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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

生への懐疑の反照

2005-11-15 | 雑感
ドイツ人の顔つきが悪いと私の周りでは、自己批判する人が多い。ちらちらと以前から聞いていた事でもあり、なんとゲーテ・インスティテュートでも教材に挙がっていたように思う。だから特別には気を引かない。そしてその都度この原因については、解析を試みるのである。前回は、恐怖心から来る戦闘意識を挙げるに留まったが、今回は知恵をつけて他の説明を試してみよう。

今回の発端は、ブレーメン出身で自らを南への移民と言う男性とルターやニッチェのお膝元出身のカトリック女性の自己批判であった。道行く人の顔つきが怒っている様で悪いというのだ。これは、旅行者として欧州各国を廻ると南から北へとこの傾向が強くなる事に気が付く。ドイツの南北の違いも良く挙げられて、大抵の人は南が良いというのだが、それは道行く人の表情だけの差であるという批判も多い。つまり南ドイツも所詮同じであるという意見である。

キルケゴールの没後150年を記念して、咋11月11日に特集のTV番組などが流された。偶々深夜の番組を付けたが、流石に眠くなる内容である。裕福な家庭に生まれ一生を精神的な生活で突き通したデンマーク人である。父親の感化が面白い。実存主義の祖としての人気も然る事ながら、プロテスタントの信仰姿勢を越えてドイツ人の人生哲学になっているようである。

言えば、あの世よりもこの世は厳しく、懐疑の連続なのである。それだけならば、ベブライズムに繋がるかもしれないが、余り観念的にならず、実感を大切にしていくと違ってくる。そもそも現実の生活は、その気候からして比較出来ないほど厳しい。一日たりとも平安な日は無い。何かをなして報われるよりも、報われないのが普通である。収穫は限られる。葡萄などが育つ地域は、遥かに南である。

一分の零は定義されるが零分の一が定義されないように、何一つ反照されないのである。影があるならば暗くても良いが、そこには影すら存在しない。虚無すらも存在しないので自覚すら経験出来ない世界に対峙しなければいけない。そのような空虚な世界に何を期待しろと言うのだ。それを「生きよう」とすると、上述するような苦渋すら示さない、顔が引きつる事も無い麻痺した感覚が残る。それでも、歩みを進めるので、仕方なく不安ながら暗黒の空虚に対峙しようとすると独特な表情となる。これが、ドイツの赤ワインのように固い、ドイツ人の生きる顔である。北欧の碧眼の瞳の中などにはこの空間が映し出されていることが良くある。所謂、何も考えていない目で、これは懐疑の段階を乗り越えた表情を示す。

南のカトリックには、零が存在すれば、必ずやそこには光に照らされた影のように、もしくは青空を背にしたアルプスの高嶺の稜線の輝きのような反照があるのではないだろうか。ブルックナーの交響曲の全休止やヴェーベルンの作品の休止には、間があり、律動がある。律動が無いところには、自らの鼓動も間も何も存在しない。それでも、そんなところにも何故か日々の生活がある。そこでは生は、死よりも何層倍も懐疑に満ち溢れている。



参照:
麻痺に遠のく外界 [ その他アルコール ] / 2004-12-09
意志薄弱なワイン談義-試飲百景 [ ワイン ] / 2005-04-18
引き算無用の世界 [ 文学・思想 ] / 2005-05-08
キルケゴールの考え方 [ 雑感 ] / 2005-11-07
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遥かなるラ・マルセエーズ

2005-11-14 | 
フランスサッカーチームは、ドイツ大会前の最後の国際試合をドイツと引き分けた。後半を眠い目で流していただけなので、ジダンが出ていないのとバラックのパスとシュヴァインシュタイガーが上手く噛み合っていた事しか分からなかった。集会禁止令の出ているパリで国際試合をするからには、大変な警備体制だったろう。ジダンなども典型的な移民の成功者で、まさか夜間外出禁止ではないだろうが。

11月11日を以ってカーニヴァルの期間が始まった。今年は決定的瞬間を12日の正午に偶然にも捉える事が出来た。カーニヴァルの流れについては、詳しくは次の機会に譲る。何れにせよ、役所に突入して課税の放棄を市長に求める最も過激な行事である。

ここに、ユング・フロイト的な意味合いを解釈して頂くのも結構であるが、暴力とは所詮このようなものであろう。先日扱ったルターの革命、地方自治の共同体から非君主主義への移行を考えていくと、その政体には違いがあったとしても、フランス革命のような激しい暴力を避ける事が出来る歴史的必然を垣間見れる。反対に、ヴァイマール憲政からナチズムへと進んでいく過程に幾つもの重要な要素を挙げる事が出来る。

エリアス・カネッティーが「大衆と権力」で述べるように、硬直した無表情の仮面やその形態が変遷の最終到達点として、そこからは変遷していかない物として定義される時、ドイツに於けるこれらの祭りの形態が基底状態のような安定感を与えるのは注目に値する。それは、観念的に「在るべき状態」なのかもしれない。すると、鳥の烏帽子などを被ったカーニヴァル同好会出演のこの映像は我が町の文化レヴェルの高さを示すようで、顔が熱くなる。



参照:
高地の寒い冬を埋葬 [ 歴史・時事 ] / 2005-02-10
麻薬の陶酔と暴徒の扇動 [ 生活・暦 ] / 2005-11-02
偉大な統治者と大衆 [ 文化一般 ] / 2005-10-14
ヒロシマの生き残り [ 生活・暦 ] / 2005-08-06
ゆく河の流れは絶えずして [ 音 ] / 2005-08-01
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正統的古楽器演奏風景

2005-11-13 | 
アーノンクール氏が京都賞を受賞したと知って、出世作の録音「イドメネオ」などを鳴らしてみた。当時の衝撃は再認識出来るが、授与理由は当然古楽の実践として、バロック音楽の演奏にあるのだろう。オペラセリアでのバロックの実践を考慮した演奏に至るまでの実践母体コンツェルトス・ムジクス・ヴィーンとの実演を思い出すとともに、録音を振り返ってみる。手元にあったテレマンのダルムシュタット序曲集は面白い。

同時代のバッハよりも遥かに高名であったテレマンが、リュリの序曲を手本にフランス組曲として挑んだ作品群である。管と弦の四声づつの掛け合いになっていたりして、意匠を凝らしている。最近はフランスバロックのリュリやラモーのオペラの上演においても、ウイリアム・クリスティーを代表とする演奏スタイルに既に耳が馴染んでおり、当時テレマンがハンザ都市やフランクフルトで試みた意図が良く理解出来る。このテレマンの録音がリリースされた当時は、体感としてそのように充分な比較は出来なかった。

これは、古楽演奏の実践の変遷を示している。演奏技術の詳細に迫る事は出来ないが、その様式感や現代風のサウンドは、学術的な見解は別としても古楽演奏として十分な成果を上げて来ている。先週末に定期コンサートでオーストリーの古楽団体を迎えた。比較的未知の曲が多かったが550席中500席が完売されていた事で、古楽器演奏のバロックの人気が知れる。しかし実際の演奏は、様式もサウンドも充分に示す事が出来ない中途半端なものであった。バッハへと繋がる中・北ドイツのブクステフーデ以降の伝統的様式や変遷を示すには勉強・力不足であり、恐らく今後我々のフランクフルトの会にはお声が掛からないであろう。奏法の確立や秀逸が即、営業にはならないことを示していた。

音楽市場は、古楽器演奏に近代奏法の音量や精妙さを求めるわけでもなく、サウンドの物珍しさを求めるわけでもないが、理に叶った実践を求めている。多くの古楽器を使った古典派の弦楽四重奏曲演奏などは理に叶わない実践である。

ムジカ・アンティカ・ケルン等より若い世代の台頭が目覚しいのも理由であったろうが、アーノンクール氏が弾き振りのコンツェルトス・ムジクスよりも近代的な交響楽団を使ってロマン派以降を試みる方へと活動が移った背景には、大ホールで大人数を集めなければ営業が成立しない近代の社会状況がある。それを補う録音と言う手段自体も、ライヴコンサートの実績と名声に依存するので、質やプログラムに拘るには限度がある。

こうして当時商売にならなかったであろう録音を聞いて、アーノンクール氏の最新の興味あるプロジェクトが不完全な形でしか上演されなかったりするのを知ると非常に残念である。このような状況は芸術家にも責任があるが、数ある興味あるプロジェクトがポップスのツアー公演のように世界中を廻れるような形になっていない事にも原因がある。大劇場間では、予算の効率化から世界中で共同制作が進められているので、この傾向が劇場の枠を越える所でも広がることを期待したい。
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月も星も燃えあがれ

2005-11-12 | 
マルティンの提灯行列のことを思い起こすと、どうしてもフランスなどで騒動となっているギャングスターを考えてしまう。少年愚連隊は、古今東西に存在した。先日もナチス下において活動を続けて処刑されて行ったベルリンの子供隊の活動を扱った番組があった。現在でもケルンなどの都市部では、フランス同様に共同体の目が充分に及ばないギャングスターの治外法権の縄張りがある。麻薬などの売買を中心に成功を修める事で、マフィアやヤクザと言われる大人のアウトサイダーの組織となって行く。

金銭的成功でアウトサイダーが表の舞台へと進出して、若しくは黒幕となるのも古今東西変わらない。全ての価値判断は、金銭的成功に収縮されて行くので、世界の秩序は裏から表へとメビウスの環のように繋がっている。

それらの子供達を見ると、家庭的に問題があったりするのが普通であるが、社会的に既に子供の頃から共同体からドロップアウトしている。無邪気な顔をした彼らは、社会から弾かれてアウトサイダーとしてしか生きていけない環境に追い込まれている。望んでアウトサイダーとしての道を選んだものは稀であろう。

その構造も、愚連隊の親分同士が抗争を行う中での多数派工作で一旦加入すると抜けられない。数珠繋ぎ的に次々に脅して仲間に加え、周りの大人社会をも脅迫する。このような状況は何処にでも見られる。警察が介入する余地は無い。それどころか今回フランスでも逮捕後に直ぐに戻って来た少年常習犯を地元の者は恐れていると言う。ギャングスターには、刑務所に行く事などは朝飯前のお勤めで逆に箔が付く。刑罰の軽重も余り意味を成さない。

オルリー空港の南側にあるセーヌ川上流のエヴリー市長は、ジョスパン政権でのスポークスマンであった43歳のマヌエル・ヴァルである。氏は、民族や宗教別けにした政策でなくて地域や社会層に応じた策を始めなければいけないと主張する。

サルコジ内務大臣らが主張するような第二の勢力を持つモスレムへの逆差別の優遇は、決して本質的な解決でないのは確かである。引き締め策によって統計的犯罪率を下げて来た結果が今回の暴発であった。そもそも飴と鞭の権力の恐喝にたじろぐのは、彼らでなくて我々一般市民でしかない。

犯罪への厳しい対応は、警察力を言うのではなくて共同体の強い意志として存在しなければならない。救いを求めて自己主張する子供達を、無視して、見ざる、聞かざる、言わざるを通した大人達こそが、自らの現実を誤魔化して生きている。フランスの青春映画に良く出てくる食事団欒風景ではあるが、今回の騒動はそれとは違う様相を呈してはいないだろうか?

仏警察官の権威の喪失を言う者もいるが、我々が生きている社会秩序の権威や根拠が崩れかけている事が問題なのである。何処の誰が子供達を諭す事が出来るのであろう。多様な価値観の中で二項対立する単純な差別は存在しない。必要なのは、根気良く続ける議論でしかない。青春映画ならば、聖マルティンのように自らの上着を裂き与えさえすれば解決するのだが。



参照:
子供提灯行列 [ 生活・暦 ] / 2004-11-12
暁に燃えて、荒れ狂う [歴史・時事] / 2005-08-30
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尾頭付の燻製食文化賛

2005-11-11 | 料理
ニシン(BUECKLING)の燻製を食す。100グラムあたり78セント、一匹でも2ユーロしないので、チーズよりも安い。今まで、鮭や鰻や白身の物は良く食べたが、ニシンは余り好まなかった。最も安いと知るとどうしても試してみたくなる。ニシンは、元々安物の魚であったとしても、この価格には興味が湧く。食欲が湧く。

胸元の小骨が多いので、食べにくいから敬遠されるのだろう。石鯛の切り身が倍近くの価格であるから、どちらが満足度が高いかは食べ比べてみなければ判らない。食べて思うのは、ニシンの臭みと燻製の相性が非常に良く、割安感である。

付け合せにトーストやジャガイモも良いのだろうが、黒パンも悪くはない。味の強さでワインの味が潰されるから、リッター瓶ワインやビールなどで充分だろう。兎に角、安く満足できる。

冷えた魚の脂は、何時もお腹に堪えるのか痛みを覚える事も良くある。ニシン蕎麦にするように、燻製も暖めて食べる事も出来る。燻製したところの魚は熱い。

魚の燻製については、幾らか思い出があるのだが、北ドイツのあるゲストハウスで日本からのお客さんが来るというので態々魚を振舞う。そこで出されるのが一般的に高価である燻製であるにも拘らず、一般的な日本人のコールドフードに対する反応は冷たい。

燻製の食文化は、魚に限らず、その奥義を知るのは容易くない。燻製の材料や方法などにも左右されるが、ワインやチーズと同じで様々な物を試してみないとその良さが判り難い。

燻製が必ずしもワインの食事として適当とは限らないのはチーズと同じで上述した。寧ろアルコールの強い蒸留酒の世界で、同じ燻製のウイスキーの世界である。ただ、コールドフードの落ち着きや苦味や香りに重点を置いた食事として、ワインやチーズと同じ食文化圏に立脚しているのは確かである。
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チーズ黴とケーキのショコ

2005-11-10 | 料理
ポン・レヴェックと云うノルマンディーのチーズを食べた。13世紀にはアンゲロン、16世紀にはアウゲロと呼ばれたその歴史と云い、表面の黴の厚さと云い名物に値する。クリームチーズだが燻製のように表面が引き締まっているのが良い。そのまま薄切りにして、クラッカーに乗せて食する。四角い厚揚げのような感じで、臭みはそれ程ではないが味がある。その揚げの様な色が食欲をそそる。

味に苦味もあり強いので、アルコール度が高く固めのシュペートブルグンダーに良くあう。ドイツの赤ワインとノルマンディーのチーズよりももっと相性の良いものは?

ヴァインクーヘンである。スポンジ部分は、リースリングワインが入っており、酸味が上に乗っている粉チョコレートと上手く混ざり合う。リースリングワインと試す。甘口リースリングならもっと美味いだろう。
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終焉の引導を渡す使命

2005-11-09 | 歴史・時事
フランスの暴動から、外国人の同化問題が再び話題となる。パリ郊外のスラム化した地域については、再三TV等で報道されていたので、状況は皆が知っている。当地の住人は自虐的にゲットーと呼んでいるようだが、暴動の飛び火を恐れて外出を禁止するとなると、まさしく隔離政策となる。隔離政策は、政治的・歴史的に大汚点となるのでどうしても避けるべきであった。

ベルリンのクロイツベルクでの放火事件で、飛び火を危惧されたが、ドイツでは同様な状況にはならないというのが一般的な見解である。外国人同化策が大分違うからである。ドイツのそれは、フランスのような植民地からの移住者ではないので、ドイツ語教育が最も重要な同化策でもある。国際学力比較(PISA)などが示す基礎教育の充実の問題である。同化策と教育問題は、現在の連立交渉でも重要な議論であって、二十年間以上も充分な対処策を出せなかったのが、PISAのランキング低下にも結びついてきている。

PISAの低下は、移住者だけに関係するのではなくて、家庭環境さらには社会環境に依存する。伝統的な家族関係が崩壊して、家なき子が増えて文字さえ読めない子供が増えたり、生活共同体からドロップアウトしてしまう例が多い。今回の事件は、そう考えると移住者にだけ限られた問題ではないのかもしれない。更に言えば、先進国社会が求めているのは安い労働力でなくて、質の高い労働力となる。質の高い柔軟な労働力となると、基礎・中等教育の充実と再教育システムこそが鍵を握るように思われる。

今回の事件が起こっているスラム化した近代的な高層アパート群への批判が聞こえる。ある専門家に言わせると、アフリカから来た彼らに手厚く与えられたこの近代的な施設は、彼らの全く違う生活観には決して快適ではないというのである。大雑把であるが文化的に非常に興味ある見解である。オアシスに寄り添う屋根を葺いた瀟洒な家々と動物との触れ合い、地平線に沈む太陽。子供達が育つには、スケートボードやバイクを乗り回す空き地や電化製品や水洗便所だけが必要ではない。我々が想像も出来ないほどの文化的な大きな隔絶があることを知らなければならない。

伝統的な共同体と近代以前の生活への憧憬、そこに西洋的な発展と非西洋との葛藤が付け加わる。今回の暴動に宗教的な背景がないと言うのは、それ以上に深い断層がある事を示してはいないだろうか?今日世界を揺るがし続けるテロ行為や地域紛争を、伝統的な社会観を破壊するネオリベラリズムを憂いて、近代終焉の引導を渡すのが西欧の使命ではなかろうか。そのためには、其れに変わる希望に満ちた世界観を指し示すことが必要である。



参照:平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
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ワイン三昧 第一話 '05II

2005-11-08 | ワイン
名前
バッサーマン・ヨルダン

場所
ダイデスハイム アン デア ヴァインシュトラーセ

特記
2002年に初めてバッサーマン家の手を離れる。ゲーテの注文を受けた家族経営の大手ワイン醸造所は、こうしてドイツワインの歴史に大きな区切りを印した。

履行日時
2005年11月1日

試飲ワイン
2004年リースリング リッター瓶、
2004年リースリング・キャビネット リッター瓶、
2004年ダイデスハイマー・ランゲンモルゲン 辛口キャビネット、
2004年ルパーツベルガー・ライターパード 辛口キャビネット、
2004年ダイデスハイマー・ラインヘーレ 辛口キャビネット、
2004年ヴァイサー・ブルグンダー 辛口、
2004年グラウワー・ブルグンダー 辛口、
全七種類。

感想
二種類のリッター瓶を比べると、QBAの方は口の角に感ずる味覚とミント風の味が特徴だが、後口が今一つスッキリしない。カビネットの方は、青林檎風のさっぱり感が良い酸味を出して、香りもこの醸造所特有の深いものである。双方ともアルコール度12%で、其々5.50EURと6.50EURである。ランゲンモルゲンは、花の咲くような柔らかな香りでこの土壌のエレガントさがあるが、12.5%のアルコールは強さと感じられる。更に高台にあるラインヘーレの方は長い後味もとともにシュペートレーゼに近い。ライターパッドの方は土壌も違い、ミネラル風味で且つ深い香りが快かった。

総論
前回の三月に瓶詰めされていなかったものを中心に試飲した。前回好評のキーセルベルグは完売していた事でも、良いものは直ぐに売り切れる。これは人の好みはそれほど変わらないということを示す。大きく印象が変わったのは、その熟成によるところが大きい。この期間の熟成を通して大分印象が違った。最大の問題は、親方の代替わりで定着した繊細なダイデスハイマーリースリングが野太く仕上げられてしまっている事にある。それもアルコールが高めとなっており、2004年の酸の苦味を嫌った熟成である事が想像出来る。確かにその悪い印象はないが、その分味に厚みが出来てしまっている。これならば先任のどっしりとした大きさが欠けるような気がする。折角、新体制へとイメージの変換に成功したのに残念である。反面、リッター瓶のキャビネットが最も優れていたので、高級ワインから日常消費ワインへと市場を移すというのだろうか。新資本の参入で、伝統が壊されて、作る匠から離れて行くと将来は厳しい。資本の投下やその効率的な運用は、決して生活の質や満足感を与えないという鉄則を改めて確認する。



参照:ドイツワイン三昧 第一話 2005年版
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キルケゴールの考え方

2005-11-07 | 雑感
アンゲラ・メルケル女史は、そこの主がヴァチカン訪問中に、バイエルンに乗り込んで、そこのカトリック・アカデミーにて講演会を開いた。政局の混乱でキャンセルも予想されたが、何処吹く風の趣で遣って来て熱弁を振るったようである。テオ・ヴァイゲル元財相やトイフェル知事などが臨席したという。

この講演を機として、方々で再び「北東から来た新教徒」の姿勢が吟味され止揚される事が必要となった。ヴァチカンのそれに対して、この新教徒においては、民衆に不安な世界に慣れさせて且つありとあらゆる勇気を持って危機へと挑む事を要求する。だから、もともと法王も居ないそこには語り手以外には誰も居なくなっている事に気が付くのである。

遺伝子工学へや安楽死の政策への見解は、全てこのようなキルケゴールの逆説的な弁証法を旨とする。非への対峙を余儀なくされる事となる。何をではなく、どの様にを特徴とする新教徒の思考姿勢として得られる哲学である。

ドイツでは教会税と云うものが存在する。フランスとは異なる政教分離のシステムである。カトリック教会などの説明では、赤十字などと同様に政府の任務に属さない公共活動であるので、こうして徴税する意味があるという。つまり、直接寄付によって賄うのとは異なり、間接的に徴収するので貧富の差がなく取り扱われるのが重要と云う。プロテスタントにおいても、収入は共同体に支払われるので、支払う事は信仰告白とは趣旨が些か異なる。この共同体と云うのが、新旧教会に寄らず地域共同体の基礎となっている事はここでも繰り返し取り上げている通りである。

最近話題となっているのは、ハイデルベルクの神学教授の偽新教徒事件であるが、ドイツ社会において宗教告白をして居ない者が四分の一を超えている現状から、余り驚くには当たらない。伝統的にユダヤ人の新旧教への改宗は日常茶飯であって、その昔は教会税を払う事で公職にありつけた。

今日のこのような時代にありながら、宗教的心情は公のものではなくて個人的なものとする見解と信仰告白は、その趣旨に相反する矛盾なのである。これは、欧州共同体をキリスト教的な社会として位置づける作業において特に重要となるだろう。欧州の現状を考えると、この作業での教会合体への傾倒は避けられなく、世俗での権力を維持し続けるヴァチカンもその共同体とも無関係ではいられない。

こうした歴史的・文化的な状況こそが、アンゲラ・メルケル女史をしてもバイエルンへと参上させ、そこで欧州域外への援助の手を差し伸べ、在りとあらゆる人類を等しく尊重する姿勢を示す事となる。片やベルリンを去りヴァチカンに救いを求め、片や頂点に躍り出た同じく新教牧師の息子が居る。カトリック社会を模範とするCSUとプロテスタンティズムの社会主義を強化するSPDを結びつけるのは、教会合同の思想でしかないとするのは良く理解出来る。



参照:
御奉仕が座右の銘の女 [女] / 2005-07-26
キッパ坊やとヒジャブ嬢ちゃん [ 歴史・時事 ] / 2004-11-06 
賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
ドイツ鯉に説教すると [ 文学・思想 ] / 2005-03-14
黒タイツの女子行員 [ 女 ] / 2005-04-10
トンカツの色の明暗 [文化一般] / 2005-07-11
生への懐疑の反照 [ 雑感 ] / 2005-11-15
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平均化とエリートの逆襲

2005-11-06 | マスメディア批評
新聞の文化欄も大変勉強になる。ハイデッカーヘルダーリンの詩への評価:「ここの隠されているものを目の辺りにするには未だ充分に一世紀ぐらいの時が必要か」の一節に出会った。なるほど、FAZ編集者ディートマー・ダートの記事は、大連立危しから再びジャマイカ連立考察へと振れたジャーナリズムのここ数日の気分を良く示している。

多くの賢明な読者は、直感的に環境政党緑の党と保守政党CDU&CSUの相性の良さに気が付いているが、その思想的背景を見るのと遥かに面白い。ここではハイデッカーの目を通して審査されている。

ハイデッカーの知識より思索の推奨は、「知識の一種である技術」を統治と読み替えるとき、その「エリート」が絶えずその先端の背後に蠢かなければ生きていけない事に強い光を当てている。彼が早くから入党していたナチスのアンチ・モダニズムは、余りにも素朴すぎて、エンゲルスやマルクスの生産についての考察への解答ともなっていない。

しかし、ハイデッカーの無反省が批判される戦後のブレーメンでの講演で「耕作は、今や機械化された食糧自給工業であり、本質的にガス室の死体工場と同じで、食料不足の諸国の放置と同じで、水爆開発工業も同じである。」と語っているのは、現在から見ると当を得ている。グローバリズムの問題そのものであるのだ。つまり、これを今日の政治問題として解くと、保守的な管理体制と環境行政からの視点と重なり合う。

バイエルン首相シュトイバーは、ベルリンへの転勤を否定してから、予定されていたベネディクト16世との個人的謁見にヴァチカン訪問を履行した。ヴァチカンでは、先のティーレマンの率いるミュンヒナーフィルハーモニカーの御前演奏会に続いての故郷からの重要な御一行である。16世は、過去10年間のバイエルンの近代テクノロジー進展への貢献とその経済的繁栄、その多様な文化・宗教のあり方を褒め称えた。またシュトイバー博士の政治判断の説明に対して、全体の政治情勢に対する認識の高さを示したという。

二週間前のベルリンでのシュトイバー博士へのCDUの内輪での批判は、今回の選挙責任への内容に及んでいた事から、どうもこの話題が来週あたりに再びミュンヘンから聞こえてくるのではないかという感じもする。法王との謁見がバイエルン首相をどれほど政治的に強化するかは見ものである。十字架を後光のように輝かして、登場するのであろうか。

売上税の18%への引き上げが、SPDとCDUの両党で合意しそうであるということも、バイエルンへの引きこもりの原因となっていた事は確かで、都合の悪い時はそそくさと故郷に帰る。税収入を確保してからの支出削減へのプロセスは、受け入れがたいもので、特にSPDのマニフェスト違反は今後とも世論に大きな影響を与えるだろう。

SPD新党首に選ばれようとしているプラチェック氏は、東独の最終期に保健衛生の専門家として市民団体を作り政治活動を始めたようで、当初合弁を拒否していた緑の党を経てSPDへと衣替えしている。オーダー河の氾濫の危機管理で一躍名を挙げて首相を狙う地位となった。政治家を職業と考えない政治家だがその姿勢とは裏腹に、危機管理で一躍名を売ったように権力と売名には一際貪欲であるようだ。

社会主義者プラチェック氏は、SPDの政策の継承と各役所との密接な協力関係を標榜している事から、このまま推移すると可なり両陣営の悪いところを合わせた様な連立になりそうである。バイエルン首相が法王と共にバイエルンでも権威失速の道を歩むのかどうかにも依るが、政権内に二人の与党党首の横槍が入るとなると新首相認証前から内閣は殆んど失速しているような様子である。

何よりも心配なのは、ハイデッカーの言葉「危機は突如として起こる」という具合に、信仰としてのまたはモラルとしての近代工業化を無資産者が諦めない限り、「エリートの所有」の没収や大量生産の推進は避ける事が出来ない。つまり、再びエリートの最終逆襲が起こり得ると言うのである。マルクスの言う特権階級や大量生産の放棄は、ボブ・デュランの様にハイデッカーにとっては、ニヒリズムを招く文化的な平均化にしか他ならない。これを民族や人種の差異に位置づける事で解決しようとしたのがナチョナルゾチアリズムス(ナチズム)であったことは言うまでも無かろう。

写真:帝国議会の議長公邸としてパウル・ヴァロットによって建てられた現在の議員会館。連立の前交渉はここを舞台に繰り広げられた。



参照:
終焉の引導を渡す使命 [ 歴史・時事 ] / 2005-11-09
収穫終えて、それから? [ ワイン ] / 2005-11-01
麻薬の陶酔と暴徒の扇動 [ 生活・暦 ] / 2005-11-02
権力抗争と自浄作用 [ 文学・思想 ] / 2005-11-03
情報管制下の娯楽番組 [ 歴史・時事 ] / 2005-11-05
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情報管制下の娯楽番組

2005-11-05 | 歴史・時事
グッバイ・DDRという番組の三回目を観た。ドイツ民主共和国の崩壊を描いた小シリーズである。余りに悲惨で非人間的なエピソードが語られるので、宣伝放送ではないかと思うほどである。三回目はスポーツ行政を中心にカテリーナ・ヴィットなどが紹介されていた。東のアイドルで広報であった彼女の話は飽き飽きしているが、それ以外のエピソードなどは面白かった。

最高の喜劇は、シュミット首相を案内するホーネッカー総書記一行である。通り道に警察の盾を作り、窓から覗くことを防ぎ、そこにいる全ての市民は仕込まれた党関係者だったという。なるほど町中からニックネームが叫ばれる。クリスマス市も全てエキストラ総出演というから恐れ入る。それでも為政者は不慮の事態を恐れて、ライヴTV放送は15分のディレーを使って放送していたというから、完全に民衆との間には埋められない溝があったことになる。オーウエンの小説そのものというから驚く。

勿論背景には経済的失策と行き詰りがあったのだが、*食事を与えられない民衆ほど始末の悪いものはないらしい。経済的行き詰まりは共産主義の産物であったとしても、トロッキストの主張通り思想的行き詰まりではなかったといえるのだろうか?

情報管制だけは、偽らざる事実を語る。夜のゴールデンタイムには、美しいショーが繰り広げられる。瑞々しい女性の肌やその華やかな夢の一時は、健全で精気に満ちたプロレタリアート独裁の社会である。お茶の間のTVの前の視聴者は、その背後にあるものに仮令感づいていていたとしても、自らを騙し続けていたのではないだろうか。何れにせよある種の憧憬を誘うような言葉は、厳しく禁止された。籠の中に閉じ込められて生きるのは、何も家畜だけの習性ではない。たとえ閉じ込められても民衆には娯楽がある。

寧ろ西ベルリンでは、陸上封鎖に対抗して米軍の空前絶後のエアー・ブルッジをもって、全ての食料や燃料が運ばれたのは有名である。さて、その数年以内には、東側では全ての西側をイメージさせるものは一掃された。

ベルリンには、立派な郵便チューブ網が存在した事を紹介したが、そこで聞いた話もこれを裏付けている。つまり、党の指導部にとっては、西側ゾーンへのコネクションを切り去る事は当然であった。そのように局に指示したのだが、現場ではその後数年間も故意にそのままにして置いたということだ。流石に切られる事にはなるが、今度は西側を思い起こす痕跡は全て消し去れなければならなかった。しかしそのように処分しなかった証拠が上の写真である。つまりベルリンの全地域へのコントロール盤は、使用出来ないに関わらずそのまま残されたという事である。実際に、プロレタリアートの大会の宣伝看板で隠して党幹部のコントロールを逃れたかどうかは知らないが興味ある話である。

特にこの話で個人的に興味を持ったのは、初めて東ドイツを通って西ベルリンへと入った1986年の国連世界平和年の看板が飾られていたからだ。なるほどゴルバチョフ氏登場以降末期症状を示していた東ドイツであることは当時から分かっていた。デンマーク発モスクワを初め東欧行きの夜行寝台列車に乗って、カーテンの隙から東ドイツの曙の出勤風景を眺めたものである。見学した郵便局から僅か数百メートル先のフリードリッヒシュトラーセ駅で、西ベルリンに入るには長い停車を余儀なくされた。ナチのドイツ軍そのものの制服の皮ジャンバーの東独軍人が遣って来てプラットホームで監視する。そして今まで寝ていた寝台を根こそぎ引っくり返して、シェパードを連れた軍人が列車の内と外を同期しながら誰かが潜んでいないかと虱潰しに調べる様子は忘れる事が出来ない。

*食の不足は、末期である1980年代の東独には当てはまらない。



参照:空気配送郵便チューブ [ テクニック ] / 2005-10-28
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ワイン三昧 第二話 '05II

2005-11-04 | ワイン
名前
ブュッルクリン・ヴォルフ

場所
ヴァッヘンハイム アン デア ヴァインシュトラーセ

特記
現在の醸造親方は、代々当家に勤め四世代目である。ローマ人が栽培をはじめた粘土質の土壌のみならずワイン栽培に適さないとされていた砂地の土壌で偉大な業績をあげる。1997年より本格的にシュペートブルグンダーを主とするドイツ赤ワインの質向上に挑んでいる。

履行日時
2005年10月29日

試飲ワイン
2003年ピノ・ノワール(シュペートブルグンダー)、
2003年ピノ・ノワールS(シュペートブルグンダー)、
2003年プレステージ(C・ソーヴィニョン、C・フラン、ピノ・ノワール)、
以上赤ワイン三種類。

感想
2003年のピノ・ノワールは、香りからして柔らか味がある。飲み口は、旨味があるが14度のアルコールが比較的強く当たる。この傾向は、ブルゴーニュと比べると堅いとして印象付けられる。口が慣れてくると、今度はその旨味が少々野暮ったくダラッとしているのがいけない。しかし、例年の物に比べると格段に太陽の恵みを受けているのは明らかである。ピノ・ノワールSの方は、満を持して発売された割にはまだ飲むには早い。香りからして一段上で、充分に開かれていない感じながら、非の付け所が無い。繊細で、透明感がある味わいは熟成が期待出来る。14.5%のアルコール度とは関係が無いようだが、シュペートブルグンダーの堅い性質は変わらない。最後のワインは、ボルドーのメローの代わりにピノ・ノワールが混ぜられているので、渋みの他はボルドーよりも寧ろブルゴーニュに近い。どちらとも比べられないので高級イタリアワイン等と比較する方が良いかもしれない。

総論
2003年は、その記録的に暑い夏からプファルツの赤ワインにとって特別なヴィンテージである。数年若しくは何十年に一度しかない当たり年である。地下で二年間の木樽での熟成期間を経て瓶詰めされた。糖価が高いので、フランスの赤ワインと直接比較する事が出来る。特にピノ・ノワールSは、ブルゴーニュと同じ土壌に改良されて栽培されているので、葡萄の品種が厳密には違うながら似た個性を持っている。今後5年程のビンでの熟成期間が予想される。問題はその価格と熟成期間である。フランスワインのように充分な歴史が無いからである。食事の相性もラムなどは素晴らしいだろう。通常のピノ・ノワールの方は、野暮ったくとも肉や鹿をこのワインに付けておいて料理すると美味いだろう。しかし、その辺の食事との愉しみ方や飲み方が形成されていないのが苦しい。ワインは、衣食住を含めたライフスタイルであり文化であることを思い知らされる。キュベー・プレステージなどは高名なソムリエーの協力で配合を決めたようだが、これなども料理までの推薦を考えなければ意味が無い。厨房経験があって、接待業であるソムリエーならば特定の料理とゲストのイメージがあって然るべきである。その双方ともが浮かばないと辛い。


参照:
ドイツワイン三昧 第二話 '05 [文化一般] / 2005-06-14
ドイツワイン三昧 第二話 [ ワイン ] / 2004-12-14
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権力抗争と自浄作用

2005-11-03 | 文学・思想
議会制民主主義という響きは美しい。それが上手く絵に描いたように執り行われるという前提に立っての共鳴である。当然の事ながら、議会自体が、時代に合った運営方法などを常時検討しなければならない。この運営委員会では、選挙法や議員の身分保障や訴追免除などの重要な問題が同時に議論される。

政治家が職業になって来ているという新聞記事があった。何人かの政治家の兄弟や親戚などが違う政党などで出ている例もある。政界への接触と交友関係ということではあり得る環境である。これは職業とは関係ないながらも、政界に近い環境というのはどうしても発生する。実際の統計を見ると、各々の社会層の全ての職業を代表する代議士が議会に存在しているのではないのが読み取れるらしい。労働組合関係が圧倒的に多いようだが、ある種の職業では直接代表している代議士はおらず、意外に企業家も少数派である。緑の党などは、職業政治家を避けるために永年の議員活動を禁止していたらしいが、これも変わってきている。理想としては素晴らしいが、あまり現実的ではないようだ。

経験豊かな政治家を求められているのが、現在のベルリンでの連立構想である。SPD党首ミュンタフェリンクが書記長推薦に敗北して辞意を表明した事から、大連立構想が大きく揺らいでいる。その経過と結果は、後任党首の決定でSPDの若返りとなりそうである。CSUのバイエルン首相が組閣に参画しない表明をしたのも、これを理由にしているのが面白い。先週からベルリンの議会筋で囁かれていた様子は先日伝えた通りだが、このままでは終結しそうにないという動きである。揺さぶりの掛け合いと牽制の権力抗争こそが政治である。

ミュンタフェリンク氏は、SPDが与党と野党を使い分けるのは不可能なのにも拘らず、まだ副総裁として入閣する可能性もある。お陰でバイエルン首相の、この退陣劇をバイエルンへの引き篭もりの言い訳とする、独特の政治判断と滑稽なキャラクターを久しぶりに見る事が出来た。SPDの書記長推薦選挙で若いナーレス女史の名前が挙がったのが今週の騒動の始まりだった。プファルツの農家出身で村の若者政治活動から党中央に移行した女性である事は重要である。老舗SPDの代変わりと原点に還るという意味で、マルクスがフランスの第二帝政に対して名付けたという所謂ボナパルティスムといわれる現政権のあり方に、再度異議を唱えた事になる。しかし、このようなイデオロギーに纏われた手法で、有権者に鮮明なメッセージを送り、自浄作用を働かすことが出来るのだろうか?

写真:ドイツ連邦共和国連邦議会本会議場



参照:
税金運用法を正しく討議 [ 雑感 ] / 2005-10-30
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
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麻薬の陶酔と暴徒の扇動

2005-11-02 | 生活
約二年前に上映された最新のマルティン・ルターの映画を観た。10月31日は宗教改革の日として、所縁のある地を中心に東独の新教の州は休日であった。其れに因んで独第一放送で流された。11月1日は万聖節でヘッセン以外は祝日である。

二三年前の公開時の評判は聞いていたので、期待していなかった。アウグスブルク信仰告白のカール五世による若しくはザクセン王ゲオルク二世の勅旨までが扱われる。それでも有名なエピソードも省かれて、神学的な考察どころか、歴史的背景さえ充分に描けていない。

ルターは、ここで毛沢東やロペスピエールのような革命の先導者であって、学があって博士号を持ちながらも政治的に振舞う。制作意図として、宗教性よりもカトリック教会の権力腐敗構造や君主封建主義と新教による暴力革命を強調していたようである。信者の聖体の拒絶や免罪符の購入など暗示的な描かれ方もしているのだが、その黒澤の亜流のような映像や安易な古楽舞踊のBGMは今ひとつ洗練されていない。端折った感のあるTV歴史ドラマの域を出ていない。

当時の学芸世界や社会の背景を鑑みると、20世紀の共産主義者の主張のように「宗教は麻薬」であり、麻薬の常習者である宗教家に民衆は如何に扇動され易いかを示す事が、この映画の主題であったろう。勿論、ここには21世紀の現在にも通じる多くの示唆が含まれている。

麻薬といえばヴァーグナーの楽劇もそうだ。北京では「指輪」の上演が、ニュルンベルクからの250人の引越し公演で、成功裡に執り行われた。歌手もツェリル・スチュダーなど実力者揃いで、管弦楽も良かったようだ。そして演出こそが秀逸で、ドイツ国内ではバイロイトを含めたここ十年間で最も評判の良かったという、ステファン・ロウレスによるシェロー以降の現代スタンダードな様式だったようである。

ドイツでベルグハウスとギーレンの「指輪」を体験済みという中国女性は、「北京オパーを期待していた観衆が最後まで固唾を飲んで観劇して、喝采した事はセンセーショナル」と語ったという。縫いぐるみや牛の角の意匠に会場が沸いたというが、実際は招待席の三分の一が空席で、外で切符を求めるのは30歳以下の若者という。音楽学生などが主力の聴衆層は将来の観客であり、学びの時期を示しているのだろう。

ルターの映画を観た在フランクフルトの中国人が、「あのような民衆の暴挙は文革と代わらないし、過激な対日デモンストレーションは反対だ」と語るのを聞くと、何もネットの情報量だけでなく芝居や映画などの文化の影響は大きいと再認識する。そのような文化の享受の方法は、娯楽を越えるという認識が必要である。高級車のSクラスメルセデスの世界で最も輸入量の多い中国であるが、ワインの味が分かるように文化の粋を味わって貰わなければいけない。

ベルリナーフィルハーモニカー中国公演の殆んど天文学的な入場料が11月に発表されるという。経済成長を謳歌する反面、「芸術は麻薬」であると叫ばれるのだろうか?何れにせよ、2005年に行われた最も「生きたオペラ」は北京で上演された事には違いない。

写真:ドイツ連邦議会の天井の自動循環換気システムと見学者達



参照:
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
権力抗争と自浄作用 [ 文学・思想 ] / 2005-11-03
情報管制下の娯楽番組 [ 歴史・時事 ] / 2005-11-05
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収穫終えて、それから?

2005-11-01 | ワイン
葡萄の収穫は、この辺は先週で終わったという。昨日店先で聞いた話では、かなりの房が雨に祟られて腐ったという。それは、葡萄畑にセレクションされて切り捨てられていた房の数で分かる。詳しくは、醸造蔵で聞いてみないと分からないが、果汁糖比重を上げる為に収穫を遅らせて、さらに剪定した分だけ収穫量が減ったという事である。

地域にも依るが、高級ワインを醸造する醸造所は収穫量が削減され、一般的な醸造所は量を確保する分、2005年ヴィンテージのリースリングは質が落ちるだろう。今までの経験から、こういう年はどちらかと言えば高級リースリングは酸は少なくても、風味が心配である。2003年などの暑い夏のふてぶてしい味とも、2001年の繊細さとも大きく異なり、2000年の大被害の年ほどには酷くないらしい。2002年や2004年よりも面白いワインを期待したいが、その量からしてなかなか良いものは手に入らないのではないか。

2003年高級赤ワインの試飲をしていると、一見さんがアウディのディーゼルに乗って夫婦連れで遣って来た。店の者が初めから適当にしか対応しないのに気が付いたが、なるほど価格表を見るなり高いと言って出て行った。その一部始終について店の者が言うのを聞くと、大変微妙な話題である事に気が付く。

ワインに幾らの金を払うかは、様々な要素に左右される。社会層、興味・関心の高さ、収入、飲酒癖等数え切れない。ワイン一本に、5EUR以上払う心算が一切無いが極一般的である。一日に一本空けるとすると、これだけで150EURの支出となり標準家庭の光熱費に相当する。だからそれ以下の価格帯が主にスーパーでもワイン農家でも売られている。

さて、店の者に言わせると、それならば其れで良いが「高いの一言」で片付けられると心外らしい。確かにマイバッハーやロールスロイスを買って使いこなせる人は世界にそれほど多くは無い。それに比して、30EURは 多くの人が容易に浪費出来る額である。しかし、これを飲んでその価値を見つけることは更に難しい。

多くの人にとっては、出来るだけこの価値に気が付かずに一生を過ごせる方が幸せである。実際それを自覚している人も多い。若しくは、自然に感覚を遮断出来るような防衛反応が働いている。胃に酸が沁みてお腹を壊したりするのである。典型的な心身症ではないだろうか。しかし嗜好品の場合、無くても生活が出来るとすると、この考え方も必ずしも正しくない。消費量を減らして、内容に拘る事も出来るからである。

需要と供給の関係で価格が設定されて、安い労働力も年々高くなっていく。その半面、質の向上を目指してますます労働集約型となっている。グランクリュ辛口リースリングを150年以上前の様に、ゲーテやアイヒェンドルフやハイネを通して誉れ高い様に、再びシャトウ・マルゴーの同じ質と価格にまで上昇させて行こうとする方向にある。それでも地元の愛飲家の手の届かない価格になってしまうと困るのである。既に地元割引を以って一部高級ワインを提供している事を考えると、将来的な展望は厳しい。
コメント (5)
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