Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ウクライナ救済をうたう

2022-04-15 | 文化一般
ウクライナ救済を謳ったガラコンサート。先ずは支配人が出て来て何を言うのか緊張した。場合によればヤジを飛ばそうと思っていたからだ。ようするに意味のない連帯コンサートなどでもやるなら邪魔してやろうと思っていた。

危惧に終わった。それどころか事情説明よりもオーガナイズ的にもたもたしていたことを詫びていた。真相は分からない。しかしペトレンコが指揮してネトレブコが歌うコンサートが、先ずは歌手が当面休む、そしてその代わりで指揮者との話し合いでガラコンサートとなった。その間にベルリンの大統領官邸でのコンサートからペトレンコが下りた。表向きは健康上の理由であるが、最早それを信ずる者はいない。原因はウクライナ大使から攻撃されることを避けたに過ぎない。その前段でペトレンコは激しいプーティン批判をしていた。

結果として、ペトレンコは自らの財布から一千数百万円相当をウクライナ支援に寄付して、あとは関知しないという姿勢になっている。そのペトレンコの呼びかけに応えて祝祭劇場にもウクライナ寄付を求める看板とネットページは出したが、それ以上には一切しない。パトロンなどには当然圧力は掛かる。しかしそれ以上には波及しない。

ドイツ連邦共和国大統領がEUの枠内でキエフを訪問しようとしても断るようなウクライナ政府に金を出すような馬鹿なドイツ人はいない。政治的にも外交的にもあり得ないことである。それ以外の難民支援などだけをやっておけば十分だというのが最も合理的だ。

そこで「急遽指揮を引き受けたネルソンズ」と挨拶があっても全く拍手も起らなかった。少なくとも個人的には関脇の位置を期待していたのだが、ここ二三年の指揮は全く感心しない。特にドイツの奥さんと再婚してからは身体だけ大きくなって平幕落ちしている。身体の大きい平幕力士は十両にさえ落ちる。今迄一番良かったのは就任ツアーの前妻と出た演奏会だった。

レオノーレ三番であれだけ内声部やらを指揮しても、大きなしっかりした音を出しても全く受けない。来年ザルツブルクで振る「タンホイザー」はハムプソンも下手だったが、あれではゲルハーハーが歌っても冴えない。失敗は決まった。そもそもヴァ―クナー振ってよかったことなど一度もない。あれほど楽員に合わせる指揮とされていても、「清教徒」でこれまた声に合わせることが出来ずにフランクフルトで指揮したリニヴの爪の垢でも飲ませてやりたい。ピサローニがバルトロで気を吐いていたが、ウィリスソーレンセンの「死の都」は歌もなっていないが、こちらは昨秋も聴いているので迷惑でしかなかった。ボルコフの「オネーギン」でも最後のおいしいところで何もしない。ルーペを貸してやりたい。コンランディの歌も折角楽団が繕っているのに指揮者は暈けっとしている。流石にこれでは一般受けもしない。

「火の鳥」はその分、中低域を出すので音響的には冬に中継された「春の祭典」よりも良かったのであるが、あまり演奏は安定はしていなかった。更に肝心のところでの歌いこみなどがやはり拙い。クラウチングの指揮姿を見ているとティーレマン指揮の大蝦の様になってしまってこれまた印象が悪い。キャリア的に何とかしようと思えばいい歌劇場で数年間じっくり仕事をするしかないないであろう。チューリッヒぐらいだろうか、ヨルダン音楽監督の延長がなさそうなので、ヴィーンの国立歌劇場に入る可能性が高いが、さて学べるだろうか。



参照:
新制作二日目の狙い 2022-04-14 | 文化一般
大向こうから掛かる声 2022-04-12 | 雑感
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新制作二日目の狙い

2022-04-14 | 文化一般
「スペードの女王」の二日目のイムプレッションを書き記す。総論はとても緩い指揮の公演だった。それは最初から初日と比べれば明らかで、後半に入って何をしてくるか楽しみになった。そして初日の頂点であったリザをバスで押し倒して殺すシーンの指揮ぶりで何をやってくるか分かった。

よって緩い指揮でテムポも遅くなるところがあり、前半から嵐と手紙のシーン景の間のコントラストも弱くなる。それで得られるものはテムピを落として演奏する正確さと精査である。同時に当夜はカメラが回っていて、細かな演技が出来る余裕も与えていた。ここまでやるからには制作映像になるのだろうか。

勿論指揮者ペトレンコは、この公演でチャイコフスキーの決定版的な演奏を残そうとしているのは間違いない。するとそれならば初日の燃え方では何度も繰り返されて鑑賞されるべき整理された制作とはならない。

ミュンヘンでの「死の街」が武蔵野音大の資料室に入ったと見たのだが、それと同じように今後とも資料にされるべきならばそうした完成度が必要になる。

ペトレンコは、それだけの為に緩い指揮をしたのか?そのような事はしないと思った。確かにミュンヘンにおいても二日目というのは特殊な修正などが為される回で中々名演とはならないのが常である。しかし何かをその後の公演のためにやってくる。

今回は、上のカメラの件と同時に、終盤になって懸案の落ちがどうなるかが待ち焦がれることになった。先ず長い机の上でのヘルマンの友人のトムスキー伯の歌と踊りはより凄味があった。これだけでもそのニヒリズムが明白になって最後が決まってくる。

チャイコフスキーの音楽構造でもあり、劇的な構成をどのように考えるか。指揮のペトレンコにとっては細かな演出を積み上げて行って、その場面間のコントラストのみでなくて、どのように最後の落ちを印象的に描けるか。恐らくそれは更に丁寧に細かに音楽的に正しく表現していくことと、同時に奈落と舞台上での緊張関係や演奏の充実さを千秋楽で頂点に持ってくるかに掛かっていると考えているに違いない。

その為にも取り替えられるテークを撮っておくのであり、少々の破綻を辞さない燃焼の千秋楽の為の準備となるのか。個人的には二日目も行けてとてもお勉強になったと思った。劇場の指揮者は皆こうしたノウハウを積み上げているのだなと思う。そして演出家がそのたびに手を入れているようだ。

なるほど最後の拍手では主人公ヘルマンへのソゴモニアンへの拍手がトムスキーのズリムスキ―よりも弱かったが、それは仕方がないかもしれない。一番拍手を長く愉しんでいたのはリザ役スティキーナであるが、初日よりも演出に留意して歌も抑えていたので余計に冴えなかった。

玄人はどうしてもそこのアスミク・グリゴーリアンの歌声と舞台捌きを思い描くので、これまた致し方がない。世界が違い過ぎる。超一流の歌手とその辺りの売りに出ている歌手では比較にもならない。玄人はそれを知っている。



参照:
「スペードの女王」初日批評 2022-04-13 | 文化一般
ロシアンニヒリズムを想う 2022-04-06 | 文化一般
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「スペードの女王」初日批評

2022-04-13 | 文化一般
新制作「スペードの女王」二日目の上演のお勉強準備。先ずは、第一景の最後の部分、つまり雷から手紙の場へと移る所を再確認。やはりベルリナーフィルハーモニカ―が早いパッセージを合わせ方から、また最終景の前の主人公に失望するリザの場面から次のカジノの場面への音楽を確認。

後者、バルセロナの時は演出が異なっていて、全く演奏が違った。もう一度そこも注目したい。要するに劇の一つの山だった。そこへの持って行き方で最終景の喧噪が映える。

フランクフルターアルゲマイネ新聞に批評は、音楽と演出に関しては改めて扱うとして、先ずは音楽祭の姿勢とウクライナ大使の態度が先ず対比して扱われている。つまり、ウクライナ大使は、たとえペトレンコの祖父がウクライナのルーツク出身だとしても敵のロシア人でしかなく、その復活祭ではロシア音楽が演奏される。それだけでなくて音楽祭開幕に支配人スタムパは、チャイコフスキーをプーティン以前から聴いていると挨拶したと報告している。

そもそも国旗の青色と黄色を使って、国歌を流して誰の助けになるのだと正論を書いている。つまり簡単に安く自己満足する事をバーデンバーデンは断念したとある。

このことが演出などには関係しない。それは演出家らの座談会を聞いてよく分かった。最後の数週間で起きた事なんて全く演出に反映する筈がないという話しだった。尤もだと思う。それだけ細かい演出は出来ていたのだが、初日にスペードの女王の家が売春宿になっているシーンで激しくブーが飛んでいた、その批判の意味についても触れている。

音楽祭に関しては少なくとも募金に関しても会場では小さくしか扱われていない。それらをして、ウクライナにアッカンベーをしていると書く。

バイエルン放送協会の批評では、やはり高級娼婦館に舞台が移っているのを書いている。その一方、ペトレンコ指揮のチャイコフスキーは、ミュンヘンで数多くそうであったように管弦楽団を本気にさせるので、レパートリーとして欠かせないものになるとしている。

勿論座付き管弦楽団とは全然異なりその限界は遥かに高いので、そのことを予測している節もない。何回もミュンヘンで経験している割には不思議な感想である。

主役に関してはとても評価している一方、リザが予定通りアスミク・グリゴーリアンだったならモノトーンではなく素晴らしい出来だったろうとしている。まさしくあの舞台設定はグリゴーリアンを意識させたような雰囲気だ。しかし本来から肌を見せる場所はなかった筈だ。

積雪で倒木を跨がなければいけないところが17本ほど、潜らなければいけないのが10本ほど、その他にもよけて足に傷をつける枝など数々で、今迄の倒木で最大級だった。やはりはが出たところでの積雪は負担が全く異なるのだろう。どれ程の林業被害になるのかはまだ聞いていない。



参照:
大向こうから掛かる声 2022-04-12 | 雑感
雪にロシアンオペラ 2022-04-10 | アウトドーア・環境
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大向こうから掛かる声

2022-04-12 | 雑感
気が振れたか ―

大向こうから掛け声が掛かった。前夜のチャイコフスキー作曲プーシキン「スペードの女王」の舞台ではない。翌日曜日の復活祭二日目のロビーでのことだ。

若いお兄さんを締め上げたのは私だった。ピストルならずカメラであったが、飛び道具には変わらない。奴は昨年の11月に同じようにベルリナーフィルハーモニカー公演で隠し録音をしていたのだった。そしてなによりもストーカーである。

犯罪を顧みない危険な人物であることは分かっていたので、こちらも過剰防衛にはなり易いのだが、やはり最低のセキュリティーは保障して貰わないといけなくなった。警察をその場で呼んで貰おうと思ったが、バーデンバーデンの祝祭劇場も反応が悪かった。しかしこれで舞台設定は整ったので、警察に被害届を出さないでも、責任も明白にして、刑事事件化も容易になった。

ストーカー紛いの事で警察のお世話になった事はあるのだが、こちらが被害に遭うとは思ってもいなかった。SNSはそうした危険性が必ず付き纏う。用心深い方ではあるが、まさか公の場での被害などは考えてもみなかったのだ。勿論そうなればこちらもより手を回さないといけない。

犯罪心理の専門家でなくても、遵法精神以前の犯罪傾向はその軽重にあまり変わらない。ここで注意しなければいけないのは、「スペードの女王」においてのカードの極秘をしる伯爵夫人の致死に至る住居侵入やピストルによる脅迫は犯罪であるが、今回の演出ではピストル以前に殴ってショック死させている。チャイコフスキーは、この主人公ヘルマンに自身を投影させているとするのがこの演出で、道徳的な背信の感情はあったにしても犯罪としての意識はなかったのだろう。

奴を締め上げているときに、他にも声が掛かるので後ろを振り返ると前支配人の興行師オヤジではないか。どこか嬉しそうな顔に見えた。僕も故モルティエ―一派なので会場の壁を越える音楽劇場を目指しているのである。

壁の向こう側のArteの生中継のオンデマンドは観ていない。しかしオーボエアモーレながらそこに可能性を目指してのアルブレヒト・マイヤーのプレーは到底頂けない。その服装だけで最早ショー以上のものではなく、演奏がその通り余計に不真面目になっている。更にウクライナ侵攻に関して下らないコメントをして、一体何様だである。ご近所のワイン醸造所が招いて二日続けて演奏したり、彼がベルリナーフィルハーモニカーになる前から見かけているのだが、ここまで落ちるのかと思わせた。この楽団には勘違いした連中がとても多い。奴らがその程度を下げている。パユの表情も観察していた。

ロートの指揮に関しては色々といいたいのだが、先ずはバッハで出来ていないと失望した。その方の評判の良さが全く分からなくなった。これなら同じように古楽でも専門的に活動しているエンゲル指揮に対して何らアドヴァンテージがないではないか。「ペトローシュカ」も生でこそ期待した音響は得られなかった。



参照:
ラウンジ周辺の雰囲気 2022-04-11 | 文化一般
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
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ラウンジ周辺の雰囲気

2022-04-11 | 文化一般
眠い、今晩のお勉強が出来るか?18時始まりだが、15時30分迄に出る準備をしなければいけない。昨日十枚発券してもらったのだが、アップグレードの日曜日の券がなかった。取りに行かないといけない。独仏文化放送の生中継があるのだが、座るのはカメラの前か?後ろで何時ものおばさんが話しそうな。

バッハはもうどうでもいい。聴くだけだ。気になるのはストラヴィンスキーの二曲で、ガイダンスも聴きたいような。ペトローシカはイスラエルでペトレンコが素晴らしい指揮をしていたが、ロートの指揮も悪くはない。

いずれにしても、20時終了予定なので、21時30迄には帰宅可能となる。因みに初日の新制作「スペードの女王」は大成功だったので終了予定21時10分が、車を出したのが21時40分になっていた。詳しくは改めるとして、キリル・ペトレンコがオペラで示した最高の結果となるだろう。まだ三回の公演での伸びしろもあって、実況中継予定の最終日にかけての微修正の数々が効いて来るだろうと思う。そのあとベルリンでもコンサート形式で演奏するが、これだけ演出が決まってくるとそれを土台に演奏を作り上げてくることになるのだろう。

往路は想定外の大雪で車に乗るまでも一張羅の靴を濡らさないように気をを使った。車は何とか出たが、途上で大雪がないか心配になる。幹線道路は空いていても、フランスのスーパーなどで足元が悪いとと思った。結局ワイン街道もそれもミッテルハールとが最も大雪だったとので、全く問題がなかった。それも帰宅した時は車庫の前も雪の畝が残っていたぐらいで乾いていた。

二年ぶりのスーパーでの買い物も予想以上に並んでおらず、ドイツよりもマスクも少なく快適に買い物が出来た。ワインも2014年産マルサネなどがあって、来週改めて買い足そうと思う。魚介類はブレクジットでカキやホタテが入らないと書いてあった。その他は依然とあまり変わらない価格で買えた。

バーデンバーデン市街にも14時40分ごろに着いて、BW銀行で現金を無料で下ろして、クアーハウスに向かった。14時30分にオープンしたラウンジで演出座談会を聴いた。水を出してくれるのも嬉しい。

ラウンジの感じもまだこれから出来上がってくるだろうが、日帰りで出かける者にとっては、駐車場の価格が若干高いと感じるかもしれない。もう少し人数や催し物が増えれば祝祭劇場とのシャトルのバス券をつけるとかも一つの方法かもしれない。それよりも祝祭劇場横にブーレーズザールなり室内楽ホールが出来る方がやはり価値があるだろうか。

今回、復活祭をメインとするという声明があったが、同時にブーレーズフェスティヴァルなどを進めていかないと駄目だろう。

クアーハウス周辺も陽射しが強く、復活祭としては暑くはなく最高の日よりだった。薄着で座っていれば寒くなるかもしれないが、陽射しと摂氏一桁の気温が最高だった。



参照:
雪にロシアンオペラ 2022-04-10 | アウトドーア・環境
集中や誇張のアクセント 2022-04-08 | 文化一般
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雪にロシアンオペラ

2022-04-10 | アウトドーア・環境
バーデンバーデンに出かける準備をした。この天気であるから当然衣装が変わる。出かけるまでに道路は乾く筈だが、基本は二桁行くかどうかまでしか上がらない。すると毎年は着れない厚着をして出かけることになる。市の新制作初日「スペードの女王」に合わせた色合いよりも、最初の週末は厚着だけに拘る。勿論コートは要らないが、長袖下着も要らないだろう。精々襟巻をどうするかだけだ。陽射しは出るようなので昼間は暖かい。しかしセーターを羽織るぐらいは出来るだろう。

さてフランスでの買い物はどうなるか。時期的に土曜日は混んでいるだろう。そして魚貝類は殆ど売れてしまうかもしれない。次に出かけるのは火曜日だ。金曜日が休みなので、火曜日にまだ何が残っているのか?先ずは冷凍出来そうなものは購入しておきたい。

復活祭に合わせてワインを調達した。先ごろの車のマイスターへのプレゼントが目的だったが、飲み頃を購入してしまった。プレゼントは適当に安いぐーつリースリングをと思ったが地元の2020年産ヴィラージュが出来上がっていたので、それにした。どれぐらいリースリングが分かる人かは分からないのだが、自分がいいと思うものをあげれば、決して詰まらないものとは思わないだろうという自信はある。何か違う事は少なくとも分かってくれると思う。その為にも本格的なリースリングを余分に払ってでも購入する。

安めの燃料を二日分入れて、改めて雨が止んだすきに走りに出かけた。降雪になるまでの一時間少しの間を利用した。肺が冷えて苦しくなったがいつもの所有時間で下りてきた。次の機会は月曜日、そして木曜日だけなので、長い距離を走れる時間的余裕がないと思う。運動不足になるが、毎日出かけて歩き回るだけで何とか誤魔化すか。

バ―デンバーデンの街中に行く序に現金を下ろしておこう。大銀行も軒並み店仕舞いで無料で下せるところが少なくなった。カジノのバンクでは金が下りない筈だ。クレディットでは幾らでも払ってくれるのかもしれない。

夜間降って、一夜の積雪量は予想以上だった。幸い路面が冷えていないので比較的空いていて、午後には乾くと思う。それでも広場には除雪車も走っていて驚いた。余月の雪がこの辺りでは珍しいだけでなく、これだけの積雪は年に一回あるかどうかである。忘れ難い復活祭の初日となることだろう。

現在のところ何ら変更等はないようだが、ミュンヘンの様にメールで速報するシステムもなく、最終的には行ってみないと分からない。



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集中や誇張のアクセント 2022-04-08 | 文化一般
全てを賭ける芸術表現 2022-04-03 | 文化一般
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舞台を向くダミーヘッド

2022-04-09 | 
バーデンバーデン祝祭劇場の総稽古の映像が流れてきた。第一印象はやはりしなやかな音が出ているということだ。メータ指揮「オテロ」でもそれなりの奈落感はあったが、やはりペトレンコが振ると、硬軟の両面が上手に出ている。その点で音楽祭の創立者フォンカラヤンよりも巧い。板の上では昨秋「マゼッパ」で聴いていて分かっているが、やはりその音響が異なる。

ベルリナーフィルハーモニカーのサイトには改めて会場創設からの事が書かれていて、ヘルムート・コール婦人のハネロラが定礎式をしたとある。1996年5月の事である。124000立法メートル、残響1.8秒とこれ以上求めようのない音質と記して、改めて今始まる本格的なオペラ公演を記念している。

カラヤンの始めた音楽祭で、長く本格的にオペラが指揮された機会はほとんどなかったからであり、ペトレンコ指揮のみがそのカラヤンの夢を叶える可能性がある。

ヴィデオにはフルート一番にフランクフルトの放送交響楽団の女性首席奏者が入っている。最初の練習時に名人パユが他所で演奏していたので乗らないことは分かっていたが、前回までは奈落に入っていた奏者が辞めたことから、適当な人が入るものだと思っていた。実際に、「スペードの女王」ではファゴットのロシア風の音色とオーボエやクラリネットの活躍に比してフルートの意味は限られる。しかし、後任に近いように思われる奏者が入るのは喜ばしい。

更に詳しく見ると指揮台の前にダミーヘッドが置いてあって、またケーブルが引き回されていて中継の準備が確認された。現時点では独仏文化放送局Arteの18日の計画は未定になっているが、当初は生中継扱予定になっていた。生になるかどうかは知らないが、少なくとも実況されるのは間違いない。それも最終日の映像が使われる筈だが、録音は初日から回される筈だ。

総稽古からの映像をみる限り、舞台の動きは可也のもので、前回のウイルソン演出「オテロ」のような抽象的なものにはならない。あれだけの衣装と舞台を整えたのだから可也リアルなものでなければ割が合わない。ラトル指揮の時の最大の問題は舞台に合わせる指揮が出来なかったことで、だから入念な演出などは無意味だったのだ。その意味からもペトレンコの選択は大成功する可能性もある。

燃料を先ずは二日間往復分を入れた。幸い若干安くなっていて、30リットル56ユーロで済んだ。あと120リットル程は入れないとならない。それでもどこかに宿泊するよりは安くつく。遠方ならば毎日の様には通えないが、通える分だけ費用も掛かることになる。結局、ミュンヘンに二回ぐらい行く感じになるだろうか。距離として八往復1600km。

週末はフランスのスーパーで買い物をする。だから先日購入したフォアアールベルクのベルクケーゼも平らげた。50%の脂肪にしては少し弱いが、価格比ではまずまずだった。フランスはその点やはりお得だ。コロナ禍以降初めてのフランスでの買い物になる。二年半ぶりだ。



参照:
集中や誇張のアクセント 2022-04-08 | 文化一般
ゾクゾクする奈落からの音 2022-04-02 | 音
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集中や誇張のアクセント

2022-04-08 | 文化一般
オペラのプログラムを纏めた。その形状などによって方々に片付けていたのだが、ここに来て体験したレパートリーとしてある程度網羅した感じが出てきたからだ。一体ここまで何年掛かっているのだろうか。嘗て日本などでもヴェリズムオペラを専門的に語っていた評者などがいて、そのように体験できるものだと思っていた。しかし、ドイツでさえも真面なオペラ公演は中々体験できないことが直ぐに分かった。既に言及しているがそれを補うものとしてザルツブルク音楽祭などがあった。

それでもやはり音楽祭と劇場とは異なり、そこでも音楽劇場として成功している場合などは殆どない。だから、そうした専門家が必要なのだが、当然の事乍らそこに批評がなければ成り立たないので、如何にそうした音楽劇場が成立することが難しいか。それだけの社会も聴衆もいないと成立しない。ハーバーマスの言うような民主主義的な基盤である。

バーデンバーデンの新制作「スペードの女王」のリザが再び代わった。総稽古の為の衣装合わせの映像などが出ているので、その上演の前に陽性が出たのだろう。若い人でみっちりと仕込まれていただろうから、ある程度は期待されたが、そこで落ちてしまうのはついていない。少なくとも軽い声の質は芸術監督のキリル・ペトレンコの好みだった筈だ。そこで急遽ペテルスブルクでも歌いザルツブルクやメトでもデビューしているより経験の豊かそうな歌手が入った。YouTubeなどを観ると巧いのだが、声が若干分厚い。これがどのような結果になるかは分からない。もうこうなればペトレンコに無事全公演を振って貰いたいだけだ。

するともう一つ復活祭日曜日にコンサート形式で振るチャイコフスキーオペラ「イオランテ」の歌手ソニア・ヨンチェヴァが陽性になったと流れてきた。未だ日数があるので、症状はあるらしいが、完全回復の可能性がある。万が一となれば既にベルリンで合わせたアスミク・グリゴーリアンが出て呉れるとハッピーなのだが、ヨンチェヴァの十八番だけに先ずは復帰して欲しいと思う。

そして「スペードの女王」の総稽古の写真やら衣装やらが流れてきている。なにか衣装も華美で、19世紀に拘っている。恐らくバーデンバーデンを意識させるようだが、それによって更に本質に迫れるものかどうかはとても疑わしい。

少なくとも舞台自体はそれ程抽象化されることはない。その分失われるものも少なくはないであろう。しかし、このカットだけを見てわかるのは、ある程度の集中とデフォルメは認識できる。生憎ヴィデオの背景には敢えて昨年の「マゼッパ」が流れているのだが、音楽的なアクセントも感じさせる。

本当は総稽古にお誘いが来るかと思っていたが、例年の様にバーデンバーデン市民には解放したのかもしれないが、何ら連絡はなかった。こちらもそうなれば前プログラムからぎっしりと詰めなければいけないと思うようになった。
Hinter den Kulissen der Osterfestspiele: Maskenbild




参照:
所謂カジノ構想というもの 2022-04-04 | 文化一般
どっちでもよかったんだ~ 2022-03-10 | 女
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和解などない露宇兄弟

2022-04-07 | 料理
フランクフルターアルゲマイネ新聞が在ベルリンのウクライナ全権大使にインタヴューをしている。

先ずはブッチャの虐殺に関して、軍の中で起きた事なのか組織的なテロ行為なのかを質すと、寧ろ後者ではないかと正直に語っている。そして此れで少しでもウクライナの当事者としての視座が世界に伝わるのではないかとしている。

さて、文化欄であるので、先日のシュタインマイヤ大統領主催出席拒否の経緯を質す。これは、更に虐殺事件を受けてその言い分が強化されている。つまり、爆撃を受けているだけでない当事者としてロシアとロシア人との和解などはありえないというのだ。つまり当面はロシア人全ては敵であり、それは停戦しても終戦しても当分は続くと、ドイツとフランスの関係にも触れて説明している。

更にロシア人の友人がないのかという問いに一度も持ったことがないと強弁している。これは誰も信用しない。私でも両国に友人がいる若しくはいた。あり得ないが、家族関係に関しても説明していて、奥さんの母親がロシア人との混血で侵攻の日に彼女のモスクワにいる妹と電話した逸話を披露する。そして、電話のこちらの状況を幾ら伝えようとしても嘘だと信じようとしなかったので、姑さんはもう妹はいないと言い出したという。

なるほどこの逸話は同様のことは独仏の集まりでも話題になることで、イザとなると国境間でそのように立場が変わってしまう事を如実に感じさせる。

だから、イスラエルに帰化したキーシンやロシア生まれのアメリカ人がどのように反プーティンであっても関係なく、ロシア人でしかありえないというのだ。ここまで知ればキリル・ペトレンコもキャンセルしなければ矛先に立たされていた。流石にここでは名指しされていない。

そしてロシア文化に関しても、自分自身の家族は毎年大晦日にチャイコフスキーの「くるみ割り人形」を聴くのが年間最大のイヴェントなのだと、好きな作曲家が問題なのではなく、現時点においてロシア文化を共に愉しむような時ではないと言い切っている。

そして大使は、このキャンセルに反してウクライナから意義を挟む反応は皆無だったとしている。そしてドイツが如何に当事者意識がなく肌感覚がないかという事だと説明している。

第三者からすると、兄弟国のような丁度日本と朝鮮のような国がいがみ合うのは不思議なのだが、時間を掛けてここまでになる。そして修復するのも容易ではなく、最大の敵であり続けるという事らしい。

月曜日に大きなイチゴトルテを購入した。パン屋の跡継ぎはケーキ職人であることは知っていたが、今迄見た中で一番美味そうだったから購入した。実際にこの手のものでは最も美味い。なによりも甘さを抑えておらず、イチゴの下のゼリーからその下のババロア迄の配合が最高で、その下のスポンジを濡らしている。しかしべとべとしない。日持ちが心配だったが、火曜日から冷蔵庫に入れて、現在のところ全く問題がない。兎に角、甘美味なので傷む前に平らげて仕舞える。



参照:
„Alle Russen sind gerade unsere Feinde“, SIMON STRAUS, FAZ vom 6.4.2022
オミクロンの格安感 2022-01-15 | 料理
独大統領の不可解な演奏会 2022-03-28 | 文化一般
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ロシアンニヒリズムを想う

2022-04-06 | 文化一般
気温の低下と太陽が無くなったことから疲れが出た。夕方からは気温が上がりそうだ。午前中に肉屋に行くとマスクマークをつけていた。着けて欲しいと言われれば従う。狭いところであるから売り子が守られない。

バーデンバーデンの祝祭劇場からメールが入っていて、マスクに関しても祝祭劇場滞在中は着けて欲しいと書いている。個人的には少なくとも公演中は外したい。食事を出す一方で空調が効いている筈の会場内でつけさせるのはおかしい。若しくは客を詰め込むのがおかしい。満席売らないのだから、初めから絞っておけばよいのである。

少なくとも初日は比較的売れていて、翌日も中ホール扱いにしか売っておらず、既に席替えも済んでいるので、動くつもりはなく、場所もあまり空いていない。だから大人しくしているつもりだが、その後からは空いているところに席を移る。勿論マスクは外す。

ルフトハンザでも五月からはマスク義務を無くすという、そのような時点でマスクはおかしい。なるほどドイツではまだ日々300人ほどが死亡するときもあるので、ウクライナの市民の死者の数ではない。それをマスク着用でも避けれなかった。今更何をしようというのだろうか。ワクチンで死亡の多くは避けることが可能で、少なくともオミクロンでは亡くなる人も減り、ICUも空いている。それでも亡くなる人はいる。マスクで感染速度を制御しても遅かれ早かれ亡くなるだけではなかろうか。

ドイツにおいても今一番の政治的な目標は今秋からはコロナに関係なく社会生活が可能な様に集団免疫を確立することでしかない。全ては医療崩壊を起こさないことを前提として、成し遂げられる。それ以上に社会が出来ることはなかったに過ぎない。

ペトレンコ指揮のリセウでの録画を最後まで流した。幽霊で出てくるオブラツォヴァの伯爵夫人も歌に力があり表現力も抜群だ。ヴィーンでのメードルの「昔の名で出て」いた配役とは全く意味合いが異なり、先日もリストが出ていたプ-ティンの軍事侵攻に賛意をしていた中に名前が挙がっていただけに亡くなるまで矍鑠としていたに違いない。今回の復活祭では昨秋ミュンヘンの「鼻」で活躍していたドリス・ゾッフェルが歌うが、それ程の名唱も期待できない代わりに全く異なったキャラクターの歌唱になるのだろう。今回の演出でも結構鍵を握るのかもしれない。そのあとのリサの景とカジノの場は音楽的にも上手に解決するのは演出、音楽とも嵌まらなければ難しいと分かった。ペトレンコの指揮もやはり若さを感じるところがあって、先ずは今回歴史的に最高の公演となるのかどうか。

日曜日に初日だったフランクフルトの「フェドーラ」も評判がいい。ロイの演出がよいだけでなく、主役二人も良さそうで、ティケットを購入したアスミク・グリゴーリアンのペアーでなくても、指揮者も良さそうで価値がありそうだ。特にそのスリラーの題材が、1881年のツァーアレクサンダー二世の暗殺が、チャイコフスキーにムソルグスキーおけるトルストイ、ドストエフスキー、テュルゲーエフの流れを汲んで、そのニヒリズムがここでも上述同様に想い描かれている。
»FEDORA« von Umberto Giordano




参照:
パーティ券は要らない 2022-03-26 | 生活
最高峰から削ぎ落された祭 2022-04-01 | 文化一般
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マスク無しゲマインシャフト

2022-04-05 | 雑感
ミュンヘンの新しいフェスティヴァル「ヤー・マイ」初日の席を確保した。「求む」を交換サイトに出していたのだが、親切な人が手解きして呉れた。やはり早めに動くものだと思った。まだこれから更によい招待席が戻り数十席出るだろうが、一般売り残り僅か60席の第二ランクでそこそこの席となった。買い換えても初日は売れるだろうが、三回目が評判が定まらないと売り難いかもしれない。

正直そこでオペラを聴いたことがないので音響や視覚は86年に見学した時の記憶とヴィデオなどでの印象を繋ぎ合わせるしかない。まずまずの席で、少なくとも聴衆の反応はしっかりと把握できる。グート演出の舞台へもあまり見切れはないと思う、更にエンゲルの指揮もよく見えるのではなかろうか。

モンテヴェルディとヘンデルの楽曲も編成は通奏低音付きだからハースの曲もそれに準じた大きさで、中劇場での鳴り方もしれている。それゆえにまた楽譜も入手し難いだろうから余計に楽器が見える方が助かる。何とかその条件は出来たと思う。

The Cuvilliés Theater: Europe's finest surviving Rococo theatre.

Trailer zu L'INFEDELÀ DELUSA

Cuvillies Theater - Minhen

M.W.C.Cuvilliés-Theater


あとは交通手段である。21時55分発で戻れれば、往復30ユーロ以下でも行ける。マンハイムの駐車料金を入れても50ユーロである。明らかに車よりも安い。問題は時刻通りにミュンヘンに到着するか、公演が21時30分前に劇場を後に出来るか。それを逃すと夜行になってマンハイムに朝4時前にしか着かない。車ならば遅くとも未明2時前には帰宅可能だ。

兎に角、日程が決まったので、ホテルを取り直して、直前までキャンセル可能にして公演終了時刻を探るかなどを更に検討する。なによりも今回の様に教えてくれる劇場オタク集団がいるのは心強い。そうしたゲマインシャフトを含めての劇場の実力なので中々新参の劇場などには叶わない聴衆の分厚さで、その中の玄人筋の比率もとても高い。

歯医者に行って、アイスホッケー用のテュ―スガードを取って来た。幾らするか分からないが、問題のある上ではなくて下に入れて夜中の歯ぎしりから矯正していくというものだ。四週間ほどが目度らしいが、さてどうなるか。

そこで「どうせ外さなければいけないのにマスク解放になっていない」事を質すと、「日本では慣れているのと違う」といわれた。医者自身は何ともないというのは、職業習慣だからじゃないのか。

個人的には出入りにはどちらでもいいことなのだが「夏などは不愉快だ」と言っておいた。帰りに三件で買い物をしたが、様子を見て、マスク無しで通した。条件は最初に二件は広いので全く問題がなかったが、スーパーなどでもしていないのはオヤジに限っている。女性でしていない人はいなかった。また若い男性もする傾向にある。やはりドイツ語でクヴェーアーデンカーと呼ばれる斜に構えたネトウヨ連中がマスク無し集団だろうか。最後のパン屋だけはまだ人数制限をしていたのでどうしようかと思ったが、前のオヤジがマスク無しだったので、それで試した。その為の人数制限でもあるだろう。

マスクしないでいいのは、気にするような人は近づいて来ないこちらもマスクの人には近づかないというのが、動きやすくていいかとも思う。気になるのはお店の人に対してだけで、場所によっては店の者もしていないのでそれはそれでこちらも気楽である。



参照:
将来を決するヤーマイ 2022-03-22 | 文化一般
全てを賭ける芸術表現 2022-04-03 | 文化一般
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所謂カジノ構想というもの

2022-04-04 | 文化一般
「スペードの女王」二幕へと進んだ。2003年のリセウ劇場での映像だ。映像は最初観ていなかったが、モーツァルト全開である。少なくとも音だけを聴いていると、あまりにも突飛なパロディー表現で、その前の幕との繋がりがチンプンカンプンである。

例えば小澤指揮ではノリノリで進んで行ったのだが、ここでは僅かばかりのチャイコフスキーの工夫からおかしな効果が生じてくる。丁度光の反転の様な効果があると気付く。しかし、この当時のペトレンコの指揮では少なくとも途轍もなく長い前振りを感じさせる。今回復活祭でどのように鳴るかは色々と想像できるところがあるのだが、そのあとのカード勝負の秘伝を求めて伯爵夫人の婆さんの寝床に偲ぶ主役ヘルマンの景との対照が途轍もないことになりそうだ。

その途轍もなさで驚くのは幾重にも重ねられたピアノやフォルテ表示などで、それは最早音量表示でなくて他の音楽表現ではないかと思わせるのも「悲愴」などでもお馴染みである。そうなると死の近い婆さんのベットの中に忍び込むぐらいの勢いのヘルマンの変態心理も明らかになり、それは如何にも性不同一さえ公に出来ない社会における殆ど表現主義へと近づく完全な後期ロマンを其処に感じさせるところとなる。

通常のロマン主義ならば前半のロココ主義の貴族趣味こそはまさしくヘルマンを賭博へと追いやる心理であって、ここではそうした超えられない身分というのが既に歴史的な遺物となったことを敢えてパロディーという形式で示すことになる。つまり、ヘルマンの射幸心は、現在においては新自由主義的な信条と同一化される。所謂それが時代遅れのカジノ構想とされるものである。

幸い更なる積雪はなかった。これで問題なく月曜の朝に夏タイヤで走れることが確定した。予報では火曜日から最早氷点下にはならない。因みに復活祭初日の土曜日は怪しい天候なのだが、週末は標準的で、その次の火曜日の「スペードの女王」二日目公演からは夏のようになる。

これで月曜日の午後に一時室内避難した植物を再びバルコンへと出せる。例年この様なことをした覚えがない。それほど三月末が暖かかったという事で、今年の様に春らしい日を迎えるのは珍しいことである。例年ならば四月もしばしば夏の様に暑くなるのだが、暫くは快適な日々が続きそうで長袖シャツで過ごせるだろう。

これで初日から日曜日は同じ衣装で出かけて、火曜日から着替えればいいと思う。もう少し考える時間がある。

足の調子は、完全に使った割には、悪くはなっていない。しかし違和感のある所は其の儘残っている。金曜日の下りに殆ど庇わず使ったので、やはり違和感が残る。完治はしていない。しかし火曜日ぐらいにはもう一度使えると思う。

週三回走りにしたらやはり太りだした。贅肉が邪魔になるような運動をしないと何回動いても痩せない。やはり走るのが一番効率が良い。



参照:
全てを賭ける芸術表現 2022-04-03 | 文化一般
ゾクゾクする奈落からの音 2022-04-02 | 音
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全てを賭ける芸術表現

2022-04-03 | 文化一般
バーデンバーデンでの練習が始まった。こちらのお勉強も熱を帯びてきた。先日の小澤征爾指揮の映像に続いて2003年のバルセロナの劇場でのキリル・ペトレンコ指揮の新制作「スペードの女王」の一幕から二幕を流してみた。

予想以上に一幕冒頭から違っていた。二十年も若い指揮者であるが、意外にもテムポは落ち着いていて拘りを見せる。しかし楽団もあってか不器用にしか鳴らない。例えば同じ座付き楽団で録音して話題になっているマーラー交響曲七番のそれにも近い趣もある。逆に如何にも滑稽な動機が不細工なままに鳴らされるので、これは間違いなくカード勝負に負けてニヒリズムに陥る天地倒置した感じを与える。

すると交響曲四番から中心動機となる運命の動機が適当に鳴らされているだけでは無いのが分かる。勿論悪い映像からはその音響も細かくは確認できないのだが、明らかに楽譜以上のデフォルメがある。それがどのように導かれているかはもう少し調べて行かないと分からない。しかし大きな要因は歌詞からのアーティクレーションだとは分かる。

当時の評判は聴いた記憶があるのだが、確かにこの指揮ならばそれ程といったこちら側の受け止め方も間違っていなかったという言い訳にもなる。技術的に今よりも落ちていたとは思われないのだが、ベルリンでの成功前のことであり、奈落のコントロールや舞台との関係でも現在ほどには熟達していなかった可能性さえ感じる。しかし、同じようにベルリンを勤め上げた後で2008年のリヨンでのプーシキンオペラ公演では指揮に関しては大成功しているようだ。

反面ペーター・シュタイン演出は不評だったので、今回がそのリヴェンジとなって初めて成功するように専念しているに違いない。やはりこの作品は音楽的にも生半可には上演できず、演出も嚙み合わないと、十二分な表現とはならない難しさがあると思った。

そこで改めて気が付くのは、追放されたゲルギーエフ指揮の「マゼッパ」などに見られる適当なテムピ設定は、修正主義者ティーレマン指揮の楽劇などにおけるのと同様な優柔不断な姿勢である。この歌劇で描かれるチャイコフスキーの芸術はベルリナーフィルハーモニカーのHPにルツェルン音楽祭で活躍するシュトェール女史が楽曲解説している。全てをカードに賭けるヘルマンとチャイコフスキー自身の同一化である。

それを如何に深読みして表現するかとなれば、到底音楽家として同性愛者を法的に罰しようとするプーティン政権のネトウヨ体制を支持出来る筈がない。まさしく全てがそこに表れているのだが、それを音楽的に評論することが玄人の仕事であり、それなくしては広く社会にその意味が伝わらない。

それで分かる様に、音楽劇場指揮の第一人者テュテュス・エンゲルなどが演出に合わせて解釈を変えるというのとは全く異なった意味合いで、今回の復活祭での新制作にキリル・ペトレンコが全てを賭けて表現しなければいけないチャイコフスキーの全てなのである。それを通して、時を超えて、そして今表現すべきことが描かれると目されている。

四月二日の今日の雪、何とか降り止みそうで、月曜日には乾いた氷点下の道を夏タイヤでも歯医者に向かって走ることが出来そうだ。



参照:
ゾクゾクする奈落からの音 2022-04-02 | 音
ソヴィエトからの流れ 2022-02-28 | 音
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ゾクゾクする奈落からの音

2022-04-02 | 
「スペードの女王」のオーケストラ稽古が始まったようだ。例年は土曜日に入ったと思うのだが、一日早くなったのかどうか?ベルリナーフィルハーモニカーが奈落に入ったのは2019年のメータ指揮が最後だったが、今回は指揮台にキリル・ペトレンコが立っているのかと思うとゾクゾクする。

二年続けてのキャンセルに続いて、ウクライナ侵攻の余波で様々なことがあって、気持ちは晴れないのだが、ここまで来るとこちらも腰が据わってくる。そこから響いてくる音を想像するだけでゾクゾクするのである。

先日見つけたヴィーンでの小澤征爾指揮の映像は最後まで流した。結論からすると一幕から二幕三幕へとだんだん悪くなっていった。特にフィナーレへは指揮者が何が舞台上で起こっているのか音楽的に何が表現されているのかが全く分かっていないようだった。それに比較すると二幕でのポロネーズやらロココ風のモーツェルトの模倣などは如何にも小澤の才気が感じられる。だから三幕が始まる時に楽団ともに長い拍手に対して答礼をしている。それだけ評判がよかったという事だ。

そしてその三幕の内容は、今回のバーデンバーデンの演出家達が語る様に最後のカードに人生を託したニヒリズムの音楽などは余程丁寧に読み込まないと表現が出来ないと思った。一番肝心なところなのだが小澤はもちろんそこへと足を踏み入れることを初めから留まっていて、如何にも他人事のように「古典なんですよこれは」と終えている。まるで落語の落ちのようだ。

恐らく、この三幕はどのような指揮者にも難しいところなのだろう。ここが上手くいかないと、それまで何を描いてきているのかも分からなくなる。先ずは三幕だけでも他の演奏を比べてみたい。演出家らは豪華な舞台で描かれるようなものではないとしているようだが、このカジノのシーンは難しい。

何度も繰り返すように小澤は天才であったけども、ペトレンコに我々が期待するのはそこからの読みの深さであって、それをどのように楽譜に光を当てていくかでしかない。それが天才のなすべきことである。

ペトレンコが初めて自らのプロデュ―スで、演出家から出演者迄決めた。ここで成功しない筈がないのである。アスミク・グレゴーリアンが歌う予定だったリサの役は確かにより内向的に歌える役柄で、必ずしも声の威力や存在感だけではないことも分かった。

音楽劇場表現としては最早ティテュス・エンゲル指揮を標準に考えなければいけないが、今晩は昨秋「マゼッパ」公演のあった日にエンゲルがドナウエッシンゲン音楽祭100周年記念で振った演奏会の中継録音が流される。当日いけなかったので是非録音しておきたい。また一週間後にはケルンの放送スタディオから生中継がある。これはまたこちらが忙しい。

兎に角、マスクの無いオペラ鑑賞が可能となって、少しづつお客さんが戻ってくるだろう。復活祭開催までの売れ行きにも注目したい。その為にはメディアの協力も欠かせない。動いて貰いたいところである。



参照:
最高峰から削ぎ落された祭 2022-04-01 | 文化一般
「夏のメルヘン」の企画 2021-09-01 | マスメディア批評
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最高峰から削ぎ落された祭

2022-04-01 | 文化一般
ロシアの歌姫アナ・ネトレブコが下りた演奏会、代わりのガラコンサートが決定した。先ず期待されていたネトレブコに代わる最高の歌唱は求められない陣容で七人の既に薹が立った歌手とか若手にウクライナの歌手などが混ざる。この面子からするとキリル・ペトレンコが伴奏をつけるような程度にはならない。当然の如く代わりの指揮者にネルソンズが入った。先日もプーティンの戦争協力者ゲルギーエフの代わりにミュンヘンのフィルハーモニカーをフランクフルトでも振ったところである。既に聖土曜日には振ることになっていたので余分に一日振る。当然後半の「火の鳥」も全曲ではなく組曲になった。

もういい加減にやめて欲しい。最初にアスミク・グリゴーリアンが下りて、アナ・ネトレブコが削られ、更にペトレンコ指揮の演奏会一晩が削られた。メールによると、メインの新制作「スペードの女王」と演奏会形式「イオランタ」と連邦ユース楽団のマティネーを振ることに全力を注ぐために健康を害したペトレンコ自身が下りたいとしたとある。

先日のキャンセルの真相は分からなのだが、オフィシャルには連邦大統領の依頼を断ったので病気でしかあり得ないので、今回のようなキャンセルも当然かもしれない。しかし何よりもガラコンサートにした理由も今まで決まらなかった理由も皆目分からない。通常ならばロシア音楽にして欲しいという要請に既に演奏している管弦楽曲二曲を埋め込められた。なぜしなかったか?

それは金を出している人の贅沢社交を埋め合わせられなかったからだろうと推測する。要するに前回もあったようなランランを招いたりの程度の悪い趣味がそこに介在している。それなら下りて、他のものに集中するでいいのだ。連中にはペトレンコを仕えさせる必要なんてない。精々安物の太鼓持ちでよい。大変遺憾であり、復活祭の芸術的な目標からは癌である。

そのバーデンバーデンの祝祭劇場支配人から手紙があった。先日の苦情に関してである。なんら反応がないので、もし今後同様のことがあったら会場で大声を出す心積もりだった。そのような苦情処理をしている限り必ず悪化すると思っていたからだ。

思いがけづ支配人本人の意思が良く伝わる返答が届いた。それでもこちらを同定はしていないようで女性宛になっている。ネットで調べたかとも思うが、性別は特定できなかったのかもしれない。

返答内容は、フィードバックへの礼と陳謝、そして観客の満足度に集中して、それが仕事の成果の基準となっていることが記される。更に係員による阻害要素は認められないのは当然であり、会場の責任者に既に話して、改善をしたとある。

これならば祝祭劇場の取り分け復活祭の改善に幾らかでも寄与できたかと思う。大多数の聴衆にとって芸術の良し悪しよりもこうした会場の雰囲気というのは共通の指標になり易い。私が敢えて、前記の件もあり、必ずしもペトレンコ体制での復活祭最初から芸術的に最高の音楽祭と書かなかったのはそこであり、先ずはオーガナイズ的に最高峰の音楽祭を楽しみにしているとしたのはまさしくこのことなのだ。

「スペードの女王」の演出と演奏で、キリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーがティテュス・エンゲル指揮「ボリス」を超えるのは必ずしも容易ではないと分かっているからだ。



参照:
ヒューマニティーを 2022-03-24 | 文化一般
どっちでもよかったんだ~ 2022-03-10 | 女
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