■ 『セッション』のデイミアン・チャゼル監督、今度はミュージカルだ!! ■
前作
『セッション』 が素晴らしかったデイミアン・チャゼル監督。
音楽映画の常識を覆す『セッション』・・これって軍隊物だよね
彼の最新作
『La La Land(ラ ラ ランド)』 はアカデミー賞14部門に最多ノミネートされ話題になっていました。作品賞の最有力候補の一つでしたが、プレゼンターのフェイ・ダナウェイが作品賞として読み上げたのは『La La Land』!!
キャストやスタッフが大喜びでステージに上がり、スピーチが始まった時・・・『La La Land』のプロデューサが「これはジョークでは無い、作品賞の発表は読み間違えだった・・」と言い出したから会場全体が愕然となります。どうやらフェイ・ダナウェイが主演女優賞と作品賞を読み間違えたらしい・・・。
そんな前代未聞の珍事もあって、話題と期待が高まった『La La Land』。先週の土曜日に娘を連れて観て来ました。
何と、今度はミュージカルです。
■ 冒頭のミュージカルシーンだけで十分に映画史に残る ■
多くの方が既に書かれている様に、冒頭のハイウェイのミュージカルシーンは映画史に残る名シーンだと確信します。ドローンを使っての撮影だと思いますが、何が凄いって、これノンカットですよね。5分近くあろうかと思われる大人数のダンスシーン。それも固定カメラでは無く、ドローンが車の間を縫いながら撮影して行くという複雑な進行をシームレスで撮影しています。
「いったいどんだけリハーサルしたんだよ・・」と思わずため息が出てしまいますが、一方でかなり既視感の在る映像。映画としてでは無く、「OK GO」のミュージック・クリップや「フラッシュ・モブ」と呼ばれるYoutube映像にかなり近い感じ。
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OK Go - I Won't Let You Down - Official Video
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広場で突然人々がJAZZを演奏し始めるフラッシュモブ映像
フラッシュ・モブというのは広場などの群衆の中に役者やダンサーやミュージシャンを予め仕込んでおいて、突然に、或いはだんだんと音楽やダンスが展開されてゆくというYoutubeなどに投稿される映像ジャンルです。
ドローンを使った撮影や、フラッシュモブなどは現代映像を象徴する表現ですが、これをミュージカル映画の冒頭に持って来るあたり、やはりデイミアン・チャゼル監督のセンスが光ります。
■ 『雨に歌えば』から『オール・ザット・ジャス』を俯瞰するミュージカル映画 ■
ミュージカルはハリウッド映画の伝統的ジャンルです。ヨーロッパ大陸でオペラがオペレッタへと大衆化し、それがアメリカで独自の進化を遂げます。ダンスシーンはレビューの伝統を受け継いでいます。
本来劇場で上映されるジャンルであったミュージカルを映画にしたものが「ミュージカル映画」です。劇場作品を映画化した作品には『ウェイストサイド・ストーリー』や『オズの魔法使い』など名作も多い。一方でオリジナルのミュージカル映画も制作されています。
アカデミー賞の作品賞にミュージカル映画がノミネートされたのは1979年の『オール・ザット・ジャズ』以来ですが、冒頭のダンスシーンの直後のカフェのシーンで、カップを真上から捉えた映像は、まさに『オール・ザット・ジャズ』のシーン転換に使われたグラスとアスピリンのカットへのオマージュ。
一方で、ダンスシーンは様々なミュージカル映画のそれを彷彿させる演出が散りばめられており、まさにハリウッドのミュージカル映画の歴史へのトリビュートとなっています。
■ 日常を夢へと昇華するミュージカルという装置 ■
物語は女優を夢見てオーディションを受け続けるエマ・ストーン演じるミアと、自分のJAZZクラブを開いて本当のJAZZを聴かせたいと夢見るライアン・ゴズリング演じるセブの恋物語。
始めは「イヤなヤツ」と思っていたのに、ついつい惹かれ合い、一緒に住み始め、お互いの夢を応援し・・・そんな手垢の着いたストーリー・・・しかし、題名の『La La Land』は「陶酔境、恍惚、我を忘れた境地」のスラング。そしてロサンゼルスを指す言葉でもあります。まさに夢を追いかける若者とそれを取り巻く街の「浮ついた」或いは「夢見がち」な内容にはピッタリな題名です。
夢を追いかけて都会に出て来て、努力し、恋をして、そして挫折を味わうのは、多くのアメリカの若者の共通体験です。ですから、どんなに手垢が着いていても、多くの人達に共感を生む
「ステロタイプならではの強さ」 があります。
シリアスシーンの演出は、重すぎず、軽すぎず、そして、やはり「どこかで観た映画」のシーンを彷彿とさせます。
一方、思わぬシーンをミュージカル仕立てとする事によって、多くの若者達の日常がスクリーンの上で「夢物語」に昇華します。
■ 実はJAZZ映画だった ■
ミュージカル映画への愛情に溢れた作品と思われがちですが、実はデイミアン・チャゼル監督が描きたかったのは、前作同様にJAZZ。彼は学生時代にJAZZバンドに入っており『セッション』はその体験から生まれた作品。
セブは多分バークレイ音楽院を優秀な成績で卒業したピアニスト。彼はJAZZの歴史に造詣が深く、そしてJAZZの巨人達を敬愛して止まない。しかし、彼の生活の糧は、レストランで甘ったるいBGMを演奏する事・・・。これに我慢がならない彼の演奏は、だんだんとエスカレートしてフリージャズになってします。当然、仕事はクビ!!
執拗にJAZZの魅力を語るセにミアは「アイ・ヘイト・ジャズ」と言います。「ジャズなんて大っ嫌い」って感じですが、これは多くの現代のアメリカの若者の共通の感覚でしょう。彼女の好きはJAZZはケニー・Gの様なスムースで美しい音楽。或いは、ダンサブルでポップなJAZZ。現代の若者の多くが「オシャレなジャズ」は好きだけど「古いジャス」は嫌い。セブはそれが許せない。
セブは夢を追いすぎるばかりに仕事もろくに有りませんが、しかし彼の才能は優れています。大学の同級生が彼をバンドに誘いますが、その演奏は・・ファンクジャズ。シンセサイザーやキーボードでの派手な演奏を要求され、派手なスーツでツアーを回る。聴衆はJAZZなんてちっとも理解なんてしていない、派手でノリノリならばそれでイイと思っている連中。
「金」と「夢(信念)」を秤に掛ける事になるセブですが、将来の夢の為に彼は「金」を取る。そう、いつまでも夢を追うだけでは夢は実現しないとミアに諭されたから。しかし、本意で無い演奏をするセブと夢を追い続けるミアの間に溝が深まって行きます。
実はこの映画、役者を目指すミアよりも、JAZZを愛するセブを描くの比重が不自然に高い。セブのJAZZの付き合わされるミアの描写も多い。これ、観客も「セブ=監督自身」につき合わされているんですよね。
彼はミアを連れてJAZZクラブを巡りますが、同時に観客もニューオリンズ・ジャズやビーバップにつき合わされる。これこそが、監督の狙いなのでは・・・私はそう妄想してしいます。
■ ベタなオリジナル・ナンバー ■
ミュージカル映画だけにサントラは重要ですが、実はJazzの曲はどれも「超ベタな駄曲」。これjazzファンならお気づきでしょうが、あえてそういう作曲を依頼したのだと思います。
キースの弾くピアノの曲もどこかで聞いた事のある様なメローで、キャッチーで耳にこびり付く。でも、これで良いのです。映画だから。ニーノ・ロータの曲だって実は超ーーーキャッチー。劇場を出て、思わず鼻歌で歌える様な曲が映画には求められる。
観客の多くはJAZZを知らないので、複雑なコード進行や、変拍子を「良い曲」とは解釈しません。あえて観客がイメージする「分かり易いJAZZ」を提供する事で、音楽が物語を邪魔しない様に配慮されています。この作品の中のJAZZは舞台の背景の「手書きの書割り」の様に分かり易くデフォルメされているのです。
JAZZなんて理解できないであろう観客への、監督からの「サービス」と「皮肉」が、このサントラには込められているのだと勝手に妄想しています。
■ オーソドックスを突きつめた先にあるもの ■
この作品の魅力でも有り、同時に欠点でもあるのは、「全部ぶっ込みました感」です。家系ラーメン屋で「全部載せ」を頼んじゃった感じに似ています。
ドローンを使うなど現代的な映像表現の一方で、書割りの背景を使ったミュージカルシーンや、80年代のMTVを彷彿とさせる演出、ワイヤーアクション感が半端ないロマンティックなシーンなど、ミュージカル映画の名シーンを全てぶっ込みました・・・闇鍋的な作品でもあります。
ただ、それぞれの表現が「オーソドックス」と言うか、「その時代の素材をそのまま出した」感じがして、現代的な解釈や表現をむしろ避けている感じがします。
最初にも書きましたが、ストーリーも敢えてステロタイプとする事で
、「ハリウッド映画とは何か」という本質に立ち返ろうしている様に私には思えてなりません。
「映画の面白さはCGの緻密さや火薬の量で決まるんじゃない。親友がラスボスだった・・・みたいな突飛な設定でも無い。・・・どれだけ観客が夢を見て、共感出来るかなんだ!!」
そう思ってこの作品を見ると、移動経路を地図の上の飛行機の模型で示したり、フェードイン、フェードアウトを黒いアイリスで演出したりと、昔のハリウッドが生み出して来た映像表現へのオマージュに溢れています。
ただ、これだけ「コテコテ」だと、「お腹一杯、胸いっぱい」になりそうですが、そこは絶妙なストーリーでバランスを取っています。ハッピーエンドを確信する観客が最後に観るものは・・・。
「あーー面白かった」って劇場を出るのではなく、そこはかと無い切なさを胸に観客達は家路に向かいます。
<追記>
ブログを10年程書いて来て、私も大人になりました。
10年前だったら、きっとこの人のこの評論と同じ様な事を書いたと思う。
菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね
しかし、アニメを見る様になって「ベタなものの良さ」「ステロタイプの力」みたいなものを実感した今となては、大嫌いなアカデミー賞作品だって、評価すべき所は評価すべきと「一皮も二皮も」剥けました。
まあ、サントラに関しては、「ありがたがる程のモノじゃない」と言っておきます。映像が無ければ「ベタなコピー」に過ぎないですから・・・。