木曜日19時からミュンヘンのフラウンキルへからの生中継があった。市役所の裏側の二つ玉葱の教会で、観光地ミュンヘンを体現する。
今年500周年を祝った催し物の最後を飾った。音楽監督ユロウスキー指揮でバッハのト短調ミサ曲が司教臨席の下で演奏された。二時間ぐらいの距離であったら出かけたかもしれない。プロテスタント音楽の家元のような大バッハがザクセン宮廷に就職活動の為に書いたカトリックのミサ曲である。
オルガンに合わせて音取りをしてテオルベやナチュラルホルンなどが活躍する。始まり前の挨拶で何故締めくくりに本拠の劇場ではなく、区画外れのこの教会で演奏するのかの説明があった。それは事の初めには当該楽団は宮廷だけでなく教会で演奏していたからだとして、当時のルッソーらが音楽監督であったということである。
そこで演奏された音楽はその後のバロック音楽ではあるがそれなりに配慮した絞った楽器編成で教会の音響がマイクを通して拾われていたのだが、音楽的には面白かった。
20時過ぎには番組が終わったので、なぜ早かったのかはもう一度内容を確認してみなければいけないのだが、ユロウスキーも21時から今度はケルンから中継録音が放送された指揮者エンゲルと同世代で、コンセプトに合わせて音楽を作ってくるところも共通している。そして二人とも美学を学んでいる。
こういう傾向がなぜこの世代に共通しているかは改めて考察するとして、この二人に共通しているのは新しい音楽を多く指揮していることで、勿論そうした音楽創作上のコンセプトだけでなく、演奏の場とかそうした環境への意識が高い。
例えばウクライナ侵攻後の露西亜人音楽家排除への反対アピールを前者が主唱して、後者も十番目ぐらいにサインをしていたことでもそれは証明されている。因みに長くご無沙汰していた後者からベラルーシでの釈放を求めての署名活動のメールが回ってきたことで久しぶりの関係が構築されたことも記憶に新しい。
さてそうしたコンセプトの上での演奏ではあるのだが、そこで決しておかしなことをやらず、イデオロギー的なことをそこで強調しないのもこの指揮者がバイエルン州の音楽監督に任命された所以である。その点もエンゲルも共通していて、決して音楽や演出を曲げるようなことはしない。
そこを例えば音楽劇場の演出などで考えて貰うと分かりやすいが、一時持て囃された音楽劇場演出などはまさしくその作品の歴史的背景どころか、その音楽の本質を無視してでも自らの主張の道具化するようなものが多かった。所謂レジ―テアターという悪い印象を与えた原因になったものである。
そしてそうした音楽表現もすくなからずあった。そして今も存在する。芸術音楽において、もしその様な枠組みでしか影響を与えないならば、そのような古典などは最早ゴミ箱にし捨てるか、エンタメに利用するしか役に立たないのである。
参照:
変わった指揮と座付き楽団 2023-10-14 | 音
ロマティック交響曲トリオ 2023-09-11 | アウトドーア・環境
今年500周年を祝った催し物の最後を飾った。音楽監督ユロウスキー指揮でバッハのト短調ミサ曲が司教臨席の下で演奏された。二時間ぐらいの距離であったら出かけたかもしれない。プロテスタント音楽の家元のような大バッハがザクセン宮廷に就職活動の為に書いたカトリックのミサ曲である。
オルガンに合わせて音取りをしてテオルベやナチュラルホルンなどが活躍する。始まり前の挨拶で何故締めくくりに本拠の劇場ではなく、区画外れのこの教会で演奏するのかの説明があった。それは事の初めには当該楽団は宮廷だけでなく教会で演奏していたからだとして、当時のルッソーらが音楽監督であったということである。
そこで演奏された音楽はその後のバロック音楽ではあるがそれなりに配慮した絞った楽器編成で教会の音響がマイクを通して拾われていたのだが、音楽的には面白かった。
20時過ぎには番組が終わったので、なぜ早かったのかはもう一度内容を確認してみなければいけないのだが、ユロウスキーも21時から今度はケルンから中継録音が放送された指揮者エンゲルと同世代で、コンセプトに合わせて音楽を作ってくるところも共通している。そして二人とも美学を学んでいる。
こういう傾向がなぜこの世代に共通しているかは改めて考察するとして、この二人に共通しているのは新しい音楽を多く指揮していることで、勿論そうした音楽創作上のコンセプトだけでなく、演奏の場とかそうした環境への意識が高い。
例えばウクライナ侵攻後の露西亜人音楽家排除への反対アピールを前者が主唱して、後者も十番目ぐらいにサインをしていたことでもそれは証明されている。因みに長くご無沙汰していた後者からベラルーシでの釈放を求めての署名活動のメールが回ってきたことで久しぶりの関係が構築されたことも記憶に新しい。
さてそうしたコンセプトの上での演奏ではあるのだが、そこで決しておかしなことをやらず、イデオロギー的なことをそこで強調しないのもこの指揮者がバイエルン州の音楽監督に任命された所以である。その点もエンゲルも共通していて、決して音楽や演出を曲げるようなことはしない。
そこを例えば音楽劇場の演出などで考えて貰うと分かりやすいが、一時持て囃された音楽劇場演出などはまさしくその作品の歴史的背景どころか、その音楽の本質を無視してでも自らの主張の道具化するようなものが多かった。所謂レジ―テアターという悪い印象を与えた原因になったものである。
そしてそうした音楽表現もすくなからずあった。そして今も存在する。芸術音楽において、もしその様な枠組みでしか影響を与えないならば、そのような古典などは最早ゴミ箱にし捨てるか、エンタメに利用するしか役に立たないのである。
参照:
変わった指揮と座付き楽団 2023-10-14 | 音
ロマティック交響曲トリオ 2023-09-11 | アウトドーア・環境