■ 恩田陸のSF ■
恩田陸は『夜のピクニック』や『ネバーランド』など、
高校生達の生活の一瞬を描かせたら当代一の作家では無いでしょうか。
この世代が持つ、なんとも言えないアンバランスさを
甘酸っぱい青春映画の様なタッチでスケッチしてゆきます。
小説というバーチャルリアリティー・・恩田陸「夜のピクニック」(人力でGO 2008.12.01)
恩田陸は『光の帝国 常野物語』というSFファンタジーを執筆していますが、
今回取り上げる『ねじの回転』は、かなりガチな本格SF小説です。
■ 226事件のSF的再体験 ■
『ねじの回転』は、タイムマシンを使って歴史に干渉する物語で、
歴史変革のターゲットは、ずばり「226事件」。
時間遡行の技術が確立した未来、
国連は過去の過ちを歴史改変する事で
「今よりもより良い現在」を作り出そうとします。
ところが、タイムマシンによる歴史改変によって、
人類は致死性の伝染病の蔓延という思わぬ「現在」に陥ってしまいます。
そこで国連は歴史上の重要なターニングポイントを選び出し、
その時代のその場所にスタッフを送り込んで、
改変された歴史を、本来の歴史に再改変しようと試みます。
幾多の歴史上の大事件の中に一つとして「226事件」が選ばれます。
歴史の再改変の方法はいたってアナログです。
国連職員は「シンデレラの靴」と呼ばれる装置と共に過去に遡行します。
そして、その時代の何人かの人物を選び出し、
彼らの「懐中連絡器」を携帯させます。
選ばれた人物達は、正しい歴史における記憶を保持しています。
そして、彼らは、改変後の歴史が、自分達の記憶の歴史とずれる事を阻止する役を担います。
今回のミッションで「懐中連絡器」を持たされたのは、
安藤輝三大尉と栗原安秀中尉。
彼らは「皇道派」の青年将校として226事件を起した張本人達です。
皮肉な事に彼らは自分達の決起が失敗に終わる事も、
そして自分達が処刑され、命を落す事も記憶に留めています。
それどころか、国連職員による教育により、
日本が太平洋戦争に突入し、そして負ける事も知っています。
それなのに、彼らは「226事件の失敗を確実なものにする」使命を負うのです。
彼らの心境は複雑です。
歴史の改変を正しく再改変して未来を救う重要性は理解しています。
しかし、一方で「226事件を今度は成功させられるのでは無いか」という
強い誘惑との葛藤に苛まれます。
そんな彼らの苦悩など意に介さぬがごとく、
昭和11年2月26日の歴史が再生されてゆきます。
若き青年将校らに率いられた陸軍の部隊は、
雪の降りしきる都心の坂道を黙々と登り始めます。
ところが、歴史再現はなかなかはかどりません。
酔っ払いが兵士達に絡んで、時間的にズレが生じたり、
死ぬはずでは無かった鈴木侍従長が死んでしまたりと、
正しい歴史とは違う出来事が度々発生します。
歴史再生が正しく行なわれているかどうかは
「シンデレラの靴」と呼ばれる装置が監視しています。
この装置に入力された「正しい歴史」と、
現実に再生されている歴史に大きな隔たりが生じた場合、
「シンデレラの靴」は歴史再現を中止して、
問題の無い時間まで、時間を蒔き戻し、そこから再現が再スタートされます。
「懐中連絡器」を持たされた安藤や栗原は、
これらの全ての時間を認識し、記憶しています。
時間再現が停止されると、彼らの周囲の時間は止まり、
蒔き戻される時には、眩暈にも似た感覚を覚えるのです。
国連のミッションにはタイムリミットがあります。
国連スタッフは、過去の色々な時代の歴史再現を成功させ、
最後のミッションとして、226事件の再現に取り掛かっています。
「シンデレラの靴」も度重なる酷使で、壊れかけています。
時間との戦い中で、人類は「正史」を取り戻す事が出来るのか?
■ およそSF的でないSF小説 ■
『ねじの回転』は立派なSF小説です。
「シンデレラの靴」や「懐中連絡器」などSF的ギミックも満載で、
時間遡行とタイムパラドクスというSF小説の永遠のテーマに正面から挑んでいます。
時間遡行物のお約束の「どんでん返し」も用意されていて、
このジャンルを充分に研究されて書かれた小説です。
文庫版の後書きには、「素晴しいSF小説」との書評が載っていますが、
不思議な事に、私にはこの作品が「SF小説」とは感じられません。
何故そんな感想を抱くのでしょうか・・・?
それは、この小説にエッジが無いからかなと私は勝手に思っています。
エッジとは、その時代の最新科学の理論を用いる面白さと解釈して下さい。
SF小説は科学が新しい原理や理論を生み出す度に、
それを踏み台にして、未来の社会や、現実の世界への影響をシミュレートします。
相対性理論が発表されれば、「うらしま効果」をギミックに用い、
多元宇宙論や平行宇宙論が発表されれば、奇想天外な作品が発表される。
バイオテクノロジーの発達は、
『ジュラシックパーク』や『ブラッドミュージック』を登場させました。
一方で、「認識論」や「脳科学」の進歩は、
フィリップ・K・ディッックの諸作を生み出しています。
又、SF小説は作家達が生きた時代の社会背景とも無縁ではありません。
旧共産圏の作家達は、SFというお伽噺に体制批判を隠しました。
ウーマンリブやフェミニズムの時代には、
女性と男性の役割の変革を、SF的にシミュレーションする女性作家達が活躍しています。
この様なSF小説というジャンル独特の「エッジ」が
『ねじの回転』には存在しないのです。
「単純な時間遡行」というギミックは、既にSF的ガジェットとしては古過ぎます。
「歴史改変の修正」というアイデアは面白いのですが、
何となくその描き方が「手垢にまみれた」様な印象を受けます。
『境界線上のホライズン』の様な、圧倒的な意外性が欠けているのです。
■ 恩田陸が描きたかったのは226事件そのものなでは? ■
私は恩田陸が描きたかったのは、SF小説では無くて
226事件そのものだったのでは無いかと妄想しています。
歴史的にも謎の多いこの事件ですが、
恩田陸自身も含めて、現代の人達はこの事件を教科書以上には知りません。
多分、恩田陸は何かのきっかけで226事件に興味を持ち、
この事件の持つ意味や時代背景を、現代の視点から見つめ直したかったのでしょう。
それを歴史小説として描くには、膨大な資料の調査も必要ですし、
まだ一部の人達にとっては、記憶が生々しい事件だけに取り扱いも難しい。
そこで、SFという逃げ道を用意して、
この謎の多い事件を彼女なりの解釈で提示したのでは無いでしょうか?
ところが、226事件をどう解釈するか彼女自身が決めかねている。
と言うよりも、一般的な226事件の解釈以上のものがこの作品には見られない・・。
皇道派の青年将校達を煽っておきながら、
彼らを見捨てた軍の幹部達を暗に非難する程度の内容になっています。
226事件や満州建国、石原莞爾らの存在は、
日本の国内事情だけ見ると、とても不可解ですが、
当時の世界情勢とイギリスやアメリカの世界戦略(イルミナティー?)を考慮すると、
何だか黒いものがドロドロと蠢いていて非常に面白い題材です。
現代の小説としては、是非ここら辺に迫って欲しい所ですが、
結局、タイムトラベルSFというジャンルに閉じ篭ってしまった感じがします。
着眼点は良いだけに、非常に勿体無い小説ですが、
私達が226事件を楽しく学ぶには、結構良いテキストかも知れません。
■ ライバルの宮部みゆきの226事件をテーマにした『蒲生邸事件』は素晴しいSF ■
非常に興味深い事に、恩田陸のライバルとも言える宮部みゆきは
226事件を題材にして『蒲生邸事件』という小説を発表しています。
こちらもタイムトラベルSFですが、第18回日本SF大賞を受賞しています。
ところが、『蒲生邸事件』はほとんSF的ギミックが存在しません。
時間遡行能力を持つ「平田」という人物が、
火災現場から「尾崎」という少年を助け出します。
その助け方は、時間を遡行するというものでした。
「平田」は代々、時間遡行能力を持つ一族の出身だったのです。
彼らの辿り付いた先は昭和11年の東京。
まさに226事件が起こるその時間に「尾崎」は連れて来られます。
「尾崎」は戸惑い、「平田」に自分の生きていた現代に戻してくれと頼みます。
しかし、再度時間跳躍を試みた平田は、力の使い過ぎによって昏睡睡状態に陥ります。
一人、昭和11年の世界に取り残された「尾崎」が身を寄せたのは
平田が使用人とて働いていた「蒲生憲之」の邸宅。
蒲生憲之は陸軍予備隊大将で、かつては皇道派の大物でした。
226事件が起されると、蒲生憲之は自宅で自害します。
「この国はいちど滅びるのだ」という遺書を残して。
しかし「尾崎」は蒲生の自害に疑念を抱きます。
蒲生の弟、蒲生の後妻、蒲生の息子や娘、使用人・・・
誰もが、何がしかの殺害の動機を持ち、
そして、屋敷の中で微妙なバランスを取りながら共同生活しています。
「尾崎」は持ち前の好奇心から、
犯人は誰かを突き止めようとします。
さて、この作品のどこがSFなのでしょう?
単なる密室殺人ミステリーの大道的作品では無いか?
しかし、私にはこれこそがSF小説の醍醐味と感じさせる作品です。
平田の持つ「時間遡行」という能力は、
単に、現在の普通の若者である「尾崎」を
226事件という特殊な状況下に置かれたたとはいえ、
その実、どこにでもありそうな大家族の中の放り込む為だけのギミックです。
この作品の醍醐味は、「時間」でな無く、
過去のある時代に放り込まれた「現代の普通の若者」の行動観察なのです。
これこそ「思弁小説」としてのSFの面目躍如的作品です。
確かに過去にも「時間遡行」によって過去の文化とのギャップを楽しむ作品は存在します。
しかし、それらの作品の主人公達は、たいがい過去の大事件のど真ん中に放り出されます。そうする事で、作品にエンタテーメント性を確保しているのです。
当然、過去にタイムトリップした者達は歴史に影響を及ぼし
タイムパラドクスという矛盾を生み出す事になります。
恩田陸の『ねじの回転』も、まさにお約束通りの作品です。
ところが『蒲生邸事件』の舞台で殺された蒲生憲之は
歴史上大して重要な人物ではありません。
実は殺されるのは蒲生憲之で無くとも、
そこそこの邸宅に住む主人ならば誰でも良いのです。
ただ、昭和11年という時代のニオイを生み出す為に
226事件と、蒲生憲之が選ばれたに過ぎません。
宮部みゆきが描こうとしたのは、「未来から来た探偵」という存在です。
歴史的には蒲生憲之は自殺とされているが、
そこに小説的ギミックで疑問を挟む事で、読者を引きつけます。
そして、現代的な感覚の青年が、現代の視点で、
当時の人達と交流し、そして謎を解いてゆく様を
作者自身、興味深くシミュレーションしているのです。
『ねじの回転』では歴史は確定的に扱われますが、
『蒲生邸事件』においては、「自害」以外の確定的要素が存在しない史実を敢えて選ぶ事で、
「歴史」というものが、実際には不確定なものである事を浮き彫りにします。
「蒲生憲之の自殺」という歴史の記述の裏側に、
人々の普通の生活や愛憎がしかりと存在していた事を描き、
現代と歴史の関係性を、新たな視点で相対化しています。
この作品において蒲生憲之が自殺か他殺かすらも大きな問題では無く、
ただ、「歴史的事実」が実際には検証不可能な故に「事実」とは異なる事を
明確に指摘している上で、極めて野心的な作品と言えます。
そして、しんしんと雪が降る東京の街で、
遠くに響く軍靴の音が、これ程効果的な作品もありません。
226事件を題材にした、当代人気を二分する女性作家のSF小説を対比する事で、
素晴しいSF小説とはいったい何かという問題の答えの一つが見つかるかも知れません。
本日は私の勝手な思い込みの内容です。
恩田陸さん、宮部みゆきさんともに素晴しい作家である事は疑いようがありません。