Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽の楽しみ方の教示

2023-11-16 | 文化一般
ベルリナーフィルハーモニカー日本公演初日が高松で催された。その反響をSNSで追っていると感慨深い。一つには前回2017年のペトレンコ初訪日のそれと比較するからだ。その時はミュンヘンの音楽監督で、東京のみでオペラ公演以外に演奏会を二回行った。前年既にベルリナーフィルハーモニカーのシェフに選出されていたのにも拘らず、なぜか日本での反響は今一つはっきりしなかった。

色々な背景があると思う。なによりもの相違は、管弦楽団が座付きだったので、特に演奏会ではしゃっきとした演奏とはならない。それは先月の「千人の交響曲」演奏会でも同じなのだが、それはアンサムブルの性格が違うということでしかない。実際にはヴィーナーフィルハーモニカーをペトレンコが振っても殆ど価値はないのだが、ミュンヘンの楽団であると断然価値がある。よって日本での反響は不可思議だった。過去を振り返ればカルロス・クライバーが同じ楽団を振った時にも大熱狂があったからだ。

この間にリリースされて大絶賛の評価となったペトレンコ指揮のマーラー交響曲七番の反響も若干あるかもしれないが、やはりデジタルコンサートホールでの馴染みが大きいのだろう。勿論知名度も当時とは比較にならない。それでも現時点では前任者のサイモン・ラトルの足元にも及ばないであろう。勿論今後とも故カラヤンの知名度には遠く及ばないに違いない。

それゆえに今回のカラヤン以後初めての四国公演の意義がある。やはりライヴ公演で伝わるものは少なくはない。メディア産業との繋がりを立ち切ってのその芸術活動に直接其々の人が触れて貰うことでしか、ネット配信でのベルリンでの予行演習以上の名演には接し得ないからである。僅かにバーデンバーデンやルツェルンなどでの名演が実況中継録画録音されているに過ぎない。

今回の日本公演はソウルでの二夜を挟んで、二つのプログラムとも数回以上の公演となるので、夏のツアーのルツェルン公演などに匹敵する名演が繰り広げられることになる。それをメディアなどを通すことなしに体験するというのはやはりなによりもの評価になる。

一時は日本などでも指揮者チェリビダッケなど録音を避けてきたその演奏会は幻のとかの形容詞がついていたのだが、そういう意味ではペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカー公演もそれと大差はない。

そしてその意味からも今回の津々浦々をまわることでの接触はとても優れた企画となる。前回のカラヤン時代の1957年のそれにもそうした文化使節的な意味合いが含有されていたのも間違いない。

そして最終日のアマチュア―演奏家を集めての演奏会で、西洋音楽に親しんでもらうという原点に返っての音楽文化的なレクチャーとなっている。上海では更に実際的なワークショップなどが開かれる予定でコロナ中に中止となったのだが、その一つ先での日本でも学んで貰おうという目的がある。



参照:
二極化によって描かれるもの 2023-11-14 | 文化一般
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評
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舞台に現れるメダリスト

2023-11-15 | 
承前)フィラデルフィア管弦楽団演奏によるラフマニノフ祭りについてまだ書き切れていない。そしてこの演奏会もベルリナーフィルハーモニカーによるアジアンツアープログラムも九月の二つのツアーのプログラムもそれどころかファイニンガーの全貌の展示会にも密接に関係している。

ラフマニノフ祭りでは集中して聴くことであまりにも耳につくディエスイレスのグレゴリアン聖歌の節のまった中になることで、この作曲家の独自の書法に否応なく向き合うことになる。そこでは合衆国へと向かってからのジャズの要素も使いながらも、その有名なしつこい旋律線などへの視座も変わってくる。なによりもピアノの名人がピアノを使ってどのように筆を進めていったかなどを思い描くと面白い。

既にお勉強の時から右手左手のような上行下行の書法には注目していたのだが、その長身の大きな手を使いながらも何故あれほどの細かな音程関係での動きを重要視したかの答えが演奏会前のレクチャーの中にあった。

それは上のグレゴリア聖歌の一節によって目立たなくされていた正教会の聖歌の影響だとの予想を再確認させた。そうした上行によってクライマックスが築かれて、対句などで下行へとアンチクライマックスになるという構造となっている。

これをその次の週の同じバーデンバーデンの祝祭劇場でチチェーリア管弦楽団のどうしても気づかされたイタリアンバロックからのそのカンタービレの在り方と比較してみるとこれまた興味深い。それどころかアジアンツアーにおけるベルクの12音技法確立に先行する作品においてもその量子力学的跳躍の音程関係とその変奏の技法はなんら歴史的に変わらないということで、ラフマニノフが自らのモットーとした「頭で構成しない音楽」の表現方法とそれが対峙しているということである。

まるで幼稚園児が音楽技法を語っているかの様な有様なのだが、余談ながらリズムやその音色などを認識すれば、その上行下行の所謂鏡面構造とされる反行の12音楽技法も、取り分けバロック以降の長短調システムで特別に教育されていない「素人」の方がより直截にその動機の扱いを聴き取れるという事象があることも矛盾しないのである。

前置きが長くなったのだが、トリフォノフのピアニズムの素晴らしさはリヒテルらのそのロシアのそれを継承しているからであるのだが、「パガニーニの主題によるラプソディー」で示したその奏法は、今迄どの超一流奏者からも見たことのないオリムピック選手のようなそれだった。それは何もスポ―ティーであるとか訓練した身体が其の儘動いていうるというものとは全く異なり、全身の神経をその音楽に奉仕しなければ為らずの演奏行為だったということで、現在最も鍵盤を上手に叩けるアムランなどともその全身の捧げ方が全く異なり、ポリーニにもソコロフにもそうした献身は見ていない。

ピアニストが舞台にそっけなく現れてどこか落ち着かない金メダル候補選手がトラックに現れるかのような張り詰めた姿を見せるのはまさしくそうした演奏行為の真実であるのを初めて認識した。演奏行為というものである。リヒテルにおいてもそういったことは一切なかった。(続く)



参照:
二極化によって描かれるもの 2023-11-14 | 文化一般
付け合わせザウワーボーネン 2023-10-26 | 料理
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二極化によって描かれるもの

2023-11-14 | 文化一般
明日火曜日からベルリナーフィルハーモニカー日本公演が始まるらしい。先ずは高松で表プログラムのブラームスらしいが、木曜日の裏プログラムの名古屋公演に向けても、纏めておきたい。夏のツアープログラムとしてルツェルンで聴いたのだが、先週フランクフルトでの壮行演奏会があったので敢えて言及せずにいた。

特に前半のレーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」はこの作者の演奏史としても重要で、20世紀前半の音楽の重要なマイルストーンであったことを示した演奏会だったことは既に言及した。

そして後半の「英雄の生涯」に関しては創意からすればとても喰い合わせの悪い、つまりレーガー自身が明らかに嫌悪している世紀末の音楽とのカップリングとなっている。そうした二極化によって描かれるものは。これだけで画期的なのだが、それに表のプログラムがまた非対称となっている。

やはりどうしてもカラヤン指揮の日本公演のプログラミングと比較してしまう。先ずプログラムを二種に限定して、そこでの集中化と、日本ツアー中での進化が想定されている。だからと言ってなにも初日よりも最終日が遥かに優れている訳ではないが、変化が予期されているのは楽団側からも「英雄の生涯」の演奏が毎回進化しているとコメントがあったばかりであるので分かるだろう。

勿論毎回が超名演になるなんて言うこともあり得ないが、必ずそれだけに遥かに水準から高いところで光るところがあるのはペトレンコ体制で始めから聴いてきた証言である ― それはラトル体制の最後には酷い演奏が為されていたのとは大きく異なる。

今回の公演では、裏プログラムの二曲は完全に完成された演奏となって、今後とも日本だけではなく演奏史上で越えることがないものとなるだろう。表プログラムは、少なくともブラームス交響曲四番においては来年の復活祭で再演されるのでそこ迄は進化し続ける。ベルク作品に関しては、今後のシェ―ンベルクの作品演奏でも活かされることになる。ペトレンコ指揮のプログラミングは、必ずしも聴者を教育するだけのものではなくて、楽員を含めての教育プランの中に位置づけられている。

ここまで事象を挙げれば、最初に日本公演の日程が発表された時に、その東京公演の数からツィクルスと称して名曲連続演奏会を予想していた日本の音楽愛好家は既に感覚が半世紀以上遅れている。実際上のレパートリー熟成の企画面からもツアーでそのような演奏会を為せるのは十年以上も常任指揮者として君臨しているとか、または制作の為にメディア産業が十分に練習時間を支払うしか儘ならず、そのような経済構造への期待も前世紀の遺物でしかない。

文化芸術は、その創造面において、実社会や世界を洞察して将来を観て先行するものでなければ少なくともオピニオンリーダーとも為らないので、そうした企画をする者がいれば間抜けでしかない。そのような人物や団体はたとえそれが演奏家でしかなかったとしても相手に出来ないのである。個人的にも馬鹿とは付き合ってはいられないというのはそこである。



参照:
暗い井戸の中をじっと覗く 2023-11-03 | マスメディア批評
透明なモーゼルワインを 2023-11-09 | 文化一般
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暖房を入れ始めた週末

2023-11-13 | 生活
週末から暖房を入れた。陽射しなく雨勝ちの湿気で冷えてくるようになってきた。しかし篭り部屋に急がないようでよくなったのは、窓ガラスの適時の清掃と事務机横のヒーターにお湯を流すようになったからだろう。熱くなるような迄の勢いは期待していないのはその上にリモートスピーカーが設置されているからだ。しかし穴を塞ぐことで直截な熱を避けたことで使用可能となった。これで同時に寝室のある吹き抜けロフトの天井裏まで温まってくれれば部屋ごとの暖房もあまり必要がなくなる。それだけでもう数週間凌げるならば暖房を節約可能となる。

咳が出たり頭痛がしたりの症状はフィリーを聴きに行く頃から表れたが大事に至らずで、身体も冬型になって来て太った。ランニングは摂氏一桁でも先日購入した7インチのショーツが暖かめでエステルのTシャツにフリースだけで走れている。但しキーポッシェが下腹に付いていないことに気がついた。後ろにポケットがあって、四十年ほど前に購入して使っていたものと同じである。使い方が少し違う。

冬場は上着を着ていれば車の鍵をそこに仕舞えるが、夏場はポケットが無くなる。そこで試しに後ろに入れて走ってみた。幸いなことに上下してポケットから飛び出そうになるようなことはなかった。理由は生地が柔らかくて鍵にしっかり寄り沿っているからだ。長めなので夏には暑くなるかもしれないが使おうとすれば紐でポケットに結びつけるなどの工夫は必要になるかもしれない。新しい車の鍵はもっと携行しやすくなっているのだろう。一先ず満足で次回購入するときは再び6インチを選べばよい。

週明けには散髪に出かけるので、そろそろベットもクリスマス仕様にする頃だ。就寝時も冷えてきていて、弱く上手に暖房を入れるようにしているが、夏布団では心細くなってきた。直に冬仕様にしなければいけないだろう。

最近食した珍しいものは蓮の実の餡の月餅である。あまり記憶にない。殆ど甘くなくて、今まで食したものの中で最も甘くない月餅である。甘くない団子などはあるがこういうのはあまり記憶にない。



参照:
ファーストフラッシュ価値 2022-05-08 | 料理
新茶を一月で飲み終える 2023-08-07 | 料理
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七艇のコントラバス

2023-11-12 | 
デジタルコンサートホールを観た。極東ツアーでの表のプログラムAを観る為だ。なによりも懸案のブラームス交響曲四番である。今回の日本公演ご招待の企画でただ券が配られていた。その一つの二日券を使った。

ざっと流したが、モーツァルトもベルクも上手く行っていて、後者の完成度も高く、歴史的に最もいい演奏が東京でも披露されるだろう。ブーレーズ指揮などでははっしょっていたものが全て聴かれる筈だ。改めてじっくりと聴いてみたいが、そこでは八艇のコントラバスで、ブラームスでは七艇になっていたので、新聞評での八は誤りだ。

さて肝心のブラームスであるが、試みは確実に為されていて、特に四楽章の短調への流れから今度は再現に入って26変奏のホルンから213小節のオーボエのピアノからリタルタンドまでで感動した。そしてピューアレグロのコーダへと。

なぜか手元の総譜には悉く注意点がチェックされているのだが、それらがバッチリと決まっている。自身のメモなのでなにもアナリーゼから出してきたものではない筈で、名演の恐らくフルトヴェングラー指揮での留意点に近いと思われるのだが、そしてミュンヘンからの帰宅後の確認だと思うのだ。

四楽章は可也完成している。あとはいつものように一楽章、二楽章、三楽章へと修正して行けばよくなる。特に一楽章はばらけた印象があるのはまだまだ演奏者の十分な感覚的な合意に達していないからだろう。まだまだ従来のそれが抜けきっていない面が感じられる。実際にこの曲では勢いでイケイケになって仕舞うところを演奏者が如何にこまやかに楽譜の音を出せるかどうかに掛かっている。

復活祭の再演ではこれらが全て一掃されてもはやカラヤンサウンドは歴史の彼方に消えて、ブルックナーへと先に歩めるはずだ。パトレンコ体制へと次の三分の二へと大きく近づくことであろう。今はまだまだ戻れる安全な岸があって、まだ完全には向きが変わっていない。それを象徴するかのように今迄は前には座っていなかった定年間近のオヤジが第二ヴァイオリンを交代で率いている。カラヤン時代の生き残りである。勿論そこを乗り越えていくことは、なにもベルリナーフィルハーモニカーに留まらずブラームスの管弦楽曲の演奏史として大きな転換を迎えるに違いない。それは昨年のエンゲル指揮の絶賛されてブラームスツィクルスで証明されていた。

こうした事情もあってまたベルリンの定期公演では勤務調整で一線の団員が演奏していなかった。いつもながらのツアーの為の予行演習がベルリンでは為されているという定説がまたここでも実証されていた訳であるが、そのありうるべき姿も批評では十分には示唆されていなかたった。ミュンヘンの公演を聴いていないと予測も難しかっただろうと思われる。

少なくとも東京、川崎公演では一先ず世に問うだけの演奏が為されるのは間違いない。そこでどれほどの批評が為されるのか。既に完成に近いレーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」に近い程度までの演奏が為されれば大成功であろう。



参照:
芸術の歴史的意味合い 2023-11-08 | 音
暗い井戸の中をじっと覗く 2023-11-03 | マスメディア批評
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ピアノを弾くのも野蛮

2023-11-11 | 
今年最後の音楽会だった。ローマの聖チェチーリア管弦楽団と18年間そこに君臨した指揮者パパーノによる最後のツアーだった。興味ありどころはこれだけの長い体制は最近では珍しく最後まで上手く行っている様子であった。指揮者の指示も楽員の力量も発揮できていると確認できた。

特に最近お国ものを振ったインキネン指揮の酷い演奏で聴いたシベリウスの「エンサガ」は見事な演奏で、往路に車中で聴いたヴァンスカ指揮交響楽団のものよりも良かった。サイモン・ラトルなど英国の指揮者はシベリウスを得意にしているというのを改めて感じた。

その演奏もとても制御されていて、それが曲の構造や魅力を明らかにしていたのは、勿論その演奏技術上の秀逸さでもあった。同時に一曲目のケルビーニの序曲でも兎に角カンタービレの歌い方が統一されていて心地よい。それはとても近親関係にあるベートーヴェンのピアノ協奏曲三番ハ短調においても如実に表れていた。

なによりもカンタービレが音の頂点で山を作って歌うという原則が徹底していて、それによって弦楽だけでなく音が明るく輝く。勿論バロック以降の所謂長短調システムがそれによって輝く。これは、最後の曲のリヒャルトシュトラウス作曲「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないらずら」で顕著になるのだが、所謂後期ロマン派における調性によるグラデーションには遥かに遠い。

要するにとてもバロック的に単純化されることになる。作曲がそれ以上でもないということになるかというと、やはり正しい歌い方をすればそれ以上の趣が浮かび上がるということでしかない。

このオペラ界の頂点に君臨する英国の指揮者がなぜミュンヘンやベルリンでの活動の契約に至らなかったかはこれで明白になっていて、パパーノ本人が誰よりも自らを知っているということでしかないだろう。

ピアノを弾いたレヴィットの演奏は、想定よりも酷かった。以前聴いた時は亡くなった作曲家レジョエスキーとのデュオリサイタルでそこ迄は目立たなかったのだが、そのリズムも取れないピアノのみならず舞台上で芸術家気取りの態度など、なるほどその政治的なスタンスとは別に殺害予告をされても仕方のない音楽家だと思った。自分で合わせることも儘ならないのに楽団の演奏を聴くふりをして、指揮振りやピアノに指を走らせたりしても実質が全く伴わないのには腹立ちさしか感じさせない ー それどころか今の世界情勢の中で、第二楽章の管弦楽演奏時に譜面台の上縁に肘を乗せて、手を組んで拝んだパフォーマンスはもう決して許せない。先日のネゼサガンと相似するそれは音楽的に大きな弧を描くだけのリズムを維持できないということでしかない。

先週末に聴いたトリアノフのピアニズムを知って「僕もピアノが弾けたなら」と書いたが、レヴィットを聴いて「こんなピアノを弾くのは野蛮だ」と僕は言いたい。少なくともこの程度ぐらいなら僕なら趣味でも弾かない。

さて、この楽団が南のベルリナーフィルハーモニカーかと言えばそれは比較にならない。幾つもの美点はあるのだが、一つことしかできない点では座付き楽団のヴィーナーフィルハーモニカーに近い。要するに機能的な交響楽団ではない。それはキリル・ペトレンコがこの楽団を振ってシュ-ベルトの交響曲中継映像で分かっていた。



参照:
もっとシムプルに行きたい 2021-07-14 | マスメディア批評
ローマからの生中継 2023-01-22 | 文化一般
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虹の架かるレーマーベルク

2023-11-10 | 雑感
火曜日の演奏会の評も出ている。フランクフルターアルゲマイネ紙の方は本紙には遅れているのか載らないのか知れれないが、ネットではレーガ―を絶賛していて、見出しの「対位法のアクロバット」はまさしくその演奏でもあった。有料記事なので詳しくは分からないが、気になるのはダイシンへの評価ぐらいか。

個人的には金曜日はバーデンバーデンで初めてローマの管弦楽団を聴くので、そのあとでアーカイヴ化された極東旅行のプログラムAを無料券で聴こうかと思う。初日の批評などでほぼ分かってはいるのだが、ほぼミュンヘンでの指揮を成功させているという印象である。

朝晩寒くなってきたので薄く暖房が効くようになってきた。それでもまだ篭り部屋に行こうとは思わないので、それほど寒くはない。来週明けに床屋も予約していた。しかし目安である外気温摂氏三度の予報が一向に出ておらず冬タイヤ装着の予約は出来ていない。今年はおかしい。発注したエンジンオイルも配達されそうなので年内は問題なし。購入しなければいけないのは不凍洗浄液ぐらいだ。問題は新車試乗の予約か。

フランクフルトではレーマーベルクの駐車場に久しぶりに車を入れた。入口が路地裏みたいなところに入っていくので最初は外してリエントリーした。嘗ても苦労した覚えがあるのだが二十年以上前の話しだ。結構広いのだが、やはりよく知っている人でないと停め難いのかもしれない。

今回改めて最初の一時間2ユーロも安く感じて、地所からすればミュンヘンよりは安めにしてもと一寸驚いた。アルテオパーも同額で、ミュンヘンで20ユーロも払っているのとは大分違う。

美術館から出て直ぐに路地からの写真を撮った。なぜならばそれはフェイニンガーが描いていたその構造にとても似ていたからである。皆がそれに気づくと思う。そして背後にはドームが聳える。まさしくその風景だ。しかし違うのはそこに虹が架かっていたことである。その虹はベルリナーフィルハーモニカーの写真家にも写されていた。

フランスのス-パ―に行く序にそこのパンを買うぐらいならもっといいものを探したい。一軒は午前中しかやっていないので本格的か。なかなか機会がないが、もう一件も評判は悪くないので試してみたい。

チーズを多めに買う為にどうしても本格的なバケットが欲しい。しかし小さな村ではドイツと同じで手作りパン屋は難しい状況だとは思う。どうしても工場生産の配送とかが増えているに違いない。

今回は海の幸を購入してくるが、ちょっと変わったものがあるだろうか。ダルマイヤーでも何処でも結局いつものものしか買わないのだが少しは違うものも試してみる。ワインの場合はコーラとは違うのでいつもいつもがお試しである。買い付けの方もいつも選択しているようでそれは大したものだと思っている。年度違いはあっても良さげな買い付けをしているのは分かる。ワインとはそうしたものである。



参照:
透明なモーゼルワインを 2023-11-09 | 文化一般
お手本としてのメディア 2008-01-20 | 雑感
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透明なモーゼルワインを

2023-11-09 | 文化一般
承前)アルテオパーに出かける前にレーマーベルクに出かけた。旧市街地再開発後初めてだった。何処がとは認定できない程であるが、明らかに上質のルネッサンスの面影が蘇っていた。そこのシルンという美術館で米国生まれのファイニンガーの全貌を網羅する絵画を鑑賞してきた。

集めてみるととても魅力的で、ニューヨークのドイツ系ヴァイオリニストの音楽家庭出身なだけに、その色彩の構造も音楽的であり、時間をキャンヴァスにも表現している。16歳の1886年に母親のピアニストとの演奏旅行に欧州に同行している。自らも音楽を学び1901年にシュナーベルの弟子のユダヤ系女性のピアニストと結婚、そして所謂ベルリンの分離派に1909年に参加している。

多くの人にとっては、1937年にナチの政権奪取から米国に帰還してからの摩天楼の絵画が有名ではないだろうか。なるほどその昔とは変わってしまった故郷の摩天楼が抜かれて描かれることで2001年のグランドゼロを思い起こさせる。本人にとっては決して快適なスカイラインではなかったようで、まさにそれが暗示されていた。

所謂モダーンな画家と呼ばれるのであるが、キュービズムへと突き進むことはなく、自らの路を定めたとあった。新聞評には、それをしてフリードリッヒの死から百年後のロマンティズムというようなことが書かれているのだが、些か形式的な分類ではないだろうか。

奇しくもその後に聴いたレーガーと同じ年の生まれであり、その方向性や色彩感にも共通している面がある。実は出かける前に認識では19世紀にあれだけ現代的な「英雄の生涯」を創作していたリヒャルト・シュトラウスとの親近性を感じていて、モダーンな作風乍実はその根は19世紀風かと思っていたのである。

しかし作風の技術性からして、またモダーン性からして、シュトラウスにおける追従とは全く相容れないことが明白だった。ほとんど知識が無くてもこれだけの展示会に出かけると、そうしたことが分かるのである。

改めて、マックス・レーガ―が語っていることが取り分け興味深い。名指しは避けながらも「交響曲でカウベルを鳴らしたり、ハ長調でニッチェの哲学を語ったり、そうした世界観で世界がひっくり返るような曲」の馬鹿らしさを語っている。勿論それは所謂世紀末の文化とされるものではあるのだが、20世紀のモダーンとは文字通り一線を隔すだろう。

本人は大食漢で、働き蜂として、朝食から12本のヴァイスヴルストを食して、限られた時間の食事などを挟んで夜分まで仕事をしていた。それゆえにか、コーヒーを浴びるほど飲料して、外食では二時間続けてシュニッツェルを給仕させたという。

そうした人物が、上のマーラーやシュトラウスの音楽を称して、「いつも暗く重いボルドーの赤ではなくて、モーゼルの透明な白なんだ」というその趣向が語るその感覚はとても大きいと確信する。



参照:
上からの全貌展に期待 2023-10-06 | 文化一般
ヴァイマールからの伝言 2005-12-03 | アウトドーア・環境
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芸術の歴史的意味合い

2023-11-08 | 
フランクフルトでの壮行演奏会、レーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」は歴史的な演奏だった。なによりも明快さは作曲家の求めるものであって、それは音色としても構造の明快さにもなっていた。

この曲は教育者養成教育プランの課題にもなっている。題目は、「バロックから現代の音楽への変奏」となっていて、要するに音楽などを教育する者はそれぐらいの視野を持っていないといけないという卒論程度のものであろうか。

キリル・ペトレンコは、レーガー作曲を音楽的に、近々では「ハイドンの主題による変奏曲」からブラームス交響曲四番、そしてシェーンベルクの「管弦楽の為の変奏曲」への演奏のプロジェクトの中に組み込んでいた。

抑々モーツァルト自体の主題後半の繰り返しの変奏に目を付けたレーガーが、最後に作曲した大曲であり、暴飲暴食で死亡した作曲家の音楽神モーツァルトへと繋がる創作であった。

演奏技術的には、極東ツアーの表のプログラムの独伝統的楽器配置にこのプログラムも揃えて来た。それによってフーガ、ドッペルフーガのみならず、弦楽陣も重層にアンサムブル可能となり、九月でミュンヘンで聴いたクセナキスの演奏に匹敵していた。これだけで歴史的な演奏であり、コロナ前にルツェルンで聴いた「ラペリ」に匹敵するような後期浪漫の真髄のような摩訶不思議な音響を奏でた ― これに関しては同年生まれのレオニー・ファイニンガーの作品を直前まで観ていたので関連して改める。

上の楽器配置での演奏が可能となったのもコンツェルトマイスターのダイシンの功績が大きい。ベルリンのフィルハーモニーでは音響的に効果を上げにくい配置であるが、フランクフルトのアルテオパーでは最高の結果となっていた。ソウルや日本でもシューボックス型の音楽ホールでは完璧な音響が得られるであろう。

それは後半の「英雄の生涯」においても、最大限の効果を上げていた。何よりも透明性はその楽器の音域と明るさによって保証されて、まさしくリヒャルト・シュトラウスが後年「サロメ」や「エレクトラ」で為した楽劇での作曲法、つまり声を大編成の管弦楽団に合わせて尚且つ歌詞を明瞭に聴かせる管弦楽法として集積した音響がここに再現されていた。嘗てこの伝統的配置でここまでの演奏をした指揮者は誰がいただろうか?思い浮かばない。愈々ベルリンの新フィルハーモニー構想に火が点くのではないだろうか。

しかし残念なことに脇主役のヴァイオリンソロは、夏のツアーまで六回本番を弾いてきた女性のサライカの本格的なヴァイオリンには到底及ばなかった。ブーが投げかけられたダイシンはコンツェルトマイスターとしては世界の頂点にいるのだが、ソロとしてはカラヤン時代のシュピラーラを越えられるかどうか。何も技術的な問題だけではないのだが、サライカが奏でた英雄の伴侶としての演奏は嘗てのシュヴァルベの演奏を越えており、この戦争の時勢にこそ女性がというとても大きなアピールがあった。繰り返すことでよくはなるだろうが、少なくとも「英雄の生涯」の音楽芸術的な意味合いは到底得られない。それが問題なのである。コンツェルトマイスターリンにもう一息成長して貰う方がいい。ブラームスはダイシンの方が上手にできる。(続く



参照:
彫塑の必要な若者様式 2023-04-17 | 音
初日へと期待が膨らむ 2023-08-26 | 女
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目線が向かうところ

2023-11-06 | 
承前)バーデンバーデンでのラフマニノフ祭は復活祭に続いて評価されるかもしれない。理由は生誕百五十年の作曲家と最も関係の深いフィラデルフィア管弦楽団で少なくとも三つの交響曲と、そこで1927年に初演された最後のピアノ協奏曲、そして1934年の「パガニーニの主題によるラプソディ」など四曲などが三日間で演奏された意義は大きい。

1936年の交響曲三番や1941年初演の交響的舞曲やオーマンディ指揮の楽曲は特に後者はコロナ中止前にフランクフルトでベルリナーフィルハーモニカー演奏で聴いていたのでその必要もなかった。

ストコフスキー指揮で初演されたそのフィラデルフィアサウンドは一貫して想像することも可能で、特にアンサムブルの在り方はラフマニノフの創作に影響を与えていることも、その木管陣の扱いからなどに見て取ることが出来る。

交響曲一番やエルベの畔で創作された1907年に交響曲二番においては必ずしもではないのだが、それでも木管と弦との合わせ方や音色の出し方は、まさしく当時求められていた作曲であったのだろう。1909年に初の合衆国演奏旅行でニューヨークで指揮したマーラーとの共演に相応しく、そこで第三協奏曲を初演している。

今回ピアニストのトリフォノフによって最も好きな曲として演奏された第四協奏曲は、その意味から弦よりも金管へとよりその比重も移されていて、七年後の「ラプソディ」にてその管楽の扱いがより明白になっている。

初日での第四協奏曲においては指揮の力量もあって、管弦楽がピアノに影のように寄り添ってということにはならずに、音量的にもマスキングされる部分も多く残念であった。指揮で要求されなければ大管弦楽団がそのような絶妙のダイナミックスを取り得る訳もなく仕方なかったのだが、その配慮は二日目の「ラプソディ」でもあまり変わらなかった。しかし個人的に最も音楽的にも相違があったのは下手側の鍵盤が見える所に陣取ったお陰だった。

ピアノのリサイタル等で必ずしも音響の優れない下手側が売れて最後に上手側の客席側が余る。その効用については全く合点がいかなかったのだが、聴覚的に聴き取り難い音でも鍵盤を走る指の動きの視覚的な助けを得て聴こえるというのを今回初めて認識した。

抑々ピアノ協奏曲を聴いた経験はそれ程多くはなく、古くはカラヤン指揮ヴァイセンベルクとか記憶に残るものはとても限られている。それゆえにか今回の様に被ってくる経験もそれほど多くはなかった。お目当てのトリフォノフのピアノを聴きに行くことからすれば心外なのであるが、「ラプソディ」では用が足りた面もあった。

勿論初日のアンコールの「ヴォカリーゼ」は二日目の管弦楽演奏とは比較に為らない色彩の多様さをタクトごとのタッチの変化で見事に描き切っていた。二日目のラフマニノフ編曲「パルティータのガヴォット」とジャズ風曲はそこ迄の妙味はなかったのだが、本プログラムの「ラプソディ」はこれだけのものは今後聴けないであろう。年末年始の中継録画放送が楽しみである。(続く
Rachmaninoff: Vocalise, Op. 34, No. 14 (Arr. Trifonov for Piano) (Long Version)




参照:
付け合わせザウワーボーネン 2023-10-26 | 料理
BACHへのその視座 2021-08-22 | 音
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拡充するレパートリー

2023-11-05 | ワイン
バーデンバーデンに二日通うと疲れる。朝の晴れ間に走っておいたので猶更だ。往復94km程なのだが、二日目が二時間早く始まるとなると余裕がなくなる。初日にフランスで買い物を済ませておいた理由である。今回は一週間後にもう一度機会があるので最低の物しか買わなかった。それでもブルゴーニュ二本を購入して、チーズやキシュなどを購入すると60ユーロを越えていた。一本は二十年ほど寝かせろうというワインだが、2018年産でなくて2017年産だったので、金曜日に2018年産の先日飲んだものがあれば買い足す。

通常はスーパーが特別買い付けしているようなブルゴーニュのピノノワールの中から所謂ネゴシアンによって外国市場に高く売りつけられているような著名地所の近くのヴィラージュとか地域指定ものを選ぶ。価格では出来るだけ30ユーロを越えないようにである。価値判断は、30ユーロを優に超えるとドイツでもグラン、プリミエクリュとして当然の品質のリースリングになり、要するにお買い得品ではなくなる。それならばスーパーが買い付けした意味合いが無くなる。

「地元」スーパーでの物色はこうした裾野を研究することで、地域的な網羅も出来るようになると思っている。だから今回当夜に開けるブルゴーニュとして購入した13ユーロのピノノワールは、ボーヌよりも南のシャロネーズの物は買わないのだが、例外的に2018年のルリーの名前で購入した。ブルゴーニュと相似のプファルツで当て嵌めるディジョンから南でボーヌから北に相当するハールトと南ワイン街道の相違となる。

調べてみるとやはり早飲み系なのだが、あの地域にありがちな色の薄さもあまりなく、酸味も適当でベリーの味覚も香りもあって悪くはない。コッコヴァンにとか書いてあるが、価格以上に勿体無いなと思わせる。

確かにリースリングでも13ユーロならば日常楽しめる高品質ワインは現時点では探せるので、当たるも八卦である。これは当った。ピノワールファンならばこれで十二分に満足できる筈。やはり2018年産は良くて愉しい。

来夏のルツェルンの音楽祭のプログラムが出た。ブルックナー五番をユース管弦楽団に序ベルリナーフィルハーモニカーのシーズン初日にかける。指揮者キリル・ペトレンコは、ブルックナーツィクルスをフォアアールベルクで希望していたので、コロナ前のシューベルト交響曲に続いて当然のこととしてブルックナーを指揮することは分かっていた。五番から始めるのも対位法のシェーンベルクなどに続いてありうるべき選択だったであろう。恐らく九番も続くと思う。

オーストリアの指揮者としてブルックナーをフォアアールベルクで振ろうとしていたがシェフ指揮者が計画していたので駄目になって、ショスタコーヴィッチになった。来年は時間があるのかどうかは分からないので、ベルリンで既に振った三曲以上にやるのは大分先になるということだ。

早速、ルツェルンの宿を予約しておいた。前回のところが値上がりしていたが、少し大きな部屋な感じのようで、先ずは保険に取っておいた。より安く快適なところを探したいが中々難しいと思う。地下ガレージが広めでよかったので、もし新車が入っていても気持ちがいい。



参照:
よく分からない価値判断 2023-10-27 | ワイン
旅絵日記一時帰宅編 2023-09-02 | 雑感
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明確なブーイングの意味

2023-11-04 | 
フィリー、フィラデルフィア管弦楽団を聴いた。合わせて三回目だと思う。最初はムーティ指揮の日本での公演で、二回目はルクセムブルクでの現在の体制になってからである。オーマンディ時代は聴いていない、アメリカの管弦楽団にあまり興味がなかったからである。前回聴いた時もその技量の程度を見極めたかった。超一流管弦楽団であっても世界でどの位置にあたるかを見極めたかった、それによってペトレンコ指揮でのベルリナーフィルハーモニカーを位置づけたかったからだ。

夏のメトの管弦楽団は態々飛んできてコンサートをやる価値は全くなかったが、フィラデルフィアは何度でも聴きたい楽団である。なるほど全盛期のコンセルトヘボ楽団のような精妙なアンサムブルはないのだが、カーティス音楽院でのエリート教育の集団で、そこのサウンドが培われている。

ホームでもそうな様に前半と後半では面子が変わり、前半の協奏曲などでは若手の前座みたいな管楽器奏者が並び、後半は交響曲などでその管楽陣がサウンドの核となっている。木管でもクラリネットのモラーレス以外はファゴットのマツカワなどまだ若いので暫くはまだよくなるのではないか。金管も弦に合って、ニューヨークの様に脂漲らない、しなやかさはホルンの女性のそれにも象徴されている。要するにオーマンディー時代とはまた違う美質がみられるということだろう。

どうしてもより12年程古いコンセルトヘボウと比較してしまうのはやはりアメリカン配置を取っている欧州の楽団だからということもあるのだが、そのガラミヤンなどの系列の弦楽陣のしなやかさは比較したくなるものでもある。

初日の最後に一人からの結構明確なブーが飛んだ。指揮者のネゼセガンに向けられたものだ。確かに営業的にも倒産したようなこの楽団を率いるだけの実力はあるのだが、指揮技術だけでなくて音楽的能力からして現在の世界最高の指揮者の位置にいるような指揮者ではない。

ラディオ生中継番組でモデレーターとして音楽を広い聴衆に紹介して働きかけるだけの能力が高いのは、ドイツでの女性の筆頭格のマルヴィッツなどにも共通している。しかしベルリナーフィルハーモニカーの後任候補として挙がっていた時も尻振りと言われた指揮やパルジファルなど難しい作品の指揮ではその才能の至らないのを見せつけていた。

そして今回、前半の協奏曲においてもあれほど迄の放送では世界の大ソリスツと息の合った演奏指揮をしているようなそぶりをしているに拘わらず、音を被せてしまうのである。頭を合わせてもそれ以上の指揮が出来ていない限り、ペトレンコの様に影のように出たり入ったりするような絶妙な伴奏などは出来ない。

それでも何故歌手には評判がよいのか?恐らくそれは長く拍節を跨ぐような歌い方が出来ないリズムが刻めないというのは、そのもの指揮者自身が合唱出身ということで、息継ぎを越えての大きな弧を描く様な音楽的な才能が始めから無かったということになる。二三流の指揮者ならそれで済むのだが、流石に現在の地位からすると到底受け入れられないというブーの意思は手に取る様に分かるのである。(続く



参照:
ビッグファイヴの四つ目 2018-05-28 | 文化一般
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
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暗い井戸の中をじっと覗く

2023-11-03 | マスメディア批評
韓国日本旅行に向けての初日の評が出た。ベルリナーフィルハーモニカーの極東ツアーへのプログラムがベルリンで演奏された。モーツァルト、ベルク、ブラームスで、ベルクに関しては既にイタリアでの解説付き演奏会が生放送されていた。今回も予め曲への解説がヴィデオで為されている。そしてモーツァルトで始めての「プログラミングは振り返ると」と、地元紙で絶賛されている。

個人的に取り分け興味があるのは、このブラームス交響曲四番曲を前に聴いたのはカラヤン指揮であり、それは「ハイドンの主題による変奏曲」に続いて演奏された。後者は九月のルクセムブルク公演で溜飲が下がった。カラヤン指揮では為されなかった音楽の創作の真髄を体験できたからだ。つまりブラームスが変奏様式で描こうとしたその知的な活動とその感興を味わえたとなる。カラヤン指揮の音楽が批判されたのもその豪勢なサウンドに全てが搔き消されていたからでしかない。

初日の演奏評にはジャーナリスト的に、一楽章から四楽章の振フィナーレ迄はどのような印象を残したかのイムプレッションとして、フルートと弦の主題が漂い、メランコリックな主題がラッシュで重なり、大きな戦艦がゆったりと波が打ち寄せるようにマスとなる。極限のレガートは心に刻まれ、目の詰まった構造の中では旋律的である可能性は殆どない。最終楽章では、八艇のコントラバスが繰り返し上行してもそこには解決もない。それどころか最後のフルートのあまりにも美しいソロも懐疑にしか響かない。憧憬を求めて終る。

評論家のハンスリックがこの第四交響曲を称して、「暗い井戸の中を覗いていると、長ければ長いほどそこにより明るく星が見えてくる。」との批評を引用している。

トレーラーでの余りにもハードテュ―ニングはまさしくミュンヘンで体験したものなのだが、その時は八艇も入れてなかったと記憶する。前半には日本公演で一度だけ演奏された「魔法の角笛」からが演奏されて、その陣容が継承されていた。つまり独伝統的楽器配置コントラバス五艇で以上の規模にはなっていなかったのは確かだろう。

ベルリンでのコロナ期間中の折衷案では致し方なかったが、ペトレンコが求めたマイニンゲンでのブラームス指揮自作自演の初演の書き込みは活かせていなかった。ミュンヘンでは特に管楽器奏者が正確な表現を不可能にしていた。しかしここでその挑戦が繰り返されていることになる。

そして思いがけない大編成は、ツアーのもう一つのプログラムのレーガー作曲「モーツァルトの主題による変奏曲」のように困難な演奏となるのだろう。まさしく先月キャリアの初期に名を挙げたマイニンゲンの劇場に戻って自ら確かめて来たパート譜はペトレンコの前任者レーガーによるコメンタールが為されているものである。レーガーの前任者はリヒャルトシュトラウスであり、ハンスビュローはそこからペトレンコと同じように真新しい交響楽団のベルリンに移っている。

そして、第一次世界大戦を反映したベルクの曲と共に、「遠く欧州と中東の戦争から離れた韓国日本の聴衆はこのあまりにも厳しいブラームスを如何に愉しむんだろう」と結んでいる。



参照:
Das Schöne und das Biest: Die Philharmoniker und Petrenko suchen Brahms mit der Gegenwart heim, Christiane Peitz, Tagesspiegel
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音
音作曲の楽曲分析 2023-08-29 | 音
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デカパン状のショーツ

2023-11-02 | アウトドーア・環境
ショーツがTシャツと同時に配達された。見た目からして一回り大きく長い。若干恐れていたのは、胴回りよりも、膝まで隠れて仕舞わないかだ。早速履いてみた。流石にその様なことはなかった。なぜならば股上の長さが2CMほど長いだけだからだ。即ち1インチ長いのだろう。7インチとなっているが17CMもなくて14CMほどで、現在使っているのが12CMなので6インチなのだろう。だから紐がついていて、そこで留めれるようになっているので若干デカパン風に締めれる。

走ってみないと分からないが、少なくともサイズLが大き過ぎるということはなく、使い方が変わるだけだ。冬場は裸で走っても少しでも暖かいかもしれない。早速試してみたい。これがあると夏でも日焼けの範囲を狭めて使えるかもしれない。なによりも行動中でなくても隠れる部分が大きくなるので使いやすいだろう。

実質重量は驚くことに、三つの中で一番軽く82グラムで、112グラム、96グラムに差を開けている。走る時に邪魔にならなければ一番走りやすい筈だ。早速使ってみたい。そしてこれぐらいの大きさがあれば就寝時にも紐を開放して此の侭履いておける。

更にもう一つ発注したTシャツ、これは18ユーロと安かった。Lだから小さくもなく、プリント部分も問題がなかったが、襟首タグがあたる。切り取るほどではないがこれも洗濯してみないと分からない。問題は生地で若干薄く、裁断もどってりとしている。因みに原産地は、ホンデュラスとなっている。結論は最初から下着向けだ。下着はもう少し安い16ユーロで買えるのだが、シャツのボタンを開けた時にどちらが見た目がよいかだけだ。早速その恰好で外出してみた。

壮行演奏会まで一週間を切った。「英雄の生涯」も頭に入っていないのでもう少しお勉強しないといけない。先日ここでも小さな動機の可聴が話題になった。今回の大ツアーで演奏するとなるとそうしたミスは許されない。しかしペトレンコが修正していくのは、本質的な技術的な問題がある場合は除いて、寧ろ音楽的な正確さ即ち明白化であって、所謂完璧主義というのとは若干違う。この点は音楽ジャーナリズムもあまり正確な表現をしてこなかった。

特にリヒャルト・シュトラウスで有名なのは、ショルティ指揮がそこ迄細々と音化してそれ程の芸術的な意味があるかどうかという批評だった。その点では特にコロナを越えて、ペトレンコの指揮はとても音楽的な意味合いが表に出てくるようになってきた変化が顕著になった。抑々演奏上の技術的な面を解決するのは楽団の仕事であって、正しい指針と細部を示して、本番でしっかりした指揮をするのが指揮者の仕事であろう。

そもそも復活祭の二回の演奏では、アシスタントに練習をやらせていたような塩梅だったので、とても長い期間を掛けて完成させてきている。しかしそれ以上にレーガー「モーツァルトの主題による変奏曲」は完全にものにして決定的な演奏を聴かせてほしい。永くあまり顧みられなかった作品をリヴァイヴァルするのはとても文化的な業績だと思う。



参照:
ペトレンコの日本への真意 2023-10-21 | マスメディア批評
フランス老舗の色合い 2023-11-01 | 暦
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フランス老舗の色合い

2023-11-01 | 
Tシャツが配送される。先ずは手に取っての肌触りで、そして大きさとか色目になる。双方とも下着にまた夏の上着に使えれば助かる。

ショーツの方は大きさでしかない。昨晩は穴の開いた短く小さなショーツで走った。外気温15度まであったので裸でゆっくり走ったが、それなりに汗をかいた。左足の土踏まずが痛かったので注意した。中一日であるとやはり疲れが残っている様だ。特に外気温が冷えた時に走ると足に来るようである。

窓ガラス掃除の効果は覿面で、だから夜も寒くはないのだが、就寝時には結構冷えているらしい。頭が痛くなる時がある。気候の変化でよく分からなくなっているのだが、11月に入っても外気温が摂氏3度以下になるのはまだ予報されていない。要するに冬タイヤに替える予定が立っていない。中旬以降ならば時間厳守で出かける予定もないので、路面状況が悪い時は走らないでいい。

Tシャツ一着確保で、一着放棄、もう一着でもう一着放棄となる。その他三着は、一枚はイヴォンショイナード限定版なので別途として、またもう一枚は取り分け涼しいので夏の為に保存。もう一枚を下着に下すかどうかが問題だ。

穴の開いたショーツはこれから冬場にズボンを履いて走る場合に役立つ。同じMサイズなのだが明らかにお尻も腹も張る。だから今回Lを発注した。走るのを習慣にしてから腹は流石に細くなったのだが、尻の張りはより筋肉がついた感じはする。以前は上の部分までは固くなかった筈だと思う。因みにジーンズは太ももも無駄な肉が無くなったので全く問題がない。以前はあまり気にしなかったのだが、ある程度の年齢に達するとどうしてもシェープアップの必要性を感じる。

さて最初に届いたミレー社のブラウン、気がついていた背中のタグの印字は若干ゴワゴワだが洗濯すればぼそぼそと剥がれるゴム付け。因みに日本のサイズでXL。胸元も意匠は肌に感じるプリントでもなく、風通しがいいぐらいだ。大成功のチョイスだった。

そして着てみると思っていた通りの大き目で最適だ。更に問題の色調もカーキに近いが結構お洒落な色合いのポルトガル製。流石にフランスのアネシー発祥のブランドである。思った以上にこの色合いを着れる。南欧にはブロンドも少ないからかのこの色彩か。EUでのビオ綿使用と欧州製の保証のタグ、それどころか2年間保証付きは想定外。至れり尽くせりでこの価格21ユーロ。色違いでこの大きさが同程度であればもう一つ買いたいぐらいのお値打ちものだった。

これならば急いで下着化する必要もないかもしれない。もう一つのMサイズのものを下着に下す方がいいのかどうか。一度洗濯してみないとしっくりこないかもしれない。もう一つのLサイズのより安いTシャツと比較してみて考えてみよう。

11月1日は祭日となるので、金曜日に出かける前に片付けておくことを片付ける。バーデンバーデンに二往復となるのだが、途上の安いスタンドで週明け火曜日のフランクフルト行迄の燃料を考えておけばよいので、休み明けに少し入れておけば用が足りるだろう。あとは現金を補充しておかなければいけない。再来週には年内最終の散髪だろうか。



参照:
休肝日深夜のお買い物 2023-10-28 | その他アルコール
アルプスの森の凶悪殺人事件 2012-09-06 | アウトドーア・環境
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