Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

森の中に木を隠す

2023-07-29 | 文化一般
NASに繋いでいる二つのHDDを掃除している。容量が一杯になっているからで、重なっているファイルなどを一つに集めた。そうした事務的なデータ数は限られるのだが、そこにオーディオとヴィデオが入ると直ぐに一杯になる。1TGと3TGを予備的なストレージとしている。以前はそれらが全てだったのだが、流石にNASは16TGと一桁違う。

先日のバイロイト音楽祭初日「パルジファル」の批評を読んでいる。あまりこれといったものはないのだが、なによりも共通しているのは、舞台神聖劇の意味に関して、最早環境リベラリストが溜飲を下げるのが今回の公演のハイライトのシーンだなるところの見解である。つまり聖杯として地面に投げ落として割るのはコバルトでありリチウムの玉なのだ。ここに全てが集約していたのは分かった。そもそも音楽的にもおかしかった山だったのだが、私が直後に呟いたようにそこにはミトスがあった。「ネトウヨミトス」と書いたが、より危ない「環境テロミトス」かもしれない。そう言えばバイロイト音楽祭では客席からは舞台に上がれないのでテロの対象にはなっていないのかもしれない。

今回各紙で再び顧みられた2004年のシュリンゲンジーフ演出は、ある意味今回の制作の意味を反比例させている。改めて当時の新聞評などに目を通す。初日の様子で玄人などの座っている席の周辺は総立ちになったと書いてある。同時に強いブーがスキャンダルになった。個人的には第二回目公演を観たのだが、状況は似ていてどちらかといえばブーへのカウンターの方が多かった気がする。

フランクフルトアルゲマイネ新聞が書くようにそこでだけ上演が許されていた劇場での初演から八回目の制作は単刀直入に創作者の創意を呈示したとなって、これほどリダンダンシーのフェールセーフも無い演出はなかったとされ、ゲッツ・フリードリッヒの1982年制作の問いかけにもすべて応えていたとされている。

そこで何が起こっていたかは明らかで、ごったな意匠の中で、何かが起こっていた。それはヨゼフ・ボイスの活動から演繹されていた。当時はそれを示すためのデューラーのウサギが使われていて、それもプロジェクターによって映し出されることで、不慣れな聴衆には情報過多とされたのだった。その分舞台を黒い光が照らし出したのだが、粗20年前の聴衆には眼がついて行かなかったっというのが事実だろう ― 楽匠自身、聖杯など抽象的にあるべきとしている。

それに合わせてブーレーズ指揮の奈落は極力音色を抑えたグレーな色での構造が示されたと書かれている。勿論この作品を楽譜が読める指揮者が振れば今回のような音色混合とはならない。これだけで如何に今回の制作がアンチの制作だけでしかなかったことかが分かるだろう。



参照:
伝統という古着と素材の肌触り 2004-12-03 | 文化一般
デューラーの兎とボイスの兎  [ 文化一般 ] / 2004-12-03
コメント
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