人力でGO

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凜とした潔さ・・・借りぐらしのアリエッティ

2010-07-24 08:11:00 | アニメ




■ この「視線の確かさ」は何だろう? ■

近所のローソンに貼られていたジブリの新作「借りぐらしのアリエッティー」のポスターを見た時から、そこに描かれているアリエッティーの視線の確かさに心引かれている。

「凜として潔く、遠くを見つめる瞳」は最近のアニメの画一化した媚びる様な視線とは一線を画しています。

■ 「借りぐらし」の小人 ■

「借りぐらしのアリッティ」は古い洋館に住む親子3人暮らしの小人の話です。
小人達は人間に気づかれる事無く、床下でひっそりと暮らしています。生活の基本は「狩り」では無く「借り」。

夜中にこっそり、人間の部屋から食料や生活必需品を「借り」てきます。そして、それらを再加工して、文化的な生活レベルを保っています。

小人の少女アリエッティは、父親に連れられて初めての「借り」に出かけます。壁の隙間を抜け、段差をよじ登り、角砂糖やティッシュペーパーを「借り集め」ます。

しかし、この夜、アリエッティは人間に見つかってしまします。人間は祖母の家に療養にやって来た心臓病を患う少年。

人間に見つかる事を極端に恐れる小人達は、住み慣れた家を後にする事を決意します。
しかし、少年は小人達を「狩る」事無く、どうにかコミュニケーションを図ろうとします。この家には祖父の代から「小人がいる」という話が伝わっていたのです。

少年の控えめながら根気強いアプローチと、些細なアクシデントからアリエッティは少年と交流を持つ様になります。しかし、その少年と小人を観察している者が・・・。

■ 宮崎アニメであって宮崎で無い ■

宮崎アニメの特徴は次のようなものでしょう。

1)「動き」の飽くなき探究
2)「少女」
3) 空や雲、飛行への憧れ
4) 冒険
5) 憎めない「悪役」

「借りぐらしのアリエッティ」では宮崎駿は脚本に徹し、監督をジブリ叩き上げの37歳の米林昌宏が担当しています。

しかし、そこはジブリ一筋だけあって、どこから切ってもジブリ映画に仕上がっています。ただし、今回は「空や飛行」は登場しません。

そして、「動き」が異なる事も特筆すべきです。宮崎アニメの動きが東映動画の伝統を色濃く残す、所謂「日本アニメの動き」であるのに対して、米林監督の「動き」は非常にリアルです。小人と言えども、飛んだり跳ねたりせず、アリエッティも父親も、しっかり一歩一歩を刻み、重力と戦いながら壁を上り下りします。

宮崎アニメの特徴をもう一つ挙げるならば、「破綻」があります。脚本を最後まで用意せずに製作される宮崎アニメは、物語の途中から話が暴走し始めたり、全体のバランスを欠いたりする事があります。

近年の「千と千尋の神隠し」や「崖の上のポニョ」はこの傾向が強く、宮崎駿は物語をまとめる事を放棄して、キャラクターの力に成り行きを任せている様にすら感じられます。

しかし、それが物語に新たな地平を与えていて、やはり「常人ならざる作品」を作り出す原動力になっているとも言えます。

一方、「アリエッティ」は良くも悪くもコジンマリと纏まっていて破綻がありません。キレイに話が纏まっています。

これらの点においては、「アリエッティ」は宮崎アニメであって、宮崎アニメでは無いと言えますが。

■ ジブリの伝統が宿る ■

しかし「借りくらしのアリエッティ」は、「ゲド戦記」に比べたら圧倒的に宮崎アニメです。

「ゲド戦記」は鈴木プロデューサーが宮崎無き後のジブリを意識して、「宮崎アニメの世襲」を目論んで、見事に失敗した作品です。名前こそ「宮崎」ですが、息子の宮崎吾郎は、宮崎アニメが何たるかが全く分かっていませんでした。

一方、米原監督はジブリ叩き上げという事もあって、ジブリが何たるかが良く分かっています。と言うよりも、ジブリ以外を知らないので、骨の髄までジブリが染み込んでいます。

ジブリをジブリたらしめているのは、「やさしさ」です。現代において、尤も恥ずかしい感情とも言える「やさしさ」を、何の躊躇も無く主題に据える事が出来るのが「ジブリ」らしさです。

少年と少女の間に、若者と老人の間に、人と自然の間に、敵と味方の間にすら「やさしさ」が通い合います。どんなドラマが進行しようとも、人々や事物が有機的に絡まり合った世界がジブリの世界感です。

「ゲド戦記」の様に、「個と世界が相克し合う」様な世界感は、ジブリ的ではありません。だから、宮崎駿は若い頃の夢であった「ゲド戦記」を撮れなくなったのです。

「ゲド戦記」の作者アーシュラ・K・ルグインはフェニミストの作家として、ニューウェーブSFの旗手として、常に「世界と相克する個人」をテーマにしてきました。これはジブリ的「やさしさ」と相反する世界です。宮崎アニメの登場人物は、誰一人として世界から孤立していません。孤立している様に見えても、どこかで世界と繋がれていて、物語の進行と共に、その関係性を再構築したり、深めていきます。

「借り暮らしのアリエッティ」が宮崎アニメと言える訳は、全編にしっかりと「やさしさ」が根付いているからです。この、濃密な関係性の表現こそが、ジブリの伝統なのかも知れません。

■ 「借り」こそが全て ■

物語の途中から物語が拡散する宮崎駿の作品に比べ、「借りぐらしのアエイエッティ」は短編小説の様に、アリエッティ一家の引越しで、あっさりと幕を閉じます。

少年との関係性もそれ程深まりませんし、アリエッティの成長もする暇すらありません。シンプルな出会いと別れの物語です。

短編小説の様なアニメですが、しっかりとした存在感を作品は有しています。それは「借り」の描写が、克明だからです。

小人が家の中をどうやって移動した「借り」を実行するかが、とことん検証され視覚化されています。「借り」のシーンは徹底して描きこまれています・・・・と言うより「借りだけ」で作品が支えられていると言っても過言ではありません。

結局「借り」とは、「存在を気付かれない」事であり、それこそが小人の存在理由そのものと言っても過言ではありません。

ですから、「人との交流」は「小人の存在理由の否定」に繋がり、アリエッティと少年との関係は一過性の関係でしか無いのです。

少年の祖母は、ドールハウスに残された「小人の痕跡」で満足します。アエイエッティ一家がこの家に長く住めたのは、人間が「探さない」からだったのです。ですから、少年や家政婦が小人を探し出した瞬間に、小人達はこの家には存在できなくなるのです。

■ 抑制こそ全て ■

「少年との交流」に抑制が効いている事が、この物語の重要なポイントです。

「少年は大きく、アリエッティは小さい」。こんな当たり前の事象ですら、二人の間には圧倒的な障壁として存在します。少年は緩慢で、小人は敏捷です。彼らの刻む時間すらズレを生じているのです。

一方、物語途中から登場する「森暮らし」の小人は、生活こそ野蛮ですが、小人という一点で、少年よりもアリエッティに近い存在で、同一の時間を生きる存在です。

この関係を崩す事無く、少年との間に一線を引いた事で、アリエッティの毅然とした視線が生きてきます。「借りぐらし」は、屈辱的な生活では無く、彼らの「生存の戦い」としてしっかりと定義されるのです。「借り」は「狩り」なのです。

■ 揺ぎ無い確信と伝統 ■

アリエッティの視線は凜として揺ぎ無ありません。最近の媚を売るような画一化したアニメ・キャラクターの目とは一線を画しています。

ジブリの若手クリエーター達の視線も、凜として揺るぎが無いのでしょう。それは、永きに渡って世界の一線で通用する作品を作り続ける事務所の自信と伝統なのでしょう。