日曜日のベルリンからの中継にとても好適な演説があった。そこの劇場の音楽監督バレンボイムがウクライナ国歌を指揮した、そこ迄は上の市長の演説と主旨が変わらない。しかし、バレンボイム家はベラルーシやウクライナあたりからポムロムを逃れてアルセンチンに移住したと説得力のあることを語った。これこそがまさに個人の中にあるまた家族の中のある過去である思い出だ。しかし、同時に上の市長の発言の様にロシアの政治とロシアを決して同一視してはいけないと、それどころかロシアの文化や演奏家が排斥されたりすれば、最も辛い記憶を呼び起こすと警鐘を鳴らし社会のトラウマへと作用する。まさしくここに過去、現在、未来、そして各々の視座などが交差することで初めて世界の実相が浮かび上がる。
そうした実相の描き方が「セコハンの時代」であり、そこにつけられた新曲が「ボリスゴドノフ」に合わせて依頼されてつけられたのが制作「ボリス」の音楽劇場作品である。(続く)
参照:
清濁併せ飲むのか支配人 2022-01-27 | マスメディア批評
引力場での音楽表現 2021-08-02 | 音
当然のことながらストリーミングで観たものと体験とはまた異なる。その異なる所が音楽劇場の核であるとしてもそれ程間違いではないだろう。
残念ながら前プログラムのモスクワの作曲家セルゲイ・ネヴィスキーと学者の対談には間に合わなかった。途中の工事渋滞で30分以上遅れてしまったからである。それでも劇場前のウクライナ支援演奏会は遠巻きで観れた。
そこでの市長などの政治家のプーティン糾弾やウクライナ難民受け入れのメッセージは劇場内のそれで十二分に客観化された。シュトッツガルト程度でも政治家はあの程度の発言しかできないのかと思う一方、だからこそこうした高度な芸術が公的に行われることの意味がより鮮明になる。
その意味からは、音楽劇場は全ての市民に開かれて、街の中に場を作るとするミュンヘンの劇場支配人ドルニーの考えとは矛盾するところもあるかもしれない。音楽劇場を体験するにはなにもそれ程の特別な知識や経験は必要がない。しかし、それだけのハイブローな意識や能力は欠かせないだろう。文字通り教養であり、こうした高度な芸術を育み、それによって更に高度な進化した人類が社会がとなる啓蒙思想の指すところである。
そうした進化した卓越した人々が社会を世界を形成するという考え方の丁度影絵のようなものがこの「ボリス」で創造された音楽劇場空間なのである。それがスヴェトラーナ・アクセルヴィッチのソヴィエトを描いた「セコハンの時代」であり、この「ボリス」のモット―となっている。
人によれば、プログラム冊子にある様に、そこにジャック・デリダの「マルクスの亡霊」における「理念や夢やユートピアの亡霊のような進化の理論を土台として、進化の名において、敗北の為の説明をするようなもの」とするかもしれない。若しくはヴァルター・ベンヤミンなど様々だろう。
劇場空間でそうした世界観ではなくて世界そのものをどのように幻出させるか?翌日曜日のベルリンからの中継にとても好適な演説があった。そこの劇場の音楽監督バレンボイムがウクライナ国歌を指揮した、そこ迄は上の市長の演説と主旨が変わらない。しかし、バレンボイム家はベラルーシやウクライナあたりからポムロムを逃れてアルセンチンに移住したと説得力のあることを語った。これこそがまさに個人の中にあるまた家族の中のある過去である思い出だ。しかし、同時に上の市長の発言の様にロシアの政治とロシアを決して同一視してはいけないと、それどころかロシアの文化や演奏家が排斥されたりすれば、最も辛い記憶を呼び起こすと警鐘を鳴らし社会のトラウマへと作用する。まさしくここに過去、現在、未来、そして各々の視座などが交差することで初めて世界の実相が浮かび上がる。
そうした実相の描き方が「セコハンの時代」であり、そこにつけられた新曲が「ボリスゴドノフ」に合わせて依頼されてつけられたのが制作「ボリス」の音楽劇場作品である。(続く)
参照:
清濁併せ飲むのか支配人 2022-01-27 | マスメディア批評
引力場での音楽表現 2021-08-02 | 音