Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

歴史的に優位な音楽語法

2022-07-07 | 
承前)新制作「ルードンの悪魔」、木曜日に漸く第二回公演に漕ぎつけるだろうか。先月27日に初日を迎えて、この間二回の公演が吹っ飛んだ。コロナ陽性者続出だったようで、本来の配役のヴォルフガンク・コッホが復活するか。総稽古日に陽性となって、急遽代役が探された。殆ど上演されない演目なので、代役歌手が見つからずに、結局奈落で若いオーストラリア歌手が歌い、舞台の出来るミュンヘンの劇場役者が演じた。それをして、支配人は、こんなに難しい急遽の助っ人の代役が二人も見つかったと会場を笑わした。

芸術的には台詞と歌が交わることで必ずしも不利にはならなかったと概ね好評だった。勿論一人の歌手が完璧に熟せればそれ以上の効果はないだろう。少なくとも発券状況は良いようで、私が座ったクラスの席までは殆ど売り切れている。やはり悪くはなかった評と、そのあまり知られていない内容が浸透してきたからだろう。

再び5月の新フェスティヴァルの新制作「ブルートハウス」に立ち戻った。そこで再確認することは少なからずあった。それはオペラがどうあるべきかで、モンテヴェルディの主張通りであろう。セカンダプラクティカによって、ルネッサンス音楽からより劇性の強いバロックの様式へと、その通奏低音の支えによってより自由な表現が可能となった。その背景には社会情勢が横たわっているのは断るまでもない。

このことは、バロック期に於ける長短和声の確立とは別に、器楽器演奏の高度化芸術音楽化があって、多くの所謂音楽愛好家が先ずは器楽演奏によるそれを思い浮かべ、オペラ芸術がよりエンターテイメントであるというような印象を覆している。しかし、モンテヴェルディは音楽劇場の本質に関して初めから明確にしていた。

同時に、ドルニー支配人は「ルードンの悪魔」開幕前の挨拶で、ペンデレツキ作曲のこの音楽劇場作品の本当の価値に確信を持って頂けるだろうとしていた。なるほどユロウスキー指揮の音響は素晴らしいものであった。しかしそれがどのような意味を内容を持つかということでしかない。

彼のシェーンベルクが散歩中に、12音を使った作曲法でドイツ音楽の優位性が先は百年だか保障されるとしたとされている。そこでのドイツ音楽の優位性とは何を指すのか?

イタリアのモンテヴェルディが奇しくも音楽劇場の本質として語っていた。それは本当の劇場効果だ。器楽曲若しくは演奏会におけるそれを考えるときにどうなるか。劇のような情感ではなくて抽象的な概念がそこに横たわるかもしれない。それは、最終的にはベートーヴェンに於けるレトリックの粋となるかもしれない。その意味からもペンデレツキの作品は器楽曲にしても音響的な洗練はあっても、ハースに於ける様な音楽語法のそれはない。



参照:
作品再演の普遍的価値 2022-07-04 | 文化一般
「シーズン最高の初日」の意 2022-05-24 | 文化一般
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