3月のウイングフィールドは若手劇団(「若劇」)の作品が、連続して上演される。たまたまなのだろうけど、とてもドキドキするし、刺激的で(そのぶん、少し見るのは怖いけど)楽しいラインナップだった。(残念ながら、この後、月末の淀川工科の芝居は見に行けない)
ウイングカップの後夜祭(表彰式と講評)を挟んで、ここでは若い劇団の芝居をたくさん見た。ウイングだけではなく、この2月、3月は他でもいくつもの若手劇団を見る機会があった。もちろん、そこには目を瞠らされるような凄い芝居はなかった。だけど、いずれも、自分たちの持てる力(微力だが)を最大限に発揮した気持ちのいい作品ばかりで、なんだかうれしい気分にさせられたのは事実だ。
そしてこの作品もまた、そんな作品のひとつだった。忘れそうになっていた大切なものを改めて教えられる。そこからは芝居をしたいんだ、という情熱がしっかりと伝わって来る。
昔、スペースゼロという小劇場が大阪にあった。そこではほぼ毎週末、どこの馬の骨ともしれない若手劇団が公演をしていた。主宰をされていた古賀さんの姿勢ははっきりしている。「下手でいい。やりたいやつはどんどんこい!」
だから、ここで見る芝居はあきれるほど、つまらない作品がたくさんあった。思わず10分くらい目を瞑って下を向くことも多々ある。そうしないと2時間が耐えられないほど苦痛だったからだ。でも、僕たちはその苦行に耐えた。なぜならば、終わった後にはおいしいビールと、鍋が待っているからだ。ビジュアルアーツの上の職員室で、毎土曜酒盛りをした。今見た芝居を肴にして、夜中まで、エンドレスでしゃべった。(古賀さんは何度となく朝まで飲んでいたようだが、僕はいつも終電に間に合うように帰っていた。)芝居を終え、片付けをしたスタッフ、キャストが上がってくると、彼らをそこに座らせて、今見た彼らの芝居にダメ出しをする。「明日までに出来ることを考えましょう」というのが古賀さんの口癖だ。みんなで、細部の変更だけではない。演出、台本にまで踏み込んでダメを出すことも、あった。だが、それは上から目線での「指導」ではない。少しでもいい芝居を作って欲しい、というおせっかいである。ここから例えば、後藤ひろひと、大竹野正典、青木秀樹が育っていった。(もちろん、名前をここに挙げるときりがないから、たまたま、ここには3人書いたまで、だ。他意はない。 そして、彼らが酷い芝居を作っていた、なんて言ってない。)
ちょっと不味いことになってきた。止まらない。取り合えず、もうここでこの話は辞める。
言いたかったのは、若手劇団のことだ。栃木ゆーじ作、演出のこの芝居は全力で芝居と取り組んでいる、という気持ちがストレートに伝わってくる作品だった。それが、言いたかったのだ。お話自体は正直言うと退屈だ。描かれる世界が狭すぎる。安物のライトノベルって、(読んだことがないけど)こんな感じなのか、と思わせるような内容だ。だが、9人の役者たちは全力でこの拙い台本世界(ごめんなさい、こんな失礼な言い方させてもらう)を体現しようとしている。よく稽古している。演出もいろんなことをよく考えている。
世界をリセットすることがこんなに簡単でいいのか、とか、リセットした後の世界についての書き込みの浅さとか、突っ込みどころが満載。登場人物がみんな知り合いで、それ以外に他人が一切登場しない、という杜撰さ。これは頭の中で作ったドラマでしかない。世界観の確立がなされていない。(これが今回のウイングカップの若手劇団にも共通する課題だった。特に、その傾向はこの作品と同じようなSFものに顕著だ。)
「忘れないで」という切実な想いを見事に捉えた作品に、大林宣彦監督の『時をかける少女』という映画がある。あそこで描かれるヒロインの切ない想いを実感して欲しい。この芝居が描くべきものはそこに確かにある。アンドロイドが、人間と同じように生き、彼らと心を通い合わせる。そこに生じる想いも描き切れていない。自分と人とは違う。(それって、彼女でなくても僕たちでも思うことだ!)でも「人」は、彼女を区別しない。(もちろん、差別もしない)この芝居はまず、その事実をどれだけ丁寧に描くことが出来るかが大きな課題だったはず。なのに、お話は、世界をリセットするシステムとか、なんだとか、どうでもいいような(まぁ、僕にとっては、だが)ことに終始していく。このお話には可能性がある。だが、作り手は、それを自覚してもいないし、生かし切れてもいない。
PS
ほんとうは、週末に見た「アマサヒカエメ」、「空組」のことも書きたい(後1時間有れば書けるのだが。それにそのつもりで、パソコンの前に座ったのだが、途中から古賀さんの思い出話になってしまった) のだが、時間がない。仕方ないから、また後日。(明日から合宿で3日間いないので、帰ってきてから書く。)