Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

バーンスタインのメロドラマ

2023-12-19 | マスメディア批評
承前)レコードプレーヤーでマーラーの交響曲「復活」を掛けた。待降節であるから季節外れだ。音楽的シオニズムの具体例として詳しく聴いていくつもりでいた。しかし二三回流しているうちに興味がどんどん薄れてきた。当該LPは1973年のエディンバラ音楽祭での演奏に因むもののようで、1974年制作になっている。最近の関連映画でこの演奏が話題になっていて、この録音はケムブリッシヤーのイーリー聖堂で行われていて、なるほどヴィデオが復興されてYouTubeに上がっている ― そこでカナダの指揮者ネゼセガンがサウンドトラックを指揮しているトレイラーも流れている。

映像も録音も制作編集されている訳だが、その音響から独特な音響で行われていることは分かり、映像もじっくり観てみないといけないと思った。因みにイーリー自体も郊外で田舎町の小さな聖堂なのだが、ケムブリッジのキングスカレッジのクワイヤーなどが録音していたり、小さな音楽祭が開かれたりしていて、出かけたこともあった。そこでなにかオルガン録音のCDのようなものを購入したが探してみないと分からない。

この録音については以前にも触れていて否定的な反面教師面が多かった。一般的な批判点は早くからどこからがマーラーの音楽でどこからがバーンスタインのものかが分からぬという点があって、これの具体的な指摘が意外に困難なのは、バーンスタイン指揮演奏が細部においては楽譜とその内容を忠実にクローズアップしていからで、批判し難いからだ。しかし、そうすることで、クローズアップから引いた時に何事が起こっていたか分からなくなる。要するに一種のモンタージュ映像のような演奏になっていても全体が繋がらない。

特に復活交響曲においてはメロドラマ形式が曲の基本構造になっていて、次の瞬間への繋がりが聴かせどころとなるのだが、その細部への拘りが悉くその転換に影響することになっている。バーンスタインにとっては、マーラーの創作における形而上のトランスするところが全てであり、それがバーンスタインにとっての世界観そのものであった。

しかし、帝国歌劇場の音楽監督でありカトリックに改宗していた作曲家にとってはやはりあくまでも交響曲の伝統とそこからの逸脱は創作であり、そしてその現実の世に作品を問うていることから、芸術としてのバランスがとられていた。

そうした創作の内面を最も上手に表現しているのが、やはりLP時代の決定的名盤であったメータ指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの演奏だろう。今回もバーンスタイン指揮の当該のLPボックスとこの名盤を変わり替わりに針を下ろすとその差異があまりにも明白だった。恐らくこのLPは20世紀後半に録音されたヴィーナーフィルハーモニカーの演奏として頂点にある歴史的な演奏だというのが分かる。そもそもヴィーナーフィルハーモニカーで数限りなく経験した生演奏で聴いた演奏でベーム博士指揮以外では、ホルスト・シュタイン指揮とメーター指揮に匹敵する演奏はなかった。

端的に言えば、バーンスタイン指揮の音楽はアングロサクソン的というよりもブロードウェー的でアメリカ的というのに尽きる。その作曲は東海岸の文化として高い価値を持つかもしれないが、その指揮の亜流の幾多のイスラエル人指揮者のそれらとともに歴史的には恐らく顧みられることはないだろう。同じ大衆化の二十世紀の音楽文化としてもやはりカラヤン指揮のそれとは異なる。(続く)
Leonard Bernstein, LSO - Mahler: Symphony No. 2 in C Minor "Resurrection", V. Finale (Excerpt)

Leonard Bernstein: Mahler - Symphony No. 2 “Resurrection”, I: Allegro maestoso [1/5]

Bradley Cooper conducts Mahler’s Second in Maestro | Netflix

How Yannick Nézet-Séguin taught Bradley Cooper to conduct like Bernstein | Classic FM




参照:
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音
真正ハイカルチャー 2022-05-29 | 音
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