(承前)泣きべそでは廻りを眺める余裕もなかった。新制作「アシジの聖フランシスコ」の四回目の公演の一部が終わった時だ。演奏としては、初日の緊張感も三回目の手馴れた感じも無かったのだが、より心打たれる演奏だった。それはこちらも字幕でも確認しながら、言葉の意味合いと寄り添う音楽のそのモードを逐一確認したからでもある。週末の最終公演までにまだ少し時間があるので更に理解を深められるか。手元の印字された楽譜があれば右へ左へと頁を捲って、その配分の流れを行ったり来たりして理解が早かったのだが残念である。
正直ここまで演出家と指揮者が協力して制作を練っているとは気が付かなかった。なるほど演出によって楽曲の解釈まで変えるのを厭わないとする指揮者エンゲルは、演出によって音楽を合わせていくペトレンコよりも、更に深読みをしている。
そもそも一景の十字架の場面で宗教的な舞台意匠を避けてボイスのウサギを使ったのはシュリンゲンジフ演出「パルジファル」がデューラーのそれから説き起こしたその先を行っている。初日の演出批評は必ずしも絶賛一色ではなかったが、会場は湧いた。
そのことは既に何回も言及しており、二景のラウダーテの祈りへとその意味合いが強化されている。聴衆の殆んどの人が、埋葬での見送りを自身のこととして意識していて、とても自然な祈りの感情が三景の籟病者への口づけによる恐怖心へと繋がっている。
そこに天使が下りてくるのだが、今回はここにも注目した。歌は若干不安定な面もあったのだがその表現は熟れて洗練されてきている。前回までで収録が終わったのか、そうした緊張感も抜けていたのだが、その音楽の方向性ははっきりしてきた。
籟病者が他人事とならないのと同じく、天使の語りかけも決して中性的なものではなく女性的なものであると、これは二部、三部へと繋がっていくのだが、やはり作曲家のマザーコムプレックスが其処に聴こえるようになってきた。
指揮のエンゲルは客演指揮であり、重なる上演の中でペトレンコ指揮のそれが自然に毎回違ってくるように、歌手の調子などに合わせて、出来る限り緊張を解いて、ここぞというところに山を持って来る様な指揮をしている。それが楽員の気迫を集めると同時にとても大きな感動を呼び起こす。
一部で終わると悲しくて仕方がなかった。そうして皆が集まって森へ巡礼に行く時であるが、私はインフォメーション受付で来週の再開を期して劇場を後にした。そして地下道でいつもの物乞いのオヤジに挨拶をした。(続く)
参照:
聖人の趣の人々 2023-07-01 | 文学・思想
音楽劇場的な熱狂とは 2023-06-29 | 音
正直ここまで演出家と指揮者が協力して制作を練っているとは気が付かなかった。なるほど演出によって楽曲の解釈まで変えるのを厭わないとする指揮者エンゲルは、演出によって音楽を合わせていくペトレンコよりも、更に深読みをしている。
そもそも一景の十字架の場面で宗教的な舞台意匠を避けてボイスのウサギを使ったのはシュリンゲンジフ演出「パルジファル」がデューラーのそれから説き起こしたその先を行っている。初日の演出批評は必ずしも絶賛一色ではなかったが、会場は湧いた。
そのことは既に何回も言及しており、二景のラウダーテの祈りへとその意味合いが強化されている。聴衆の殆んどの人が、埋葬での見送りを自身のこととして意識していて、とても自然な祈りの感情が三景の籟病者への口づけによる恐怖心へと繋がっている。
そこに天使が下りてくるのだが、今回はここにも注目した。歌は若干不安定な面もあったのだがその表現は熟れて洗練されてきている。前回までで収録が終わったのか、そうした緊張感も抜けていたのだが、その音楽の方向性ははっきりしてきた。
籟病者が他人事とならないのと同じく、天使の語りかけも決して中性的なものではなく女性的なものであると、これは二部、三部へと繋がっていくのだが、やはり作曲家のマザーコムプレックスが其処に聴こえるようになってきた。
指揮のエンゲルは客演指揮であり、重なる上演の中でペトレンコ指揮のそれが自然に毎回違ってくるように、歌手の調子などに合わせて、出来る限り緊張を解いて、ここぞというところに山を持って来る様な指揮をしている。それが楽員の気迫を集めると同時にとても大きな感動を呼び起こす。
一部で終わると悲しくて仕方がなかった。そうして皆が集まって森へ巡礼に行く時であるが、私はインフォメーション受付で来週の再開を期して劇場を後にした。そして地下道でいつもの物乞いのオヤジに挨拶をした。(続く)
参照:
聖人の趣の人々 2023-07-01 | 文学・思想
音楽劇場的な熱狂とは 2023-06-29 | 音