週末に様々なことが起こっていた。ベルリンからの中継に続いて注目されたのはモスクワのボリショイ劇場の指揮者の辞任だろうか。ロシア語情報を追いかけてはいないので良くは分からないが、少なくとも公式なステートメントとしては当然の事ながら従来から戦争反対でも政権批判はしない姿勢を示した。予想通りだった。なぜ予想できたのか?
つまり、フランスにおける常任ポストを下りた。要するにロシア政府との距離も置きながら、公職から下りた。直ぐに思い浮かぶのは1934年12月のナチ政権下での指揮者フルトヴェングラーの全公職辞任である。ユダヤ人でもないヒンデミートの音楽が退廃的な音楽として上演禁止になったのを受けた行動であった。これは基本姿勢としては日曜日の指揮者バレンボイムも言葉と同じ姿勢である。政治的にあまりにも素朴であったフルトヴェングラーの誤りは、音楽の力を以て世界を美へと向けることで変わるという信心があったことである。翌春にはベルリンのフィルハーモニカーには復帰するが、そのことで二年後のニューヨークでの新天地での出発も不可能になってしまった。
さて、こうした動きがなぜ予想出来るのか。確率論的に分析するまでもなく、我々はその音楽芸術からそうした判断の基となる思考を察しているからなのである。その点では、モスクワで活躍する元ヴァイオリニストのスピヴァコフが反戦の署名をしたことは喜ばしい。若いスピヴァコフの演奏を聴いていたので、その音楽はこうした勇気ある表明をするだけの清々しい精神に満ち溢れていたからである。
既に言及したようにゲルギーエフのザルツブルクデビューでの「ボリスゴドノフ」の演奏を聴いて、当時はプーティンなど無名であったのだが、現在の欧米から追放されるその音楽を確かめていた。その点、ボリショイを辞める指揮者ソヒエフの音楽も今後ともロシア国内外で受け入れられるのも分かっていた。
音楽が最終的に評価されるのは、職人的な技術の精査だけではない。それは我々のライフスタイルに合致するかどうだかであり、それがあまりにもトレンドだけに依存するものならば直ぐに評価が落ちて忘れ去られるだけの事なのである。要するに時代に訴えかけるだけの必然性と感覚がそこに備わっているかどうかだけである。
今回のプーティンによるウクライナ侵攻で、漸くそこにおいて、如何にも表面的なものの面が剥げて、特にプーティン政権の歴史修正的な姿勢とアナログの芸術表現などが駆逐されることはとても喜ばしい。ドイツにおいては、既に公職追放である指揮者クリスティアン・ティーレマンがアピールをしたPEGIDAの反イスラム主義やAfDなどの意見を代弁してゲルギーエフの解任に関して語っている。「個人的に、政治の話はしたことがないが、よく知っていて、同業者の指揮演奏会へ喜んで行くその一人の指揮者であった。今回の件はやり過ぎで、人間味がない」と期待通りの発言をしている。基本的な人権に触れるようなアピールを出しておいて人間味もないだろう。まさに彼らはプーティンと同じ理想らしきを目指すネトウヨの人たちなのである。
そして、新文部相ロート女史は、私達が力を入れるのは民主主義の為の文化と語っている。
参照:
"WIR MÜSSEN UNS EINSETZEN FÜR DIE KULTUR DER DEMOKRATIE", Tobias Ruhland, BR vom 28.2.2022
第三次世界大戦を警告 2022-03-04 | マスメディア批評
理不尽そのものの主張 2020-07-27 | マスメディア批評
つまり、フランスにおける常任ポストを下りた。要するにロシア政府との距離も置きながら、公職から下りた。直ぐに思い浮かぶのは1934年12月のナチ政権下での指揮者フルトヴェングラーの全公職辞任である。ユダヤ人でもないヒンデミートの音楽が退廃的な音楽として上演禁止になったのを受けた行動であった。これは基本姿勢としては日曜日の指揮者バレンボイムも言葉と同じ姿勢である。政治的にあまりにも素朴であったフルトヴェングラーの誤りは、音楽の力を以て世界を美へと向けることで変わるという信心があったことである。翌春にはベルリンのフィルハーモニカーには復帰するが、そのことで二年後のニューヨークでの新天地での出発も不可能になってしまった。
さて、こうした動きがなぜ予想出来るのか。確率論的に分析するまでもなく、我々はその音楽芸術からそうした判断の基となる思考を察しているからなのである。その点では、モスクワで活躍する元ヴァイオリニストのスピヴァコフが反戦の署名をしたことは喜ばしい。若いスピヴァコフの演奏を聴いていたので、その音楽はこうした勇気ある表明をするだけの清々しい精神に満ち溢れていたからである。
既に言及したようにゲルギーエフのザルツブルクデビューでの「ボリスゴドノフ」の演奏を聴いて、当時はプーティンなど無名であったのだが、現在の欧米から追放されるその音楽を確かめていた。その点、ボリショイを辞める指揮者ソヒエフの音楽も今後ともロシア国内外で受け入れられるのも分かっていた。
音楽が最終的に評価されるのは、職人的な技術の精査だけではない。それは我々のライフスタイルに合致するかどうだかであり、それがあまりにもトレンドだけに依存するものならば直ぐに評価が落ちて忘れ去られるだけの事なのである。要するに時代に訴えかけるだけの必然性と感覚がそこに備わっているかどうかだけである。
今回のプーティンによるウクライナ侵攻で、漸くそこにおいて、如何にも表面的なものの面が剥げて、特にプーティン政権の歴史修正的な姿勢とアナログの芸術表現などが駆逐されることはとても喜ばしい。ドイツにおいては、既に公職追放である指揮者クリスティアン・ティーレマンがアピールをしたPEGIDAの反イスラム主義やAfDなどの意見を代弁してゲルギーエフの解任に関して語っている。「個人的に、政治の話はしたことがないが、よく知っていて、同業者の指揮演奏会へ喜んで行くその一人の指揮者であった。今回の件はやり過ぎで、人間味がない」と期待通りの発言をしている。基本的な人権に触れるようなアピールを出しておいて人間味もないだろう。まさに彼らはプーティンと同じ理想らしきを目指すネトウヨの人たちなのである。
そして、新文部相ロート女史は、私達が力を入れるのは民主主義の為の文化と語っている。
参照:
"WIR MÜSSEN UNS EINSETZEN FÜR DIE KULTUR DER DEMOKRATIE", Tobias Ruhland, BR vom 28.2.2022
第三次世界大戦を警告 2022-03-04 | マスメディア批評
理不尽そのものの主張 2020-07-27 | マスメディア批評