(承前)ティテュス・エンゲル指揮のモンテヴェルディには批判があった。それは練習不足で和声が美しく出ていないというような要旨だった。特にフィナーレに於けるマドリガル「ニンフの嘆き」は重要な枠組みとなっていた。実は私自身も古楽も専門としているエンゲル指揮で素晴らしい響きが聴けると思っていたのだった。
ハイデルベルクの元音楽学研究所の女史は、モンテヴェルディの所謂音楽史的なプリマからセカンダプラクティカへとルネッサンスからバロックへの移り変わりへと、作曲家の文章を利用してその活動を生き生きと描いている。つまり、歌詞がどのように音楽を制するかの議論である。モンテヴェルディは、歌詞が感情を込めて歌われるところで音楽の規則を越えてくる、その時にそれを聴く人がいることで、初めて表現が完成するという主張を、後期のマドリガル作品への批判に対して放っている。前半は比較的馴染みのある考え方であるが、後半は最早劇場表現の本質ではなかろうか。
つまり、対位法的な法則の基礎ともなっていた歌詞の使われ方ではなくて、器楽による和声低音の確立によって、より自由なイントネーションと台詞からの叙唱となって更に歌となるというオペラの基礎が築かれる源泉にマドリガルがあるとなる。
それが具体的に何を示すかというと不協和音が怒りや恐れの感情の高まりによって頻発してくることになる。しかし作曲家は、元々の規則性があるからこそ逸脱であり表現であると念を押している。
「ニンフの嘆き」では、先ずは三声の男声をバスが支える導入があるのだが、ここが味噌だった。上での違和感は、そこでの「ニムフの痛み」での不協和へとハースの楽曲のフィナーレに続いて綴られる。ここが全てではなかったか。一番難しいのはまさに三百五十年間の歴史の流れを繋げる音響である。そこに大きな断層が横たわれば、モンテヴェルディで挟み込むコンセプトも無意味となる。
作曲のハースがインタヴューで語っていたのはこのフィナーレの終わり方で、そのフィナーレがまさしく「ドアを閉められる」のであって、そのもの事象は消されない。モンテヴェルディで始まり、終わりではもう一度「昔々」の様に完全に枠にはめ込む形になっていて、それは「ポッペアの戴冠」同様なフィナーレの印象だった。そこにおいての続くテトラコードの下降するバスのオスティナートの響かせ方は当然の事乍ら嘆きの典型になる様に、ここでは十分な苦みが生じているのは当然であり、昇華されたりするものではない。
それは五声の響かせ方でも決まる。ここで指揮者エンゲルがなぜに音楽劇場指揮に於ける第一人者のなのか、そのノウハウが否応なく示されたことになるだろう。その軋み方や風合いは絶妙な苦みだったのだ。(続く)
参照:
モーツァルト所縁の劇場 2022-05-21 | 音
芸術音楽で可能となること 2022-05-19 | マスメディア批評
ハイデルベルクの元音楽学研究所の女史は、モンテヴェルディの所謂音楽史的なプリマからセカンダプラクティカへとルネッサンスからバロックへの移り変わりへと、作曲家の文章を利用してその活動を生き生きと描いている。つまり、歌詞がどのように音楽を制するかの議論である。モンテヴェルディは、歌詞が感情を込めて歌われるところで音楽の規則を越えてくる、その時にそれを聴く人がいることで、初めて表現が完成するという主張を、後期のマドリガル作品への批判に対して放っている。前半は比較的馴染みのある考え方であるが、後半は最早劇場表現の本質ではなかろうか。
つまり、対位法的な法則の基礎ともなっていた歌詞の使われ方ではなくて、器楽による和声低音の確立によって、より自由なイントネーションと台詞からの叙唱となって更に歌となるというオペラの基礎が築かれる源泉にマドリガルがあるとなる。
それが具体的に何を示すかというと不協和音が怒りや恐れの感情の高まりによって頻発してくることになる。しかし作曲家は、元々の規則性があるからこそ逸脱であり表現であると念を押している。
「ニンフの嘆き」では、先ずは三声の男声をバスが支える導入があるのだが、ここが味噌だった。上での違和感は、そこでの「ニムフの痛み」での不協和へとハースの楽曲のフィナーレに続いて綴られる。ここが全てではなかったか。一番難しいのはまさに三百五十年間の歴史の流れを繋げる音響である。そこに大きな断層が横たわれば、モンテヴェルディで挟み込むコンセプトも無意味となる。
作曲のハースがインタヴューで語っていたのはこのフィナーレの終わり方で、そのフィナーレがまさしく「ドアを閉められる」のであって、そのもの事象は消されない。モンテヴェルディで始まり、終わりではもう一度「昔々」の様に完全に枠にはめ込む形になっていて、それは「ポッペアの戴冠」同様なフィナーレの印象だった。そこにおいての続くテトラコードの下降するバスのオスティナートの響かせ方は当然の事乍ら嘆きの典型になる様に、ここでは十分な苦みが生じているのは当然であり、昇華されたりするものではない。
それは五声の響かせ方でも決まる。ここで指揮者エンゲルがなぜに音楽劇場指揮に於ける第一人者のなのか、そのノウハウが否応なく示されたことになるだろう。その軋み方や風合いは絶妙な苦みだったのだ。(続く)
参照:
モーツァルト所縁の劇場 2022-05-21 | 音
芸術音楽で可能となること 2022-05-19 | マスメディア批評