いつもながらのとてもバカバカしい芝居だ。そんな風に思いながら見ている。すると、それが見ているうちにどんどん別の次元にむかっていくことに気付く。そしていつのまにか思いがけないドラマへと収束していく。列車転覆事件を扱い、事故の中、たったひとり生き残った女性の孤独と狂気が、世界とどう関わっていくのかを描く。
「今回の芝居、ゴルフの話ではなく実は列車脱線事故の話なのです。伊丹でアイホールでいつか列車脱線事故の後遺症から立ち直る人の話をやってみたいと考えてました。」といういつもの青木さんとはちょっとタッチが違うあいさつ文がパンフにはある。このとても真面目な文に青木さんの覚悟の程がうかがえる。アイホールでこの題材を取り上げるのはかなりナーバスになる。いつも以上にいろんなことに気を使いながら、それでも自分のやり方を変えない。これは単純な感動ものではない。もちろんただのバカバカしいお笑いなんかでもない。(だいたいそんな芝居をクロムはしたことがない!)
『テキサス・チェーンソー』をイメージの根底に持ちながら、大量殺戮(列車事故)をひとりの変質者のせいには設定しない。そういう展開はこの場合意味がない。正直言ってトビー・フーパーというよりも本来ならサム・ライミテイストの方が青木さんらしいのに、今回は暴走を抑えてシリアスにまとめる。この芝居は確かにフーパーの生理的な不快感をイメージの根底に持つ。
ラストの幸福なイメージのわざとらしさとしらじらしさ。でも、そこにある美しい風景を信じようと思う。世界はこんなにも美しい。いつまでも心を閉ざしているわけにはいかないから。1歩足を踏み出そうと思う。そうすることで世界はもう一度あなたに心を開く。列車内での地獄の有様と、ラストの幸福な車内での光景は紙一重だ。体と心を病んでしまった女性がいかにしてもう一度世界と向き合っていくことが出来るようになるのか。それがこの芝居のテーマだ。
痴漢にあった女の痛みをスタートラインにして、どこまでもイメージを裏切りながら、世界は広がっていく。簡単には収拾がついたりはしない。森の中が列車の中になり、何度も同じ時間に閉じ込められていく。青木さんは拡散するバカバカしいイメージの連鎖の中からとても真摯な答えを提示する。これはふざけているように見せて、実は照れることなくとてもストレートに、事故によって心に傷を負った人たちに向けてのメッセージを送る芝居となっているのだ。これは感動的なヒューマンドラマなのである。(まぁ、クロムなので見た目はシュールでグロテスク、バカバカしい笑いに満ちた世界が描かれて入るのだが。)
「今回の芝居、ゴルフの話ではなく実は列車脱線事故の話なのです。伊丹でアイホールでいつか列車脱線事故の後遺症から立ち直る人の話をやってみたいと考えてました。」といういつもの青木さんとはちょっとタッチが違うあいさつ文がパンフにはある。このとても真面目な文に青木さんの覚悟の程がうかがえる。アイホールでこの題材を取り上げるのはかなりナーバスになる。いつも以上にいろんなことに気を使いながら、それでも自分のやり方を変えない。これは単純な感動ものではない。もちろんただのバカバカしいお笑いなんかでもない。(だいたいそんな芝居をクロムはしたことがない!)
『テキサス・チェーンソー』をイメージの根底に持ちながら、大量殺戮(列車事故)をひとりの変質者のせいには設定しない。そういう展開はこの場合意味がない。正直言ってトビー・フーパーというよりも本来ならサム・ライミテイストの方が青木さんらしいのに、今回は暴走を抑えてシリアスにまとめる。この芝居は確かにフーパーの生理的な不快感をイメージの根底に持つ。
ラストの幸福なイメージのわざとらしさとしらじらしさ。でも、そこにある美しい風景を信じようと思う。世界はこんなにも美しい。いつまでも心を閉ざしているわけにはいかないから。1歩足を踏み出そうと思う。そうすることで世界はもう一度あなたに心を開く。列車内での地獄の有様と、ラストの幸福な車内での光景は紙一重だ。体と心を病んでしまった女性がいかにしてもう一度世界と向き合っていくことが出来るようになるのか。それがこの芝居のテーマだ。
痴漢にあった女の痛みをスタートラインにして、どこまでもイメージを裏切りながら、世界は広がっていく。簡単には収拾がついたりはしない。森の中が列車の中になり、何度も同じ時間に閉じ込められていく。青木さんは拡散するバカバカしいイメージの連鎖の中からとても真摯な答えを提示する。これはふざけているように見せて、実は照れることなくとてもストレートに、事故によって心に傷を負った人たちに向けてのメッセージを送る芝居となっているのだ。これは感動的なヒューマンドラマなのである。(まぁ、クロムなので見た目はシュールでグロテスク、バカバカしい笑いに満ちた世界が描かれて入るのだが。)