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映画・演劇のレビュー

『愛して飲んで歌って』

2016-03-30 21:49:00 | 映画

 

『愛して飲んで歌って』

これがアラン・レネ監督の最後の作品になった。学生の頃、『去年マリエンバードで』に憧れて、ようやく見た実物の『去年マリエンバードで』に感激し、映画というものの本当の魅力を知った。10代の僕にとって、レネは映画の神様だったのだ。

 

それからすべての作品を追いかけた。広島、原爆を扱った『二十四時間の情事』、アウシュビッツを描くドキュメント『夜と霧』は衝撃だ。ヌヴォーロマンの旗手として時代を牽引した当時の彼は最高にカッコよかった。そんな彼の作品をようやくリアルタイムで見始めたのは、『プロビデンス』からである。だが、その後、彼の作品はもう僕を興奮させることはない。それは『去年マリエンバードで』の頃のとんがった作品ではないからだ。そういう意味では、あの頃同じように僕を熱狂させたアントオーニも同じだ。悔しいけど『さすらいの二人』からである。(ギリギリでフェリーニには乗り切れた気がする。『アマルコルド』からはすべてちゃんとリアルタイムで目撃している)

 

要するに僕は時代に取り残された。もちろん、七〇年代以降のすべての作品はリアスタイムで目撃した。でも、肝心の六〇年代は歴史としてしか知らない。時代に乗り遅れたという気分はぬぐえない。どうして後10年早く生まれなかったのだろう、と何度も思ったことだった。でも、それはどうしようもないことだ。

 

そんなアラン・レネの最期をちゃんと看取れてうれしい。彼が遺書として、こんなにもチャーミングな作品を遺してくれたことを神様に感謝しよう。このタイトルからして、彼から僕たちへのメッセージだとわかるはずだ。80年生きてきて、映画を作り続けて、辿り着いた境地を、こんなにもシンプルに語る。ありがとう、レネ。僕たちも生きていくから。

 

彼の遺作となったこの作品の舞台はイギリスである。でも、なぜかみんなフランス語をしゃべる。これなら、イギリスにする必要性なんかない。(でも、このわがままさが好き)

 

3組のカップルが凍傷する。というか、6人しか出ない。しかも、彼らの家の庭だけが舞台だ。(家の中は終盤にならなくては出ない。室内シーンはないまま終わるのではないか、と思わせる勢いだったのに、いきなり室内に入るし)庭が舞台というだけで、ドキドキするではないか。もちろん、『去年マリエンバードで』がそうだった。あの映画はマリエンバードの美しい庭園ですべてが終始する。ふたりがそこで、問答するだけの映画だった。この映画の庭はなんと書き割りである。しかも、明らか書き割り。そこにはリアルなセットを見せる気はない。嘘の世界という前提でスタートする。確信犯的行為を楽しんでいる。不在の男をめぐるお話というのも、レネらしい。舞台にには登場しない男を(彼は余命は3カ月の宣告を受けている)めぐる6人のやり取りで終始する。彼がどうした、彼がこうした、という会話は「去年、マリエンバードで愛し合ったではないか」と交わすふたりに似ている。中心がすっぽりと抜け落ちたまま、そこを巡ってドラマは展開していくという図式も同じだ。レネは明らか、ここで自身の代表作である『去年マリエンバードで』を再現した。だが、この明るさと軽やかさはどうだ。これは明らか僕がリアルタイムで見てきた(そして、少し物足りない気分にさせられてきた)晩年の彼の作品のタッチを継承している。だが、そこを乗り越えている。最期にちゃんと、答えを遺すのだ。これが人生。

 

舞台劇のようなスタイルで(しかも、彼らは劇中で芝居を演じるための準備をしている!)人生の機微を、そして、生きていく事の意味を僕たちに教えてくれる。これぞ、映画。最高のプレゼントを遺してくれた。もう一度、言わせて欲しい。

 

ありがとう、レネ。  さようなら。

 


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