大晦日にミュンヘンから世界に向けてオペレッタ「こうもり」が劇場サイトと独仏TVでは時差生中継でカウントダウンに合わせて放送される。この新制作はコロナ期間中に室内楽編成で為された「バラの騎士」に続いて、大ヒット制作であったシェンク演出クライバー指揮のそれをバリコスキー演出ユロウスキー指揮で塗り替えることになる。
新シーズンのプログラムが発表になった時にで出かける演目候補として印を付けたのだが断念した。勿論その序に立ち寄るところもなく、一月の旅行を考えると時間的にも余裕がない。その計画に比較すると全く重要ではないと見做したからである。
初日の晩に開放されていたトレイラーやメーキングヴィデオを観ると失敗しそうな感じであったのだが、初日の評判や批評などを読むと新体制になってから最も大きな喝采があったとしている。
Trailer zu DIE FLEDERMAUS
OBSERVATIONS: DIE FLEDERMAUS - Behind the scenes
敢えて詳しくは批評を読んでいないが、二人を交えたインタヴューを観ると、そのコンセプトと狙いは明らかで、如何に効果を上げるかだけである。個人的には何よりも音楽的な享受が無ければ価値がないので、先日のフラウエンキルヒでの演奏会は評価してもユロウスキー指揮でどこまでという不安は払拭できない。
そして指揮者自身もこの「こうもり」がそのカラヤンでもなくクライバー指揮によってなされたものであり、その流儀は自発的に見えながら実はよく計算されていたものであって、演奏者は皆同様にその奥義を明かしているという。まさしくミュンヘンの座付き楽団が2004年に亡くなる指揮者によって取り分け戦後に見捨てられていたこの作品を蘇生させたとなる。
J. シュトラウス:こうもり (C. クライバー, 1986年)【全曲・日本語字幕】
その最もの成功例がミュンヘンでのクライバー指揮であったことはその映像からも疑いの余地がないだろう。そしてそうした伝統を如何に繋ぎ乍ら、今日新たな制作とするか。それは同様のバリーコスキーにとっては「バラの騎士」よりも容易であることは納得できる。芝居的な作り方で台詞の会話に更なる意味掘り起こし、後につけられた台詞役の狂言回しを駆使することが可能だからだ。
しかしそこで話しの上手いユロウスキーの説明するのを聴いても短いセクエンスを観ても期待を膨らます程の情報は得られない。なるほどクライバー指揮を研究したことも、過去にグライボーン音楽祭でも経験があることは分かったのだが、モーツァルト並みの管弦楽法、リヒャルト・シュトラウスが学んだのはリヒャルト・ヴァ―クナーではなくてヨハン・シュトラウスからだいうのくを聴いてもなんだかなとしか思わない。
DIE FLEDERMAUS - Vladimir Jurowski und Barrie Kosky im Gespräch
現在YouTube公開中のシュトッツガルトの「影のない女」は二幕の終わりまで流した。歌手陣に関しては大きな劇場では声が届かない人が多数であるが、その分言葉のイントネーションを活かした陣容で、それに当てはまらない復活祭での大歌劇とは一線を画す。それ以上に深い奈落で音楽監督のマイスターは上手に鳴らす反面、飽く迄も歌手の表現力以上には管弦楽で語らすものはない。
Stream: Die Frau ohne Schatten | Staatsoper Stuttgart
この楽劇が難しいのはその分厚い管弦楽から音楽を引き出し切ることであり、如何に復活祭におけるペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが記念碑的な音楽を奏でていたかが反面教師となって理解されよう。更にこの演出では観ていても到底核心には迫れないような気がしする。何が何だかよく分からない。まるで演奏会形式の意味不明である。
Festspielhaus Baden-Baden: Strauss: Die Frau ohne Schatten (Trailer)
参照:
戦後に初演された楽劇 2023-08-21 | マスメディア批評
注目する親子関係 2020-07-07 | 文化一般
新シーズンのプログラムが発表になった時にで出かける演目候補として印を付けたのだが断念した。勿論その序に立ち寄るところもなく、一月の旅行を考えると時間的にも余裕がない。その計画に比較すると全く重要ではないと見做したからである。
初日の晩に開放されていたトレイラーやメーキングヴィデオを観ると失敗しそうな感じであったのだが、初日の評判や批評などを読むと新体制になってから最も大きな喝采があったとしている。
Trailer zu DIE FLEDERMAUS
OBSERVATIONS: DIE FLEDERMAUS - Behind the scenes
敢えて詳しくは批評を読んでいないが、二人を交えたインタヴューを観ると、そのコンセプトと狙いは明らかで、如何に効果を上げるかだけである。個人的には何よりも音楽的な享受が無ければ価値がないので、先日のフラウエンキルヒでの演奏会は評価してもユロウスキー指揮でどこまでという不安は払拭できない。
そして指揮者自身もこの「こうもり」がそのカラヤンでもなくクライバー指揮によってなされたものであり、その流儀は自発的に見えながら実はよく計算されていたものであって、演奏者は皆同様にその奥義を明かしているという。まさしくミュンヘンの座付き楽団が2004年に亡くなる指揮者によって取り分け戦後に見捨てられていたこの作品を蘇生させたとなる。
J. シュトラウス:こうもり (C. クライバー, 1986年)【全曲・日本語字幕】
その最もの成功例がミュンヘンでのクライバー指揮であったことはその映像からも疑いの余地がないだろう。そしてそうした伝統を如何に繋ぎ乍ら、今日新たな制作とするか。それは同様のバリーコスキーにとっては「バラの騎士」よりも容易であることは納得できる。芝居的な作り方で台詞の会話に更なる意味掘り起こし、後につけられた台詞役の狂言回しを駆使することが可能だからだ。
しかしそこで話しの上手いユロウスキーの説明するのを聴いても短いセクエンスを観ても期待を膨らます程の情報は得られない。なるほどクライバー指揮を研究したことも、過去にグライボーン音楽祭でも経験があることは分かったのだが、モーツァルト並みの管弦楽法、リヒャルト・シュトラウスが学んだのはリヒャルト・ヴァ―クナーではなくてヨハン・シュトラウスからだいうのくを聴いてもなんだかなとしか思わない。
DIE FLEDERMAUS - Vladimir Jurowski und Barrie Kosky im Gespräch
現在YouTube公開中のシュトッツガルトの「影のない女」は二幕の終わりまで流した。歌手陣に関しては大きな劇場では声が届かない人が多数であるが、その分言葉のイントネーションを活かした陣容で、それに当てはまらない復活祭での大歌劇とは一線を画す。それ以上に深い奈落で音楽監督のマイスターは上手に鳴らす反面、飽く迄も歌手の表現力以上には管弦楽で語らすものはない。
Stream: Die Frau ohne Schatten | Staatsoper Stuttgart
この楽劇が難しいのはその分厚い管弦楽から音楽を引き出し切ることであり、如何に復活祭におけるペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが記念碑的な音楽を奏でていたかが反面教師となって理解されよう。更にこの演出では観ていても到底核心には迫れないような気がしする。何が何だかよく分からない。まるで演奏会形式の意味不明である。
Festspielhaus Baden-Baden: Strauss: Die Frau ohne Schatten (Trailer)
参照:
戦後に初演された楽劇 2023-08-21 | マスメディア批評
注目する親子関係 2020-07-07 | 文化一般