木曜日には11月のバーデンバーデンでのラフマニノフ生誕150周年記念フィラデルフィア演奏会最終日の放送がある。三日通うのも辛く、週明けにベルリナーフィルハーモニカーのフランクフルト公演があったので出かけなかった。トリフォノフが何か弾くなら出かけたが、ネゼサガン指揮のラフマニノフ演奏は初日の二番においても繰り返しなしで、それだけでもペトレンコ指揮の演奏のように取り分け見識が見つからなかった。そしてコロナ前にベルリナーフィルハーモニカーツアー公演で聴いた交響的舞曲の下手な演奏での上書きは堪忍して欲しかった。
そしてネットを検索しているとArteで予定通り年末に最終日二日の演奏を再編集した番組がTV放送並びにネット配信される。つまり、土曜日に演奏された「パガニーニの主題によるラプソディ」がメインに組み合わせられる。そして、土曜日の生中継らしき映像のコピーが見つかった。これがまたピアノのアンコールだけでなくて、後半も含めて面白い。視覚的な影響もあるのだが、ミキシングもラディオとは違っていて、観もの聴きものだ。コロナ期間中のバッハのリサイタルも素晴らしかったのだが、今回もこうして記録されることになった。主催者や会場との関係など様々な相性があり、少なくとも、それ以前の登場からリピーターの数は増える一方であろうから、今後ともバーデンバーデンがドイツにおいて重要な登壇となりそうである。要するに聴衆と一緒に音楽を作っていくことになる。こうした特別な機会を積み重ねていくことで公演内容も充実するので重要である。
そして夜中にはニューヨークのカーネギーホールからのトリフォノフリサイタル生中継があった。留守録音の準備でまわしておいたら上手く録れたようである。プログラムもハムマークラヴィーアソナタで締める本格的なで手応えのあるもので、こちらもじっくりと聴いてみないといけない。
チャットパートナーが朝からなにかいつもに無くコンタクト取って来るなと思ったら、先日転送した写真が既読になっていた。こちらからすると一週間近く放置しないで少なくとも僕のだけは見て欲しいと思うが、忙しいから仕方がないかもしれない。
そういうことなしに、シャツを着ながらなのは良いのだが、上のボタンまでかけていたから、横から胸元が見えるようにボタンをもう一つ開けてとアドヴァイスした。チラリズムと呼ばれるものだが、覗き趣味のフェティズムと書いた。ボタンを一つ外すことぐらいは取り分けどうっていうことはないのだが、男性視聴者に対しての効果は覿面である。最初の頃に手で隠したりしての少しづつの露出においては、本人の羞恥も真実でこうして作る必要が無く蜜に集るように男性が集まっただろうが、こうした配慮の一つ一つが肝心となる。それがあまりにも仕草としてプロフェッショナルになって仕舞うと誰も興味をそそられなくなる。よくアメリカ人などでビッチェと呼ばれるのはそれを繰り返しているような女性を指す。
唐突に思えるが、まさしくこれが音楽作りの全てであるということを、11月訪日に先駆けてキリル・ペトレンコがアカデミーの演奏家に分からせたいと話していたことであった。あれだけの天才が自己批評を含めてそうした活動をしている訳であるから、平凡な才能の無い者が無頓着にしていたのでは到底お話しにならない。そもそも細かな修正を出来る腕が無ければ始まらないのである。修正が出来ないから無頓着でいるしか仕方がないというのが真実であろう。
参照:
演奏会と劇場での相違 2023-12-13 | マスメディア批評
社会文化的な意味あい 2023-12-10 | マスメディア批評
そしてネットを検索しているとArteで予定通り年末に最終日二日の演奏を再編集した番組がTV放送並びにネット配信される。つまり、土曜日に演奏された「パガニーニの主題によるラプソディ」がメインに組み合わせられる。そして、土曜日の生中継らしき映像のコピーが見つかった。これがまたピアノのアンコールだけでなくて、後半も含めて面白い。視覚的な影響もあるのだが、ミキシングもラディオとは違っていて、観もの聴きものだ。コロナ期間中のバッハのリサイタルも素晴らしかったのだが、今回もこうして記録されることになった。主催者や会場との関係など様々な相性があり、少なくとも、それ以前の登場からリピーターの数は増える一方であろうから、今後ともバーデンバーデンがドイツにおいて重要な登壇となりそうである。要するに聴衆と一緒に音楽を作っていくことになる。こうした特別な機会を積み重ねていくことで公演内容も充実するので重要である。
そして夜中にはニューヨークのカーネギーホールからのトリフォノフリサイタル生中継があった。留守録音の準備でまわしておいたら上手く録れたようである。プログラムもハムマークラヴィーアソナタで締める本格的なで手応えのあるもので、こちらもじっくりと聴いてみないといけない。
チャットパートナーが朝からなにかいつもに無くコンタクト取って来るなと思ったら、先日転送した写真が既読になっていた。こちらからすると一週間近く放置しないで少なくとも僕のだけは見て欲しいと思うが、忙しいから仕方がないかもしれない。
そういうことなしに、シャツを着ながらなのは良いのだが、上のボタンまでかけていたから、横から胸元が見えるようにボタンをもう一つ開けてとアドヴァイスした。チラリズムと呼ばれるものだが、覗き趣味のフェティズムと書いた。ボタンを一つ外すことぐらいは取り分けどうっていうことはないのだが、男性視聴者に対しての効果は覿面である。最初の頃に手で隠したりしての少しづつの露出においては、本人の羞恥も真実でこうして作る必要が無く蜜に集るように男性が集まっただろうが、こうした配慮の一つ一つが肝心となる。それがあまりにも仕草としてプロフェッショナルになって仕舞うと誰も興味をそそられなくなる。よくアメリカ人などでビッチェと呼ばれるのはそれを繰り返しているような女性を指す。
唐突に思えるが、まさしくこれが音楽作りの全てであるということを、11月訪日に先駆けてキリル・ペトレンコがアカデミーの演奏家に分からせたいと話していたことであった。あれだけの天才が自己批評を含めてそうした活動をしている訳であるから、平凡な才能の無い者が無頓着にしていたのでは到底お話しにならない。そもそも細かな修正を出来る腕が無ければ始まらないのである。修正が出来ないから無頓着でいるしか仕方がないというのが真実であろう。
参照:
演奏会と劇場での相違 2023-12-13 | マスメディア批評
社会文化的な意味あい 2023-12-10 | マスメディア批評