プーティンがこの機に及んで自ら文化政策の指示を出した。原語情報を調べていないのでよく分からないが、これだけのものは経験したことがない。身近では2000年頃の当時の「リーディングカルチャー論」に対する「マルチカルチャ」が出されたぐらいで、その他では中国共産党の仕事ぶりやハンガリーやポーランドにおける政策、またはトルコを代表にイスラム社会でのそれなど若しくは日本会議のそれらと比較可能か。
全てに共通しているのは歴史修正主義で、それに対するマルチカルチャーがあることで止揚された以外は悉く失敗している。プーティンは我々の公開署名などを逆手に取った形で、キャンセルカルチャーに対して90年前のナチの焚書に相当すると意気をあげている。またミュンヘンを首になった音楽分野での文化政策アドヴァイザーであるゲルギーエフにモスクワのボリショイ劇場とペテルスブルクのマリンスキー劇場の合弁の検討に入る様に指示している。要するに国による文化政策の引き締めで、プーティン本人には大ソヴィエト連邦における書記長の気持ちであるのだろう。その批判の方向も、ハリウッドの映画と同時に日本の教科書を矛先にするなど、この状況での独裁者の発言とも思われない。
誰でもがこれを見て狂っているとしか思わないのだが、さてその肝心の芸術がそれ相応な表現が出来ているのかどうかを吟味するのはそれほど容易ではない。最終的には私たちの社会がそこで提出される芸術を受け入れるかそうでないかに掛かっている。それは政治においてプーティンのような歴史修正を支持するかどうかと同じ事なのである。そこに通常のジャーナリズム同様に音楽なら音楽ジャーナリズムが活躍する場がある。先ずはそこで何が起こっているかを広く分かりやすく伝えることが求められている。
プーティン政権において少なくとも音楽においてはゲルギーエフがそれを体現していて、インタヴューで語る全く同じ内容の発言以上に彼が指揮する音楽にそれが表現されているのかどうか。結論からすると表現者ゲルギーエフは無能でないので現在の立場にありそれなりに国の方針を表現している。
当然の事乍ら古典音楽であるから、デフォルメすることは許されないのだが、それでも様々な方法でそれが表現されていて最終的には音楽家のイメージとして定着している。個人的にはミュンヘンに就任時にカウンター運動を更に強く起こせなかったことを反省している。ゲルギーエフのザルツブルク音楽祭デビュー以来殆ど関心がなく、昨秋になって初めてその録音を聴いてチャイコフスキー解釈がおかしいことに気が付いたぐらいだからである。
もう一つ弁解をすればああした修正主義的なものがカウンターし難いのは、例えばドイツにおけるティーレマン指揮の音楽と同じく、玄人でも騙されてしまうといういい加減さがそこの表現にあるからなのだ。まさしくネトウヨとされるものにはこまごまとファクトチェックをしてカウンター攻撃をしておかないとより面倒なことになるというのと全く共通している。
そしてプーティンの文化関連の参与が、こうした偉大なロシアの音楽家などは今後は世界的に大きな市場である北京や上海そして旧ソヴィエトの周辺国で活躍すればいいと語っている。彼らには大ソヴィエトの夢を追うしかないのだが、そのソヴィエトの偉大な芸術の殆んどは過去のロシア帝政時代のそれを受け継いでいたに過ぎなかった。
参照:
持続性ある文化政策に 2021-11-27 | 文化一般
オーラを創造する子供達 2007-09-24 | 文化一般
全てに共通しているのは歴史修正主義で、それに対するマルチカルチャーがあることで止揚された以外は悉く失敗している。プーティンは我々の公開署名などを逆手に取った形で、キャンセルカルチャーに対して90年前のナチの焚書に相当すると意気をあげている。またミュンヘンを首になった音楽分野での文化政策アドヴァイザーであるゲルギーエフにモスクワのボリショイ劇場とペテルスブルクのマリンスキー劇場の合弁の検討に入る様に指示している。要するに国による文化政策の引き締めで、プーティン本人には大ソヴィエト連邦における書記長の気持ちであるのだろう。その批判の方向も、ハリウッドの映画と同時に日本の教科書を矛先にするなど、この状況での独裁者の発言とも思われない。
誰でもがこれを見て狂っているとしか思わないのだが、さてその肝心の芸術がそれ相応な表現が出来ているのかどうかを吟味するのはそれほど容易ではない。最終的には私たちの社会がそこで提出される芸術を受け入れるかそうでないかに掛かっている。それは政治においてプーティンのような歴史修正を支持するかどうかと同じ事なのである。そこに通常のジャーナリズム同様に音楽なら音楽ジャーナリズムが活躍する場がある。先ずはそこで何が起こっているかを広く分かりやすく伝えることが求められている。
プーティン政権において少なくとも音楽においてはゲルギーエフがそれを体現していて、インタヴューで語る全く同じ内容の発言以上に彼が指揮する音楽にそれが表現されているのかどうか。結論からすると表現者ゲルギーエフは無能でないので現在の立場にありそれなりに国の方針を表現している。
当然の事乍ら古典音楽であるから、デフォルメすることは許されないのだが、それでも様々な方法でそれが表現されていて最終的には音楽家のイメージとして定着している。個人的にはミュンヘンに就任時にカウンター運動を更に強く起こせなかったことを反省している。ゲルギーエフのザルツブルク音楽祭デビュー以来殆ど関心がなく、昨秋になって初めてその録音を聴いてチャイコフスキー解釈がおかしいことに気が付いたぐらいだからである。
もう一つ弁解をすればああした修正主義的なものがカウンターし難いのは、例えばドイツにおけるティーレマン指揮の音楽と同じく、玄人でも騙されてしまうといういい加減さがそこの表現にあるからなのだ。まさしくネトウヨとされるものにはこまごまとファクトチェックをしてカウンター攻撃をしておかないとより面倒なことになるというのと全く共通している。
そしてプーティンの文化関連の参与が、こうした偉大なロシアの音楽家などは今後は世界的に大きな市場である北京や上海そして旧ソヴィエトの周辺国で活躍すればいいと語っている。彼らには大ソヴィエトの夢を追うしかないのだが、そのソヴィエトの偉大な芸術の殆んどは過去のロシア帝政時代のそれを受け継いでいたに過ぎなかった。
参照:
持続性ある文化政策に 2021-11-27 | 文化一般
オーラを創造する子供達 2007-09-24 | 文化一般