劇団未来の50周年記念公演でもある。2部構成3幕、休憩の10分を含んで2時間50分に及ぶ超大作だ。終戦の前日、大阪大空襲を描く。井上光晴『明日』のような1日の話なのか、と思ったが、これはソートン・ワイルダーの『わが街』という作品をベースにしたものだった。事前の情報を一切入れず見る癖に、勝手な思い込みで見ているから、そんなふうに思って、自分ひとりが驚く。これは「あの日」を描くのではなく、あの日から始まる大阪東で生きた人々の哀歓を描くドラマなのだ。そこから始まる約30年間を定点観測で描いていく。
1幕は、その日の朝から始まる。大阪城の東に隣接する中浜町商店街が舞台となる。そこで暮らす薬屋と本屋の話を中心にして、この界隈に住む人々が繰り広げるドラマだ。薬屋の娘が、その日空襲で亡くなる。事件はそれだけ。でも、そのそれだけの事件が家族には一生の痛みとなる。話は広がらない。敢えて広げないと言う方が正しい。お決まりの展開なのだが、あの空襲でどれほどのことがあったのかを、総体的に描くのではない。幸代が死んだ、その事実のみで見せる。砲兵工廠の隣り。誤爆による被害。そんなことはままある。だが、自分たちの娘が死んでしまうなんて、と思う。
予科練から帰還した幸代の弟信一を巡る話を経て、後半になる。実はこの作品の特徴はこの後半にある。主人公は信一と、隣家の娘である伸子のお話だ。2幕の大半は2人の結婚式で、このシーンが長い。実に丁寧にその日の朝から式の全体までを描く。実を言うと、ここでちょっと首をひねった。なぜ、ここまでするのか。一体何がしたのか、と。だが、それはこの後の3幕で明確になる。なんと、3幕は伸子の葬式である。
3部構成の後半1時間40分は、結婚式と葬式を描くことに終始するのだ。実に大胆で見事な構成ではないか。リアルな結婚式とシュールな葬式。死者の側から葬儀を描く。だから3幕は墓地が舞台で墓石は死んだ人たちが演じる。彼らが生きているものたちを見て語り合う姿が描かれるのである。この思いもしない展開にはびっくりさせられた。ありがちな「庶民の哀歓を描く人情劇」と高を括っていたのに、それがこんなにも大胆な構造を持つ実験的な作品になるとは思わなかった。(もしかしたら、原作がこんなふうになっているのかもしれないが)
40人もの役者たちが登場する群像劇のスタイルにはなっているが、その中心にある主人公の2人にクローズアップした作り方が功を奏し、とてもすっきりしたドラマになっているのがいい。大仰な大作ではなく、戦後を生き抜いた人々の姿を、大事な2つの儀式から照射するという作り手のねらいがきちんと伝わるコンパクトな作品に仕上がっている。3時間近い作品なのに長くは感じない。
1幕は、その日の朝から始まる。大阪城の東に隣接する中浜町商店街が舞台となる。そこで暮らす薬屋と本屋の話を中心にして、この界隈に住む人々が繰り広げるドラマだ。薬屋の娘が、その日空襲で亡くなる。事件はそれだけ。でも、そのそれだけの事件が家族には一生の痛みとなる。話は広がらない。敢えて広げないと言う方が正しい。お決まりの展開なのだが、あの空襲でどれほどのことがあったのかを、総体的に描くのではない。幸代が死んだ、その事実のみで見せる。砲兵工廠の隣り。誤爆による被害。そんなことはままある。だが、自分たちの娘が死んでしまうなんて、と思う。
予科練から帰還した幸代の弟信一を巡る話を経て、後半になる。実はこの作品の特徴はこの後半にある。主人公は信一と、隣家の娘である伸子のお話だ。2幕の大半は2人の結婚式で、このシーンが長い。実に丁寧にその日の朝から式の全体までを描く。実を言うと、ここでちょっと首をひねった。なぜ、ここまでするのか。一体何がしたのか、と。だが、それはこの後の3幕で明確になる。なんと、3幕は伸子の葬式である。
3部構成の後半1時間40分は、結婚式と葬式を描くことに終始するのだ。実に大胆で見事な構成ではないか。リアルな結婚式とシュールな葬式。死者の側から葬儀を描く。だから3幕は墓地が舞台で墓石は死んだ人たちが演じる。彼らが生きているものたちを見て語り合う姿が描かれるのである。この思いもしない展開にはびっくりさせられた。ありがちな「庶民の哀歓を描く人情劇」と高を括っていたのに、それがこんなにも大胆な構造を持つ実験的な作品になるとは思わなかった。(もしかしたら、原作がこんなふうになっているのかもしれないが)
40人もの役者たちが登場する群像劇のスタイルにはなっているが、その中心にある主人公の2人にクローズアップした作り方が功を奏し、とてもすっきりしたドラマになっているのがいい。大仰な大作ではなく、戦後を生き抜いた人々の姿を、大事な2つの儀式から照射するという作り手のねらいがきちんと伝わるコンパクトな作品に仕上がっている。3時間近い作品なのに長くは感じない。