まずこの芝居のことよりも先に、この素敵な劇場の話をしよう。劇団大阪新撰組を率いて数々の作品を作ってきた当麻英始さんが、念願である自分の劇場を持った。細部まで彼の拘りが感じられるゴージャスで最高の小劇場の誕生である。
芝居は箱が大事なのではなく中身で勝負する。そんなことは当然の話だ。だが、本当は入れ物も含めて芝居である。お金をかけたからいい、というものでもない。だが、ちゃんとお金もつぎ込まなければ雰囲気作りはできない。観客のみなさんに楽しんでもらえなくては、意味がない。何が大切で、どこまでが必要なのか。その判断は作り手に委ねられている。十人十色だからそれぞれの価値観があってよいだろう。狭くて窮屈な空間にたくさん人を押し込んでその連帯感が心地よい。そんな芝居もありだ。その反対に、できるだけ余裕のある空間でのんびり芝居を楽しめるような劇場を作る。そんな夢のような選択もあっていいだろう。しかし、今まで小劇場界ではそういう姿勢は持てなかった。仮設劇場のような空間でも仕方ない。劇場があるだけでいい。それは、最初から不可能だと思ったからだ。だからこそ、この当麻さんの選択を支持したい。「ソファーシートでゆっくり芝居が見られる」こと。たった30席ほどの豪華な劇場。それが船場サザンシアターである。
この11日からオープンした船場サザンシアターのオープニングプログラムがこの作品だ。川野えなと泥谷将による2人芝居である。1991年に出版された別役実の戯曲集に収録された作品らしい。当麻さんは、オープニングとしてまず、自分が大好きなその作品を取り上げ、それを丁寧に立ち上げようとした。これは小さな作品だけどとても気持ちのいい作品だ。この劇場にぴったりの芝居だ。
公演は、8時半から上演されるというレイトショースタイルである。平日の夜、仕事帰りに食事を摂ってからゆっくり1時間ほどの芝居を見る。そんな贅沢って素敵だ。この作品と劇場はそんな時間を提供する。
ささやかだけど、贅沢な芝居。それが船場サザンシアターのコンセプトであろう。そういう意味でも今回の作品は当初の目的を見事達成している。主人公2人の清潔さが際立つ。原作ではもっと年齢が高く設定されてあるようだが、まだ充分若い2人に年老いた魔女と神父を演じさせる。スピード感のある芝居を目指したという演出の意図を汲んで2人は落ち着いた芝居を自然に見せる。わざとらしさがないのがいい。年齢不詳の存在でいいのだ。だから、老眼鏡や入れ歯が出てきてもまるで不自然ではない。
魔女は今も昔を想い、ここにいる。神父は放浪の身に疲れながらも、今も旅を続ける。彼が1通の招待状を持ち、この家を訪れる。だが、それは物乞いではない。彼はれっきとした客なのだ。その卑屈にはならない矜持は気持ちがいい。でも、お腹が空いているから出されたビスケットには、ぱくつく。それを笑いながら見る。2人のやりとりを楽しめばいい。別役ならではの不条理劇だが、この作品はタッチがソフトだ。
今ではずっと昔、20世紀初めの田舎町。その思い出の中で魔女は暮らしている。そこを訪れた神父はもうあの頃を過去のものとして過酷な今という時間を生きる。この2人が一瞬出会い、懐かしい昔を共有する。魔女狩りという忌まわしい出来事を描くのだが、あれからたくさんの歳月が流れ、今ではすべてが思い出の中にある。
簡単なことではない。彼らにとってあの時代は。だが、今、こうして年老いた2人にとって大事なことは今をどう生きるか、である。この芝居はいかような解釈も可能だ。それぞれが、それぞれの想いでこの2人のほんのひとときの時間を共有すればいい。劇場と同じように、芝居自身もとても贅沢な作品である。
芝居は箱が大事なのではなく中身で勝負する。そんなことは当然の話だ。だが、本当は入れ物も含めて芝居である。お金をかけたからいい、というものでもない。だが、ちゃんとお金もつぎ込まなければ雰囲気作りはできない。観客のみなさんに楽しんでもらえなくては、意味がない。何が大切で、どこまでが必要なのか。その判断は作り手に委ねられている。十人十色だからそれぞれの価値観があってよいだろう。狭くて窮屈な空間にたくさん人を押し込んでその連帯感が心地よい。そんな芝居もありだ。その反対に、できるだけ余裕のある空間でのんびり芝居を楽しめるような劇場を作る。そんな夢のような選択もあっていいだろう。しかし、今まで小劇場界ではそういう姿勢は持てなかった。仮設劇場のような空間でも仕方ない。劇場があるだけでいい。それは、最初から不可能だと思ったからだ。だからこそ、この当麻さんの選択を支持したい。「ソファーシートでゆっくり芝居が見られる」こと。たった30席ほどの豪華な劇場。それが船場サザンシアターである。
この11日からオープンした船場サザンシアターのオープニングプログラムがこの作品だ。川野えなと泥谷将による2人芝居である。1991年に出版された別役実の戯曲集に収録された作品らしい。当麻さんは、オープニングとしてまず、自分が大好きなその作品を取り上げ、それを丁寧に立ち上げようとした。これは小さな作品だけどとても気持ちのいい作品だ。この劇場にぴったりの芝居だ。
公演は、8時半から上演されるというレイトショースタイルである。平日の夜、仕事帰りに食事を摂ってからゆっくり1時間ほどの芝居を見る。そんな贅沢って素敵だ。この作品と劇場はそんな時間を提供する。
ささやかだけど、贅沢な芝居。それが船場サザンシアターのコンセプトであろう。そういう意味でも今回の作品は当初の目的を見事達成している。主人公2人の清潔さが際立つ。原作ではもっと年齢が高く設定されてあるようだが、まだ充分若い2人に年老いた魔女と神父を演じさせる。スピード感のある芝居を目指したという演出の意図を汲んで2人は落ち着いた芝居を自然に見せる。わざとらしさがないのがいい。年齢不詳の存在でいいのだ。だから、老眼鏡や入れ歯が出てきてもまるで不自然ではない。
魔女は今も昔を想い、ここにいる。神父は放浪の身に疲れながらも、今も旅を続ける。彼が1通の招待状を持ち、この家を訪れる。だが、それは物乞いではない。彼はれっきとした客なのだ。その卑屈にはならない矜持は気持ちがいい。でも、お腹が空いているから出されたビスケットには、ぱくつく。それを笑いながら見る。2人のやりとりを楽しめばいい。別役ならではの不条理劇だが、この作品はタッチがソフトだ。
今ではずっと昔、20世紀初めの田舎町。その思い出の中で魔女は暮らしている。そこを訪れた神父はもうあの頃を過去のものとして過酷な今という時間を生きる。この2人が一瞬出会い、懐かしい昔を共有する。魔女狩りという忌まわしい出来事を描くのだが、あれからたくさんの歳月が流れ、今ではすべてが思い出の中にある。
簡単なことではない。彼らにとってあの時代は。だが、今、こうして年老いた2人にとって大事なことは今をどう生きるか、である。この芝居はいかような解釈も可能だ。それぞれが、それぞれの想いでこの2人のほんのひとときの時間を共有すればいい。劇場と同じように、芝居自身もとても贅沢な作品である。