久々にドキドキさせられる芝居だった。この芝居がいったいどこに僕たちを連れて行ってくれるのか、予想もつかない。面白いことは確かなのだ、だが、着地点が見えないから、もしかしたらつまらなくなるかも、なんて思う。そんな不安定な気分を抱えて芝居を見守る。森田芳光監督の『家族ゲーム』を思わせる設定だ。凶暴な家庭教師がやってきて彼の介入を通して家族の姿が浮き彫りになってくる。食事のシーンがドラマに於いて大きな役割を担うのもよく似ている。あの映画の登場から20年以上がたった今、新しい『家族ゲーム』であるこの芝居が何を描こうとするのか。興味津々で見た。
伊藤さんはあるいびつな家族を、静謐をたたえた空間の中で、しっかりみつめていく。(基本的には前編音楽、音響はない。それも緊張を強いる。)芝居は延々と続く食事シーンで幕を開ける。家族4人がねばねばの納豆をこねくりまわして食べる。喋ることもなくただ食べている。
先天的な知的障害を持った兄を抱えてここまで暮らしてきた家族。父と母はこの子を大事に育ててきた(のだろう)。大学受験を控えた弟は、そんな兄を持ちながら屈折することなく生きてきた(はずだ)。彼らがどんなふうにこれまで生きてきたかは想像するしかない。そんな彼らのある日の食卓の風景から芝居は始まる。そして、兄、いっちゃん(加藤智之)が23歳の誕生日を迎える日までが描かれていく。家族のスケッチである。
次男、文也(神藤恭平)のところに家庭教師がやってくる。受験を目前に控えて志望校に合格するための両親の配慮だ。だが、彼はあまりうれしくはない。どうでもいいことだからだ。
それにしても三田村啓示演じる家庭教師の異常さには目を見張らされる。グリーンの顔。大きな耳。金色の短髪。見るからに異常なこの男の姿を見ても家族は誰も何も言わない。異物であるこの男をさらりと受け入れて普通に対応する。この男を彼らは見ていない。この芝居は、そんな彼を起点にして展開していくのかと思ったがそうではない。彼はただ自由に行動し、周囲は彼を無視したままだ。彼が宇宙人であることがわかる(ほんまかいな)が、それさえもどうでもいい。この芝居の異常さはここだけにとどまらない。無関心が4人と周囲を彩る。それをことさら強調もしない。
しかも家族4人の関係性も、あまり深く掘り下げられない。バラバラの4人の行為が描かれる。父は宇宙にはまり、マーズ・ストーンといういかがわしい石を70万も出して買ってくる。母は半年前から駅前のフラダンス教室に通っている。兄はまともに話も出来ないし、自分のこともままならない。彼の介護は介護師の女性がしてくれる。弟は黙々と勉強をしている。
表面的にはただの穏やかな家族だ。だが、ここには何もない。舞台は中央のテーブル。4人の椅子。そこには砂が敷かれている。(最初は気がつかなかった)2幕の終盤で再び、家族の食事の風景。また、彼らは納豆を食べている。その時、家庭教師がテーブルの下から出てきて兄をくすぐる。車椅子から落ちて転げまわる。さらには父も母もくすぐられもんどりをうつ。そんな中、弟だけは黙々とテーブルで勉強を続ける。このシーンで終わってしまったらどうしようか、と思った。暗転になった時、ここで終わられたらたまらない、と思った。でも、終わってもおかしくない雰囲気だ。だが、大丈夫だった。この後にエピローグがある。兄のいない車椅子がある。父と弟が彼の帰りを待つ。ケーキに4本(彼ら4人家族を象徴している)しかないローソクをつける。そこに母が帰ってくる。兄の誕生日のためにフラを踊る。本人である兄が不在のまま、家族の団欒が描かれる。
この芝居のドラマ性のなさ。そして、話が展開しないで停滞していくさまは普通じゃない。個々のシーンは面白いがそこに規則性はないし、ドラマとしてのうねりもない。兄と弟が普通に会話する場面も、そこに意味は生じない。体に自由もきかないし、満足にしゃべれないはずなのに、2人になった時には兄は健常者となる。ラストの兄の不在も含めてポイントでの説明にあたるものがないままだ。そこを基点にドラマが展開してもいいはずなのに。
作、演出の伊藤拓さんはわざとこういう作り方をしている。タイトルの『家族っぽい』というフェイクのイメージを通してどこに至ろうとしたのか。それが見えない。見えないまま芝居は終わる。最初にも書いたように、かなり面白い。だが、何かが足りない。詰めの甘さなのか。よくわからない。伊藤さんがこの芝居を通して描こうとしたことが宙ぶらりんになったまま、芝居は幕を閉じる。
伊藤さんはあるいびつな家族を、静謐をたたえた空間の中で、しっかりみつめていく。(基本的には前編音楽、音響はない。それも緊張を強いる。)芝居は延々と続く食事シーンで幕を開ける。家族4人がねばねばの納豆をこねくりまわして食べる。喋ることもなくただ食べている。
先天的な知的障害を持った兄を抱えてここまで暮らしてきた家族。父と母はこの子を大事に育ててきた(のだろう)。大学受験を控えた弟は、そんな兄を持ちながら屈折することなく生きてきた(はずだ)。彼らがどんなふうにこれまで生きてきたかは想像するしかない。そんな彼らのある日の食卓の風景から芝居は始まる。そして、兄、いっちゃん(加藤智之)が23歳の誕生日を迎える日までが描かれていく。家族のスケッチである。
次男、文也(神藤恭平)のところに家庭教師がやってくる。受験を目前に控えて志望校に合格するための両親の配慮だ。だが、彼はあまりうれしくはない。どうでもいいことだからだ。
それにしても三田村啓示演じる家庭教師の異常さには目を見張らされる。グリーンの顔。大きな耳。金色の短髪。見るからに異常なこの男の姿を見ても家族は誰も何も言わない。異物であるこの男をさらりと受け入れて普通に対応する。この男を彼らは見ていない。この芝居は、そんな彼を起点にして展開していくのかと思ったがそうではない。彼はただ自由に行動し、周囲は彼を無視したままだ。彼が宇宙人であることがわかる(ほんまかいな)が、それさえもどうでもいい。この芝居の異常さはここだけにとどまらない。無関心が4人と周囲を彩る。それをことさら強調もしない。
しかも家族4人の関係性も、あまり深く掘り下げられない。バラバラの4人の行為が描かれる。父は宇宙にはまり、マーズ・ストーンといういかがわしい石を70万も出して買ってくる。母は半年前から駅前のフラダンス教室に通っている。兄はまともに話も出来ないし、自分のこともままならない。彼の介護は介護師の女性がしてくれる。弟は黙々と勉強をしている。
表面的にはただの穏やかな家族だ。だが、ここには何もない。舞台は中央のテーブル。4人の椅子。そこには砂が敷かれている。(最初は気がつかなかった)2幕の終盤で再び、家族の食事の風景。また、彼らは納豆を食べている。その時、家庭教師がテーブルの下から出てきて兄をくすぐる。車椅子から落ちて転げまわる。さらには父も母もくすぐられもんどりをうつ。そんな中、弟だけは黙々とテーブルで勉強を続ける。このシーンで終わってしまったらどうしようか、と思った。暗転になった時、ここで終わられたらたまらない、と思った。でも、終わってもおかしくない雰囲気だ。だが、大丈夫だった。この後にエピローグがある。兄のいない車椅子がある。父と弟が彼の帰りを待つ。ケーキに4本(彼ら4人家族を象徴している)しかないローソクをつける。そこに母が帰ってくる。兄の誕生日のためにフラを踊る。本人である兄が不在のまま、家族の団欒が描かれる。
この芝居のドラマ性のなさ。そして、話が展開しないで停滞していくさまは普通じゃない。個々のシーンは面白いがそこに規則性はないし、ドラマとしてのうねりもない。兄と弟が普通に会話する場面も、そこに意味は生じない。体に自由もきかないし、満足にしゃべれないはずなのに、2人になった時には兄は健常者となる。ラストの兄の不在も含めてポイントでの説明にあたるものがないままだ。そこを基点にドラマが展開してもいいはずなのに。
作、演出の伊藤拓さんはわざとこういう作り方をしている。タイトルの『家族っぽい』というフェイクのイメージを通してどこに至ろうとしたのか。それが見えない。見えないまま芝居は終わる。最初にも書いたように、かなり面白い。だが、何かが足りない。詰めの甘さなのか。よくわからない。伊藤さんがこの芝居を通して描こうとしたことが宙ぶらりんになったまま、芝居は幕を閉じる。