寒い、籠り部屋への避難を考える。階下でヒーターを強くかけるなら狭いところに籠った方が効率が良い。しかし日が明けると寒気は緩む。氷点下から抜け出る。12月であるから陽射しがないうえに、零下数度はあまりこのワイン街道ではない。年が明けての陽射しが射す厳寒とはまた異なる。特に階下は陽射しが勝負で、屋根の雪で明るくても直射日光とは異なる。流石に走りに行く危険は冒さなかった。明けてからも足元が悪くても氷点下とは違う。
これだけ冷えるとヒーターにくっついていても寒い。小さな部屋に籠りたくなる由縁である。仕方がないのでカロリーのあルヘルムートコールの好物に濃くのあるリースリングを合わせた。それでも温まらないので熱いダージリンを淹れて、トリノから中継されたベルクの作品六を大きな音で流す。チョコレートでも甘いものを摘ままなければ落ち着かない。
先日取り出したワインの資料をどのようにしようか考察中である。肝心なのは寝かしてあるワインに関わる収穫から醸造、貯蔵後のイムプレッションで、そこに様々な情報が詰まっている。これを消費する方が上手に関連付けれると、飲み頃の選定や熟成の方向性も瓶を開けずに予想可能となる。だからグランクリュワインに関して四半世紀程は保存して目を通さないと為にならない。それ以前に購買価格なども話しの種にはなる。醸造所ごとに整理しておかないと駄目なのだが、すると資料整理が面倒になるので、三年おきぐらいに閉じておくことになる。その様なことをしている時間があるだろうか。
就寝前に1986年のサイモン・ラトル指揮の実況中継の話しが出ていた。前年には初訪日があって話題になっていてNHKでも放送されたのだろうが記憶になかった。探してみるとエアーチェックのカセットがあった。流してみようと思うとデッキのゴムが伸びているようで動かない。暇な時にでも修理しようと思う。
その頃の事情を改めて最初の伝記本にあたると、背後事情に詳しい。日本公演中にフィルハーモニア管弦楽団と上手く行かなかったという節は、改めて読み返すと、上で放送された中継では既にクーリングオフ状態になっていて、1983年までのムーティから1987年以降のシノポリへとの流れが決まっていたとされて、既にその後任のサロネンの名前も出ると同時に当時のシベリウスなどの実況中継の録音も手元に残っている。
その時期には合衆国でのデビューを終えて、指揮者ジュリーニの後任としての名前が挙がっているにも拘らず拒否して、ベルリンでのマーラー十番でのデビューも予定されていたのだが、こちらは楽団の準備不足から六番に変更されたということだった。
クリーヴランド管弦楽団での1985年の二度目の登壇ではデビュー時のように明晰に振ることはなくなっていて、更にストラヴィンスキーで管楽器奏者を横に並ばせるなどのアンサムブル上無理な配置をさせたりで、馬鹿にされたと不平が上がったとされて決別。同様にフィルハーモニアとの日本公演では無理強いが決別に繋がったとなる。
これに関しては既に当時柴田南雄が指摘していた「最期まで変わらない」との批判が分からず仕舞いでいたのだが、ベルリンのシェフになってから初めてフィルハーモニーで聴いた指揮技術上の問題がそこに連なっていたとは長く理解できずにいた。今は漸くそれを理解している。
参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音
これだけ冷えるとヒーターにくっついていても寒い。小さな部屋に籠りたくなる由縁である。仕方がないのでカロリーのあルヘルムートコールの好物に濃くのあるリースリングを合わせた。それでも温まらないので熱いダージリンを淹れて、トリノから中継されたベルクの作品六を大きな音で流す。チョコレートでも甘いものを摘ままなければ落ち着かない。
先日取り出したワインの資料をどのようにしようか考察中である。肝心なのは寝かしてあるワインに関わる収穫から醸造、貯蔵後のイムプレッションで、そこに様々な情報が詰まっている。これを消費する方が上手に関連付けれると、飲み頃の選定や熟成の方向性も瓶を開けずに予想可能となる。だからグランクリュワインに関して四半世紀程は保存して目を通さないと為にならない。それ以前に購買価格なども話しの種にはなる。醸造所ごとに整理しておかないと駄目なのだが、すると資料整理が面倒になるので、三年おきぐらいに閉じておくことになる。その様なことをしている時間があるだろうか。
就寝前に1986年のサイモン・ラトル指揮の実況中継の話しが出ていた。前年には初訪日があって話題になっていてNHKでも放送されたのだろうが記憶になかった。探してみるとエアーチェックのカセットがあった。流してみようと思うとデッキのゴムが伸びているようで動かない。暇な時にでも修理しようと思う。
その頃の事情を改めて最初の伝記本にあたると、背後事情に詳しい。日本公演中にフィルハーモニア管弦楽団と上手く行かなかったという節は、改めて読み返すと、上で放送された中継では既にクーリングオフ状態になっていて、1983年までのムーティから1987年以降のシノポリへとの流れが決まっていたとされて、既にその後任のサロネンの名前も出ると同時に当時のシベリウスなどの実況中継の録音も手元に残っている。
その時期には合衆国でのデビューを終えて、指揮者ジュリーニの後任としての名前が挙がっているにも拘らず拒否して、ベルリンでのマーラー十番でのデビューも予定されていたのだが、こちらは楽団の準備不足から六番に変更されたということだった。
クリーヴランド管弦楽団での1985年の二度目の登壇ではデビュー時のように明晰に振ることはなくなっていて、更にストラヴィンスキーで管楽器奏者を横に並ばせるなどのアンサムブル上無理な配置をさせたりで、馬鹿にされたと不平が上がったとされて決別。同様にフィルハーモニアとの日本公演では無理強いが決別に繋がったとなる。
これに関しては既に当時柴田南雄が指摘していた「最期まで変わらない」との批判が分からず仕舞いでいたのだが、ベルリンのシェフになってから初めてフィルハーモニーで聴いた指揮技術上の問題がそこに連なっていたとは長く理解できずにいた。今は漸くそれを理解している。
参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
あまりにも壊れ易い世界 2020-02-23 | 音