過日母方の叔母から電話があり、亡夫の遺品を整理していたら古いカメラが出てきたとのこと。カメラに興味があれば引き取って欲しいとのこと。そういえば、義理の叔父さんが亡くなって数ヶ月、土建業の前に、一時DPE店を経営していたことがあったけ。などと思いながら、即引き取りに行ってきました。
カメラ3台に三脚2台、ビデオカメラ1台が、段ボール箱に無造作に放り込まれていました。営業用に使っていたものらしく、DPE店を廃業して40年近くも経とうか。カメラは埃りだらけ、一部にサビもあります。
(1)NIKON M型 昭和24年発売
最初ケースから出してみたときに、ひょっとしてNIKONのS型かなと期待しました。終戦後作られたNIKONの中でもS型、SP型はきわめて高い評価があり、SP型の復刻版(H17年)は、1台60万円以上で売りに出された記憶がよみがえります。
(残念ながらS型(昭和25年)ではありませんでした どうやら昭和24年製のM型のようです)
(シリアルNo.の前にMの記号があります これがM型を示している)
軍艦部(カメラの頭の部分を言います)を見ると、シャッタースピードダイアルが二重になっています。25分の1以下の低速部分は外側に、30分の1以上は内側のメインダイアルになっています。終戦後に作られた多くのカメラがこのように二段方式となっています。(5)で取り上げるミノルタ35も同様です。なお、底部には、「made in occupied japan」の刻印があります。米軍占領下の日本で作られたものなんですね。
(布幕シャッターは、長年放置されたせいか、ボコボコで、塗料の剥れも見られます)
最後にNIKON M型の特徴として、フィルムサイズがその後主流となったライカ判(24mm×36mm)ではなく、24mm×34mmであることです。残念ながらシャッターは切れるんですが、露光されるかどうかは不明です。
(2)Minolta Autocord 昭和30年発売
残念ながら、これも長年放置されたためか、シャッター羽が、固まって開きません。夏になって暑くなれば、シャッター羽のグリースが緩み切れるかもしれません。ミノルタオートコードは、二台目になります。
(マクロレンズ、YO2フィルターつきです 裏蓋の外し方忘れてしまいました」
(3)MAMIYA 6×9 昭和35年発売
どえらいカメラが…やって来た。先ずは画像を見てください。マミヤプレスと言う業務用のカメラです。一般の人が趣味で使うカメラではなく、新聞報道や、集合写真を撮る業者が使うカメラです。
(首から提げたら、30分も持たない)
業務用だけあって、フィルムは6cm×9cm判8枚撮りのブロニー120型フィルムを使います。建築物撮影用に、歪みが補正できる「あおり」や「チルド」撮影も可能です。
(後部フィルムとの間に蛇腹があり、あおり、チルドが可能 昔懐かしい「ASA(いまのISOのこと」の文字が…)
(フィルムパックを交換することで、手札版のシート撮影や6×6判、6×4.5・セミ判も可能)
なおこの大型カメラは、レンズぴかぴか、シャッターかしゃり、完動品です。でも、このような大型カメラを振り回す機会は多分ないでしょうね。早速ビニールに包んでお蔵入りです。
(4)フラッシュガンとバルブ(発光電球)
現在では内臓ストロボやクリップオン型のストロボを使いますので、若い方はこのような発光装置は見たことがないかもしれませんね。
(シャッタースピードや、被写体との距離でガイドNo.を割り出して…とにかく面倒でした)
ストロボが普及しだしたのは、確か、私が中学生の頃ですから、昭和30年代前半のことです。当時学芸会のスナップを、業者から充電式のストロボを借りて撮影した記憶があります。
義理の叔母から譲り受けた8mmカメラ等がありますが、紹介するのは以上の4点とします。最期にもう1点挙げておきます。このカメラは、以前属していた北海道写真協会小樽支部のT氏から頂いたものです。
(5)Minolta 35 Model 2型 昭和24年発売
財団法人日本写真機光学機器検査協会の「日本の歴史的カメラ」によれば、昭和24年発売のミノルタ35(改良型)に該当するようです。改良型以前のミノルタ35は昭和22年に発売されましたが、フィルムサイズが、24mm×32mmであったため、主要輸出国の米国基準にあわず、占領軍によって改変させられたようです。その結果改良型(フィルムサイズ24mm×34mm)となったということです。
この辺の事情は、先に(1)で取り上げたNIKON M型の前のI型と同じようです。終戦後日本の工場で作られたレンジフアインダーのカメラの多くが当初24mm×32mm判(フィルム孔7穴)でしたが、占領軍の意図で24mm×34mm(フィルム孔8穴)ないしは24mm×36mm(ライカ判、8穴)に変更させられたようです。
(保管状況が良かったせいか、レンズ、シャッターとも全く異常無しの完動品)
このブログを書き終えて(19日)、後は公開待ちにしていたところ、再度叔母から連絡があり、もう一台出て来たので取りに来いとのこと。なんでも亡くなった義理の叔父が、新聞社のカメラマン助手をしていた頃のカメラだと言う。それが次のカメラです。
(6)Minolta SR-7 昭和37年発売
露出計にCdS(硫化カドミュウム)を搭載した世界初の一眼レフということです(ウイキペディアによる)。従来のカメラは、露出計にセレン光電池(トンボの目玉に似た)を使っていましたが、CdSによって感度範囲が広がり、受光部が小さくなりました。画像の右側の丸窓がそうです。
(フィルターで保護されていたせいか、レンズはピカピカ Auto Rokkor-PF F1.4 58mm付き)
なお、SR-7と言う名称の由来は、米国の宇宙船「フレンドシップ7号」にレンズシャッター機「ミノルタハイマチック」カメラが搭載されたことによると言う。このカメラは、シャッター幕に多少のシミがあるものの、低速、高速とも全く異常がない。近いうちに、(5)のカメラとあわせ試し撮りをしたいと思っています。
カメラ3台に三脚2台、ビデオカメラ1台が、段ボール箱に無造作に放り込まれていました。営業用に使っていたものらしく、DPE店を廃業して40年近くも経とうか。カメラは埃りだらけ、一部にサビもあります。
(1)NIKON M型 昭和24年発売
最初ケースから出してみたときに、ひょっとしてNIKONのS型かなと期待しました。終戦後作られたNIKONの中でもS型、SP型はきわめて高い評価があり、SP型の復刻版(H17年)は、1台60万円以上で売りに出された記憶がよみがえります。
(残念ながらS型(昭和25年)ではありませんでした どうやら昭和24年製のM型のようです)
(シリアルNo.の前にMの記号があります これがM型を示している)
軍艦部(カメラの頭の部分を言います)を見ると、シャッタースピードダイアルが二重になっています。25分の1以下の低速部分は外側に、30分の1以上は内側のメインダイアルになっています。終戦後に作られた多くのカメラがこのように二段方式となっています。(5)で取り上げるミノルタ35も同様です。なお、底部には、「made in occupied japan」の刻印があります。米軍占領下の日本で作られたものなんですね。
(布幕シャッターは、長年放置されたせいか、ボコボコで、塗料の剥れも見られます)
最後にNIKON M型の特徴として、フィルムサイズがその後主流となったライカ判(24mm×36mm)ではなく、24mm×34mmであることです。残念ながらシャッターは切れるんですが、露光されるかどうかは不明です。
(2)Minolta Autocord 昭和30年発売
残念ながら、これも長年放置されたためか、シャッター羽が、固まって開きません。夏になって暑くなれば、シャッター羽のグリースが緩み切れるかもしれません。ミノルタオートコードは、二台目になります。
(マクロレンズ、YO2フィルターつきです 裏蓋の外し方忘れてしまいました」
(3)MAMIYA 6×9 昭和35年発売
どえらいカメラが…やって来た。先ずは画像を見てください。マミヤプレスと言う業務用のカメラです。一般の人が趣味で使うカメラではなく、新聞報道や、集合写真を撮る業者が使うカメラです。
(首から提げたら、30分も持たない)
業務用だけあって、フィルムは6cm×9cm判8枚撮りのブロニー120型フィルムを使います。建築物撮影用に、歪みが補正できる「あおり」や「チルド」撮影も可能です。
(後部フィルムとの間に蛇腹があり、あおり、チルドが可能 昔懐かしい「ASA(いまのISOのこと」の文字が…)
(フィルムパックを交換することで、手札版のシート撮影や6×6判、6×4.5・セミ判も可能)
なおこの大型カメラは、レンズぴかぴか、シャッターかしゃり、完動品です。でも、このような大型カメラを振り回す機会は多分ないでしょうね。早速ビニールに包んでお蔵入りです。
(4)フラッシュガンとバルブ(発光電球)
現在では内臓ストロボやクリップオン型のストロボを使いますので、若い方はこのような発光装置は見たことがないかもしれませんね。
(シャッタースピードや、被写体との距離でガイドNo.を割り出して…とにかく面倒でした)
ストロボが普及しだしたのは、確か、私が中学生の頃ですから、昭和30年代前半のことです。当時学芸会のスナップを、業者から充電式のストロボを借りて撮影した記憶があります。
義理の叔母から譲り受けた8mmカメラ等がありますが、紹介するのは以上の4点とします。最期にもう1点挙げておきます。このカメラは、以前属していた北海道写真協会小樽支部のT氏から頂いたものです。
(5)Minolta 35 Model 2型 昭和24年発売
財団法人日本写真機光学機器検査協会の「日本の歴史的カメラ」によれば、昭和24年発売のミノルタ35(改良型)に該当するようです。改良型以前のミノルタ35は昭和22年に発売されましたが、フィルムサイズが、24mm×32mmであったため、主要輸出国の米国基準にあわず、占領軍によって改変させられたようです。その結果改良型(フィルムサイズ24mm×34mm)となったということです。
この辺の事情は、先に(1)で取り上げたNIKON M型の前のI型と同じようです。終戦後日本の工場で作られたレンジフアインダーのカメラの多くが当初24mm×32mm判(フィルム孔7穴)でしたが、占領軍の意図で24mm×34mm(フィルム孔8穴)ないしは24mm×36mm(ライカ判、8穴)に変更させられたようです。
(保管状況が良かったせいか、レンズ、シャッターとも全く異常無しの完動品)
このブログを書き終えて(19日)、後は公開待ちにしていたところ、再度叔母から連絡があり、もう一台出て来たので取りに来いとのこと。なんでも亡くなった義理の叔父が、新聞社のカメラマン助手をしていた頃のカメラだと言う。それが次のカメラです。
(6)Minolta SR-7 昭和37年発売
露出計にCdS(硫化カドミュウム)を搭載した世界初の一眼レフということです(ウイキペディアによる)。従来のカメラは、露出計にセレン光電池(トンボの目玉に似た)を使っていましたが、CdSによって感度範囲が広がり、受光部が小さくなりました。画像の右側の丸窓がそうです。
(フィルターで保護されていたせいか、レンズはピカピカ Auto Rokkor-PF F1.4 58mm付き)
なお、SR-7と言う名称の由来は、米国の宇宙船「フレンドシップ7号」にレンズシャッター機「ミノルタハイマチック」カメラが搭載されたことによると言う。このカメラは、シャッター幕に多少のシミがあるものの、低速、高速とも全く異常がない。近いうちに、(5)のカメラとあわせ試し撮りをしたいと思っています。