Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

呼び起こすDNAの記憶

2022-03-12 | 文化一般
承前)ムソルグスキー作「ボリスゴドノフ」はプーシキン1870 年のドラマが原作である。そこで描かれているのは1700年前後にツァーとなった題名の歴史上の人物であり、それを取り巻く人々であった。そのオペラがペテルスブルクで初演されたのが1874年。

ここで取り分け興味深いのは、そこからの改定となった初版の特殊性だろうか。権力者とその取り巻きはシェークスピア風の描かれ方がされている一方、市民だけでなく飲み屋の女将や殺めた筈の偽前ツァー継承者などがツァーと同じように描かれる。その中心には歴史を記録するピーメンがいて、オペラ舞台の規範である一日で終わるようなものではない、前後するような描かれ方となっていて、それが最も改定の原因となっている。

その時間の間隙にソヴィエトの市井の人々の記憶を描いたノーベル賞受賞作者スヴェタラーナ・アレクセイヴィッチのオムニブス小説「セコハンの時代」が舞台化されて嵌め込められる。それによって何が描かれたか。通常の上演の様に「ボリスゴドノフ」のみによって歴史ドラマのオペラとしての普遍化は可能であるが、そこに初版の失敗を埋め合わせるだけの企画が為されていた。

つまりムソルグスキーの原作が元来有する社会や意識の多層性に加えて、時間の断続に生じるデジャヴ効果に表徴されるカタストロフィーを含有させるのみならず、そこから更に20世紀のソヴィエトでの六つのエピソードを次々とそして最後には重ねて舞台上で表出させる。つまり個が衆となる。

それによって得られるのは、ムソルグスキーでの女将やゴドノフの許婚を亡くした娘などをセコハン時代の女達などとして歌わせることで、今度はその個々人の中に潜むDNAの記録として捉える。そこには各々にトラウマと希望が含まれていて、それは同時に今日から過去、過去から今日、そして今日から未来へと時間のヴェクトルが交差することで世界を認知することになる。

通常のオペラ上演は、精々今日からの視座で作曲年代の背景を描くことで作曲家の想像した舞台への思索を表出させるか、若しくは読み替えとされるように今日から作曲家の目を通して描かれる舞台などの形をとることになる。しかしそれだけで描き切れないものを「ボリスゴドノフ」が内包していたと考えて、演出が抽象化される場合も少なくないであろう。

それによって何が得られるか。地元紙シュトッツガルトの土曜日の再演での評の見出しがそれを暗示している。そこには、副見出しとして「州立オペラの舞台がウクライナ戦争に対峙して、ツァーとマニプレーションのオペラが今日にきわめて作用する。」としてある。これで十分ではなかろうか。

ヴァルシャワの様にロシアのオペラだから上演しないのはありえないとして、ロシアの歴史を扱うオペラだからこそ今日に働くのだ。それはプロジェクト「ボリス」だからなのか、それとも「ボリスゴドノフ」でもなのか。そこで初版か改正版かなどの差異が出てくる。それがプロジェクトコンセプトであり、演出の仕事なのだ。東京の新国で発注されたポーランドの演出は時流に適さなかったものなのだろうか。流石にそんなことはないだろう、少なくとも2014年以降に企画されている演出では無関係はありえない。(続く
「ボリス」、英語字幕版
#OpertrotzCorona: BORIS (English subtitles) | Staatsoper Stuttgart




参照:
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
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