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映画・演劇のレビュー

窪美澄『水やりはいつも深夜だけど』

2015-03-19 18:52:49 | その他
昨日読み終えた『にじいろガーデン』の結末部分を悲惨だとは思わない。小説なのだから、いくらでも幸せなラストを用意してもいい。しかも、あんなハートウォーミングなのだから、と言う人はきっとたくさんいるだろう。でも、僕はあそこに作者の強い意志を感じた。譲れない一線だ。優しくて気持ちのいい小説にしてもよかった。あんなことをしなくても、これは新しい家族の形を提唱する、そんな作品だ、と言われたはずだ。

でも、そんな居心地のいい場所に安住するのではなく、もっと厳しく、過酷な現実を提唱する。わざとではない。それは、たとえこんなことになろうとも、負けないという意志だ。彼女たちはお互いを好きだと確認した時、その先に待ち受ける困難を受け入れる覚悟を決めたのだ。これは作者のいじわるではない。世の中はきっとこんなふうに出来ているのだ。でも、それでも自分たちは愛し合っているから、一緒にいたいのだ。

そんなふうにしてこの小説は試練を与えるのではなく、現実を直視し、そこからほんとうの幸せに至る道筋をたどる。終わりではなくそこからが本当の始まりなのだ。そんなことを考えていると、今度はこの本と出逢う。

これもまた、困難な家族の在り方を描く作品だ。5つの短編からなる。同じ幼稚園に通う子供たちの家族の話だ。ここに登場する妻や、夫たち、家族。彼らは幼い子供を抱えて不安に苛まされながら、自分たちが作り始めたこの「新しい家族」をちゃんとした形にしていこうと努力している。だが、なかなか上手くいかないし、挫けそうになっている。結婚や出産は幸福の到達点、ではない。そんなこと、バカじゃないのだからみんなわかっていたはずだ。でも、それはこんなにも苦しいものだとは、思いもしなかったのだろう。愛し合って一緒になった。そして、そんなふたりの愛の結晶が生まれた。

でも、こんなはずしゃなかった。もっともっと幸せになれると信じた。なのに、気付くと、幸せなはずの家族はそこにはない。騙されたのではない。どちらかが悪いのでもない。誰も悪くはない。みんな一生懸命なのだ。だから、苦しいし、悲しい。

これは重松清のような元気をくれる小説ではない。(もちろん、重松清がダメだ、なんて少しも思わない)ここにある現実は、お話の終わりが来ても変わらない。どこかにたどりつくのが小説だ、と思わない方がいい。現実には終わりはない。お話じゃないからだ。だから、この小説も終わらない。

確かにほんの少しは変わっていく。だが、それだって明日になればどうなるか、わからない話だ。だから『にじいろガーデン』のあの終わり方が僕には心地よかったのだ、と今なら言える。そんなのはなしにしてくれ、と思いつつも、納得していた。あの気分はこの小説を読んでさらに裏付けられた気分だ。この先にこそ本当のドラマがある。だから、ここに提示されるエンドマークは物語のスタートなのだ。

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