Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽劇場のそのセンス

2022-03-08 | 
承前)シュトッツガルトの劇場では公演前に支配人ショーナーと作曲家のネヴスキーが合唱団を背にして舞台袖に出てきた。ウクライナ侵攻に関する挨拶だと思ったが、まず最初に陽性により欠場する歌手に関して断りがあった。

特に重要なのは、主役のボリス・ゴドノフを陥れる腹心のシュイスキー侯爵役の変更だった。そこには週末に日本でも話題になっていたヴァルシャワでの新制作「ボリスゴドノフ」出演役だったマクシム・パスターが当日朝ヴァルシャワから空路で飛び入りした。決してそのような交代が珍しい訳ではないのだが、ウクライナ出身のチャイコフスキーコンクールで優勝している歌手であり、ポーランドではそのような東京の新国劇場との共同制作などは「重要ではない」という事で中止になったとあった。ロシア音楽上演を中止するような方向に動いているのはまさしくEU内でお荷物になっているハンガリーと並ぶネトウヨ政権のやりそうなことなのである。

要するに東欧の若しくは東ドイツなどではまだまだそうした政府と市民、更に文化などとの間の違いを認識できない教育の無い人民が選挙権を行使しているのである。両国ともその民意という点では歴史的にも日本に似ている東欧の国である。勿論ウクライナはそれよりも程度が低い。

そして、モスクワ在住のネヴスキーから二言三言があって、ウクライナへの連帯ではなく侵攻犠牲者への黙想となった。そして直ぐに着席の儘でと声を掛けて、とてもスマートなやり方だったと思う。こうしたところに劇場のセンスが問われていて、それを決めるのはやはり支配人なのである。

その舞台での挨拶は早口でやや左翼風の攻撃的な話し方に思われるのだが、指揮者のエンゲルと共に音楽劇場のワークショップを主催しているだけの故モルティエ一派だけのことはあると思う。

舞台でたとえどんなに高度な芸術を上演しても、こうしたところにもそうしたセンスが活かされていないことには、音楽劇場上演とはならない。日曜の晩にはミュンヘンでは支配人のやはりモルティエ一派のドルニー支配人が出て来て「EUの歌」が演奏されていたのだが、ここでは開演前に四団体合同で劇場前で広く市民を集めて演奏されていたのである。この違いがそのあとのミュンヘンでは新制作「ピーターグライムズ」とシュトッツガルトでの「ボリス」の芸術程度の差として表れているとしても構わない。

なるほどミュンヘンの方は新制作初日でもあったので、戸外で催し物をするだけの余裕はなかったのであろうが、シュットガルトの方は音楽監督のマイスターも劇場前の楽団でチェロを弾くなどそこでの連帯を明らかにしていた。そうした顔がそこにいるのも重要で、音楽監督がベルリンにいるミュンヘン劇場とは違うのである。(続く



参照:
芸術音楽が表現するもの 2022-03-07 | 文化一般
卒無く間隙無しに 2022-02-04 | 料理
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