■ 外人留学生が西尾維新のファンだった!? ■
以前の記事遊びとしての文学・・・西尾維新・「化物語」にコメントを頂きました。
国文科を卒業されている主婦の方が、日本文学に興味の有るアメリカ人留学生をホームステイで受け入れた所、「村上春樹が好きだ」と言っていた彼は西尾維新の『化物語』の素晴らしさを力説した。彼女もとりあえず原作を読んでみたが、どこが良いのか分からずに困惑している・・・
そんなコメントでした。
■ 外国人が日本語を勉強する時点で、その動機は「アニメやマンガやラノベを原語で理解したい!!」 ■
前出の場合、「村上春樹が好き」というのはポーズでしょう。彼の本音は「アニメやマンガやラノベの原作を日本語で理解したい」では? これは、リアルタイムで日本のオタク文化を共有する世界の多くの若者に共通した願望で、それが高じて日本語を勉強して日本を訪れる方も少なくありません。
「村上春樹」というのは、彼がとりあえず世界では日本文学の代表作家であり、彼の名前を出しておけばカモフラージュに成る程度の「存在」に過ぎないかと(憶測ですが)。
■ そもそも村上春樹って何で人気が有るの? ■
そもそも日本人の私は村上春樹を全く理解出来ません。『ノルウェーの森』は過去に読みましたが、冒頭の飛行機の中のシーン以外は一片たりとも思い出す事が出来ません。短編なども母親の書棚から拝借して読んでみますが、「上手な書き手」という以外の感想は持ちません。
彼のテーマは「喪失」とか「虚無」と言われていますが、彼はその抜けた穴を描く事に執着している様に見え、穴を塞ぐ事を放棄している様に思えます。
この様な作品は世界でも80年代のポストモダンの小説に多く見られました。ポール・オースターの『GOST(幽霊)』が端的な例でしょう。探偵の主人公は「誰か」を探していますが、その誰かが不在(幽霊)だというお話。(ただ、その後の彼は穴を丹念に埋める作業を続け、『ムーンパレス』などの作品に結実します。)
「虚無」や「喪失」をテーマにした作品が出て来た背景には、現代小説が描くべき題材を失った事と無関係では有りません。近代以降、小説というジャンルは人間の内面に迫るべく急速に進化しました。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などを生み出しますが、これらの作品は大衆性とは対極に存在し、私も何度も読もうとして座性しました。
この様に人間の内面をひたすら追求した作品の対極として、社会との結びつきを強めた作品も存在します。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』や、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』などが思い浮かびます。フォークナは「意識の流れ」の手法を身に着けているので、中間的存在かも知れません。
これら真剣な探究心の文学と同時に、ロストジェネレーションやビートジェネレーションといった破壊的な作家達も現れます。前者はヘミング・ウェイ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラーらが代表的です。
ビート・ジェネレーション(ビートにクス)の代表作家はウィリアム・バローズやジャック・ケルアック、そして詩人のアレン・ギーンゼバーグらです。彼らは若者達に絶大な人気を得ますが、ケルアックの『路上』なんて「ヒッピーがヒッチハイクしてアメリカを彷徨ってクソして寝る」みたいな作品ですから・・・。
村上春樹が属すると思われる80年代以降のポストモダンの作家は、ビートニクスの狂乱の後に登場します。日本では全共闘を経験した世代です。政治的にも文化的にも熱かった60年代、70年代が終り、「微熱的」な時代の到来が生み出した作家達です。
実は彼らの世代の抱えた大きな問題は「書くべきテーマが無い」事でした。アメリカのヒッピーにしろ日本の全共闘にせよ、若者の政治参加が不毛である事に気付いた「虚無感」に支配されていたのです。さらには生活が豊かになり、価値観が多様化する中で、「描くべき物語」は見えなくなって行きます。
前出のポール・オースターは全く書けなくなり、「目の前に置いた水の入ったコップをどう表現するのか」から再びスタートしたと語っています。確か高橋源一郎も同様の事を言っていた様に記憶しています。
その様な時代性にマッチしたのが村上春樹だったのだと私は考えています。彼は「かつて存在した物の残した微熱」を上手に表現する作家です。「自分は大事な何かを失っているけれど、それが何か思い出せない」といったテーマをスマートに表現して見せます。要はオシャレなのです。
同時代、アメリカで最も支持されていた作家はジョン・アービングでしょう。『ホテル・ニューハンプシャー』や『ガープの世界』が有名ですが私はデビュー作の『熊を放つ』が好きです。彼のテーマも喪失ですが、メランコリックで大衆には分かり易く、これが支持された要因かと思われます。ちょっと俗っぽい。
この様に現代文学は、人間の内面を描きながらも時代の流れと無関係では居られません。そして、その作家を真に理解する為には、その作家と同時代の空気を共有していなければなりません。
「村上春樹って、そんなに凄いの?」と私が感じてしまうのは、私が彼と同時代の空気を共有していない事に原因が有るのかも知れません。
ましてや、アメリカ人の若者が村上春樹を理解するには相当ハードルが高い。ただ、日本の作家で欧米で一番有名なのは彼で、翻訳されていて評価も確定している・・・。だから、日本文学を語る時に「村上春樹が好きです」と言っておけば間違いが無い。これが逆輸入された形で「私、村上春着のファンです」という日本人が増殖しています。村上春樹の凄い所は、こういうファンを離さない様に「オシャレ」であり続ける事でしょうか・・・。
個人的には小川洋子の方が凄い作家だと思うのですが・・・。
ゆっくり読みたい・・・「猫を抱いて象と泳ぐ」
さらに三崎亜記とか、三崎亜紀・・・役所言葉のリリシズム
『ミサキラヂオ』の瀬川 深といった作家の方が好きなのですが・・。「ミサキラヂオ」・・・終わらない物語
■ SF小説のインフレーションとしてのアニメとラノベ ■
くどくどと現代小説について知った様な事を書いて来ましたが、実は最近はほとんど読んでいません。・・・と言うよりラノベしか読んでいない自分に驚愕します・・・。
何故私はラノベばかり読む様になってしまったのか・・・・。それはラノベがアイデアの宝庫だからです。
かつて面白い小説は『SF小説』というジャンルに沢山存在しました。アシモフ、ハイライン、デュプトリーJr、ルグイン、ディック、バラード・・・名前を思い浮かべただけで顔に恍惚の表情が浮かんでしまいます。
現代小説が「自分って何?」なんて狭量なテーマを捏ねくりまわしている間に、SF小説は「宇宙と生命と知性の深遠」を探求し続けて来ました。SF小説は元々「コト」を描くジャンルだったので、「僕って何?」という袋小路に陥る事が無かったのです。そして、科学の数々の発見や新理論が、新たなSF的アイディアを拡張し続けたので進歩の足を止める事が無かったのでしょう。
尤も、SF小説が大衆に人気があったのも70年代までだったお様に思われます。70年代の「ニューウェーブ」と呼ばれる作家達はビートニクスの影響を大きく受けて、精神世界への興味を深めて行きます。フィリップ・K・ディックが代表でしょう。(私はバラードの方が好きですが)
80年代に入るとSF小説は売れなくなります。何故か・・・。それは難しくなり過ぎたのです。科学や物理学の進歩によってSF小説の扱うテーマも複雑化します。グレッグ・ベアーの諸作品などはとても面白いのですが、理系の若者でも理解が難しい内容になってしまいました。(単に理系の若者の能力が低下しただけとも言えますが・・)
SF小説が売れなくなる一方で、実は世間はSF的な物で溢れ返ります。『スターウォーズ』の成功がカギとなるのですが、ルーカスやスピルバーグの諸作、映画化されたディックの作品(ブレードランナー)など、小説とういジャンルから映像に変換されたSFは、瞬く間にインフレーションを起こします。
日本では『宇宙戦艦ヤマト』が切っ掛けとあんり『機動戦士ガンダム』という金字塔に至ります。
この影響はライトノベルにも反映されます。私の少年時代のライトノベルと言えば朝日ソノラマですが、これは子供向けのSFの宝庫でした。代表的な作家は高千穂遥だったと思います。『クラッシャージョー』シリーズや『ダーティーペアー』シリーズは、ガンダムの作画担当だった安彦良和の挿絵もあって大人気でした。これらは後にアニメ化しています。
もう一方の人気作品は『バンパイアハンターD』で決まりでは無いでしょうか。菊池秀行は奇譚小説の名手で大人向けのエログロな作品が多いのですが、子供向け作品にもその片鱗が見られ、なんともダークで怪しい世界にゾクゾクした事を覚えています。こちらの挿絵はガッチャマンで有名になったて天野喜孝で、彼は今では世界的なアーティストの一人です。
バンパイアというテーマはSF小説の源流となった「ゴシック小説」の一ジャンルで、実はSF小説の亜流と思われがちなファンタジーというジャンルはSF小説の保守本流です。剣がビームサーベルに、魔法が科学に、馬や甲冑がロボットになったのが、現代のSFだとも言えます。
■ アイデアと才能の宝庫としてのラノベ ■
朝日ソノラマの時代は、大人の書き手が子供の為に面白い話を書いていまいした。これは一種の「児童文学」みたいなものでした。
一方、時代を経て「ライトノベル」という呼び方をされる様になると、書き手の年齢がどんどん読者と同じになって行きます。これは一種の「同人化」で、文章もどんどん稚拙になって行きます。
これをして、「ライトノベル=小説以下」と決めつける人が多いのですが、本来なら作家デビュー出来ない「原石」を発掘する効果は絶大です。そうした中から、桜庭一樹や有川浩が見出されて来ました。SF小説のジャンルからは冲方丁が掘り出されました。
■ 日本文学の正当な継承者としての『化物語』 ■
さて、ようやく話が『化物語』に到達しました。
西尾維新という作家は曲者です。年齢的にはライトノベルの作家達よりも上なのですが、彼は敢えてライトノベルというジャンルを好んでいる様です。それは、「遊びが許容される」という自由度が確保されている事が大きいかと・・・。
大衆文学における『遊び』は重要な要素で『枕草子』や『源氏物語』は今で言う所の少女マンガみたいな物でしょう。貴族達は「勉強」としてでは無く「娯楽」としてこれらの作品を楽しんでいたはずです。『~草紙』などという作品は概ね娯楽作品です。
江戸時代に入ると大衆文化は多岐に渡る様になります。井原西鶴などは現代で言えば「戯曲家」でしょう。人形浄瑠璃自体が当時の娯楽で、西鶴は現代で言う所のトレンディードラマの売れっ子脚本家と言った所でしょうか。
ライトノベルの原点としては『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴が筆頭に上がります。八犬伝は「読本」と呼ばれるジャンルでしたが、馬琴は「黄表紙」というより通俗的な貸本も多く書いていた様です。「黄表紙」などまさに現代のライトノベルやハーレクインロマンスと言った所では無いでしょうか。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も当時としては「ギャグ」として楽しまれたいました。ほとんどマンガと同じ扱いです。
夏目漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』なんてモロにラノベですし・・・。
この様に現代では「文学」とされてしまっている作品の多くは、当時は「大衆の娯楽」として書かれています。ライトノベルは「言葉と文字を使って人を喜ばせ、自分も遊ぶ」という大衆文学の原点に非常に忠実なジャンルであると言えます。そして、その最右翼の作家が西尾維新です。
■ 主役は変化し続ける言葉 ■
西尾維新の作品の特徴は「内容が無い」事でしょう。まさに「ポップアート」の文字版です。
消費されて消える事を前提に書かれた小説とも言えます。その点で赤川次郎などとも共通する点が有りますが、その才能には天と地との差が有ります。赤川次郎の諸作(実は一冊も読んだ事が有りませんが)は、お手軽に推理小説を提供して人々を楽しませる事(ひいては売れる事)に目的が置かれていますが、西尾維新の作品の目的は「自分自身の為の言葉遊び」です。
そしてその言葉遊びは「高度」です。だらだらとした会話を垂れ流す登場人物達の「言葉」は変幻に変化しながら、カラフルで複雑な模様を紡いで行きます。最早、彼の作品においてストーリーやプロットは従属的で、主役は「変幻に変化する言葉」そのものなのです。
このダラダラとした感じは、実は現代文学の「意識の流れ」の手法に近いのでは無いか?彼がそれを意識しているとは思えませんが、読者の脳をトリップさせる効果は似ています。
■ 先ずはアニメから入るべきだ ■
いろいろ書いた所で、ライトノベルを大人に理解させる事は至難の業です。
そこで手っ取り早いのが、「アニメを観る」事です。
西尾維新の『化物語』は、現代を代表するアニメ作品になっていますから、先ずこちらを鑑賞して原作を読まれると、作品世界に入り易いかも知れません。そもそも、ライトノベルとアニメは不可分の存在なので、両方を鑑賞して完結するのかも知れません。
とまあ、長々と書いてしまいましたが、最後は「好きか嫌いか」という問題に成ります。私の家内などは「オタク的」なアニメは全く受け入れませんが、少女マンガ原作のアニメは私の後ろでチラミして、時々プーー!!なんて笑っています。
「面白い」と感じる事にはジェンダーの差も大きいので、「少年向け」に作られた作品は女性にはツマラナク感じるのかも知れません。大きなオッパイも、時折見えるパンツにも女性はドキドキしませんから・・。
さて、件の留学生君、せっかく日本に来たのだから日本のアニメとラノベと是非堪能して日本文化をアメリカに伝えて欲しい。そんな彼にお勧めなのは・・・当ブログのアニメと本の欄を是非お勧め下さい。
そして、大人の皆さんには今季放送されている『昭和元禄落語心中』と『僕だけが居ない街』というアニメをご覧になって頂きたい。アニメやマンガというジャンルが、ドラマや映画というジャンルに全く引けを取らない事が良く分かるかと思います。
本日は異文化交流のお話でした。