「今回は震災の話です。ていうか、距離感の話です。」と、ここまで素直に企画意図を述べるってどうだろうか。その後もどんどんいろんなことをパンフでばらしてある。それは、よく言えば、作品の本質を的確に説明しているってことなのだが、これから芝居を見る人にそこまで言わなくてもいいんじゃないか、と思う。やけに警戒している。それはこの時期の震災ものであるから、なのだが、誤解を恐れたからなのか。そうではあるまい。いつも以上に、きちんとこの芝居と向き合ってもらいたかったからだろう。
今回はSFである。といっても、はせさんが普通のSFを書くわけはない。SFという設定の中で、普遍的な人の営みを描いてみせるから、SFであろうと、リアリズムであろうとファンタジーであっても変わることはない。何をしても、はせさんは、はせさんだ。月面コロニーの日本人エリアにやってきた新人さんである男。彼を案内してここに来た女。でも、この女って何者か? 本来ここに居るはずのない彼女を巡ってドラマは始まる。彼女は謎の流動体生命で、人類よりも数段高い知能を持つ。もともとは液状化されてあるのだが、わかりやすいように人間の姿をして、ここに来た。姿形はここの所長の離婚した妻とそっくり。この設定ってタルコフスキーの『惑星ソラリス』だ。しかし、はせさんはことさらそこには拘らない。彼女は人類との共存の可能性を探るためここに来たようだ。というか、ラストの種明かしは重要ではない。彼らが何者であろうと、かまわないのだ。これはエイリアンとの話ではなく、あくまでも震災についてのお話である。
遠く離れた日本で大地震が起きて、それに対して何も出来ない月面コロニーでの5人の日本人クルーの戸惑いが描かれる。それはこれが3・11の時の僕等の気分と重なる。芝居の中で過去の事として語られる3・11。それは、この芝居の主人公たちが生まれる前のことなのだから当然だろう。時代背景は2085年。彼らの記憶には62年の東海大地震がリアルに残っている。今回の震災と先の2度の震災がこの芝居の中で語られる。
あの日、ジャブジャブサーキットは大阪で芝居をしていた。3月11日である。精華小劇場で『まんどらごら異聞2011』を上演していた。何事でもいい。何かをしなければならないのに、何も出来ないという自分たちの無力感。あの日、はせさんはどんな気持ちで芝居をしていたのだろうか。この芝居はあの日の気分(敢えて気分と呼びたい)を描こうとする。
忘れもしないあの日、僕はクラブをしていて、何も知らないままクラブを終えた後、ジャブジャブを見るため大急ぎで昼食も食べずに劇場に急いでいた。淀屋橋で津波の号外をもらったのに、ちゃんと見ることもなく迫り来る芝居の上演開始時間を気にして京阪から地下鉄に乗り換えた。号外を地下鉄の中で見ながらもあの時にはそれがこれほどの災害だとは考えもしなかった。自分が被災していないことをいいことにして、ノーテンキに芝居を見ていたのだ。家に帰って初めて状況を理解した次第である。
はせさんの芝居との出会いの作品である『まんどらごら異聞』を2011年ヴァージョンとしてもう一度見る。精緻に組み立てられたこの作品の静謐な空間に魅了されつつも、なぜかそこにほんの少し違和感を、というか、距離感を感じていたのを憶えている。あれはなんだったのだろうか。あまりに完成度が高すぎて付け入る隙がない。だが、それは地震という現実を前にして芝居を見るという行為にふける自分への違和感だったのかもしれない。
そんなこんなで、今回はあの日以来のジャブジャブサーキットの芝居なのだ。それがこの素材で、この内容ということだ。このスペースコロニーから地球の被災地の子供たちにメッセージを送ることとなった所長の話が芝居のクライマックスとなる。何をしゃべればいいのか、わからない。そこには、言葉なんかでは何も語れないという無力感がある。だが、それでもしゃべらなくてはならない。それが彼の使命だ。自分のことを話す。自分の話しか、語れることはない。その痛ましいくらいの想いが彼のスピーチとして描かれる。だから、あのシーンの後の2エピソードは蛇足にしか見えない。あのシーンでこの芝居は終わっている。「それともうひとつ・・・」と言ったところで、交信が途絶える。彼があの後しゃべりたかった言葉が宙づりにされたまま、溶暗する。あの深い暗転の闇がすばらしい。
今回はSFである。といっても、はせさんが普通のSFを書くわけはない。SFという設定の中で、普遍的な人の営みを描いてみせるから、SFであろうと、リアリズムであろうとファンタジーであっても変わることはない。何をしても、はせさんは、はせさんだ。月面コロニーの日本人エリアにやってきた新人さんである男。彼を案内してここに来た女。でも、この女って何者か? 本来ここに居るはずのない彼女を巡ってドラマは始まる。彼女は謎の流動体生命で、人類よりも数段高い知能を持つ。もともとは液状化されてあるのだが、わかりやすいように人間の姿をして、ここに来た。姿形はここの所長の離婚した妻とそっくり。この設定ってタルコフスキーの『惑星ソラリス』だ。しかし、はせさんはことさらそこには拘らない。彼女は人類との共存の可能性を探るためここに来たようだ。というか、ラストの種明かしは重要ではない。彼らが何者であろうと、かまわないのだ。これはエイリアンとの話ではなく、あくまでも震災についてのお話である。
遠く離れた日本で大地震が起きて、それに対して何も出来ない月面コロニーでの5人の日本人クルーの戸惑いが描かれる。それはこれが3・11の時の僕等の気分と重なる。芝居の中で過去の事として語られる3・11。それは、この芝居の主人公たちが生まれる前のことなのだから当然だろう。時代背景は2085年。彼らの記憶には62年の東海大地震がリアルに残っている。今回の震災と先の2度の震災がこの芝居の中で語られる。
あの日、ジャブジャブサーキットは大阪で芝居をしていた。3月11日である。精華小劇場で『まんどらごら異聞2011』を上演していた。何事でもいい。何かをしなければならないのに、何も出来ないという自分たちの無力感。あの日、はせさんはどんな気持ちで芝居をしていたのだろうか。この芝居はあの日の気分(敢えて気分と呼びたい)を描こうとする。
忘れもしないあの日、僕はクラブをしていて、何も知らないままクラブを終えた後、ジャブジャブを見るため大急ぎで昼食も食べずに劇場に急いでいた。淀屋橋で津波の号外をもらったのに、ちゃんと見ることもなく迫り来る芝居の上演開始時間を気にして京阪から地下鉄に乗り換えた。号外を地下鉄の中で見ながらもあの時にはそれがこれほどの災害だとは考えもしなかった。自分が被災していないことをいいことにして、ノーテンキに芝居を見ていたのだ。家に帰って初めて状況を理解した次第である。
はせさんの芝居との出会いの作品である『まんどらごら異聞』を2011年ヴァージョンとしてもう一度見る。精緻に組み立てられたこの作品の静謐な空間に魅了されつつも、なぜかそこにほんの少し違和感を、というか、距離感を感じていたのを憶えている。あれはなんだったのだろうか。あまりに完成度が高すぎて付け入る隙がない。だが、それは地震という現実を前にして芝居を見るという行為にふける自分への違和感だったのかもしれない。
そんなこんなで、今回はあの日以来のジャブジャブサーキットの芝居なのだ。それがこの素材で、この内容ということだ。このスペースコロニーから地球の被災地の子供たちにメッセージを送ることとなった所長の話が芝居のクライマックスとなる。何をしゃべればいいのか、わからない。そこには、言葉なんかでは何も語れないという無力感がある。だが、それでもしゃべらなくてはならない。それが彼の使命だ。自分のことを話す。自分の話しか、語れることはない。その痛ましいくらいの想いが彼のスピーチとして描かれる。だから、あのシーンの後の2エピソードは蛇足にしか見えない。あのシーンでこの芝居は終わっている。「それともうひとつ・・・」と言ったところで、交信が途絶える。彼があの後しゃべりたかった言葉が宙づりにされたまま、溶暗する。あの深い暗転の闇がすばらしい。