こんなにも私的なドキュメンタリーを劇場で公開していいのか、と思う。まぁ、今の時代なんでもありだ、と言えばそれまでなのだが、でも、やっていいことと、それはダメでしょ、ということの垣根は暗黙の了解事項としてあるはずで、これはそのボーダーラインを超えている。作り手ですら、大丈夫か、と心配したのではないか。しかも、ミニシアターでレイトショー公開とかいうのでなら、まだ、納得するのだが、全国東宝系一斉公開である。あり得ない話だ。まぁ、TOHOシネマズの小さな劇場を開けるし、チェーンもそこまでは拡大しないから、全国一斉公開と言いながら、それほど大袈裟な話ではない。
だが、である。いくらなんでもこの映画である。ビデオカメラを自分たちに向けて、その日常を撮っただけのホームムービーもどきの、作品とも言えないようなものなのだ。いいのか、これで。きっと1週間でうち切りになるのではないか、と思い、公開2日目の日曜日の劇場に行く。客は10人ほどだった。想像できたことだが、見に来ている客層があまりにバラバラでこの人たちは今から上映される映画が何なのかわかってきているのか、心配になった。さすがに暴動は起きなかったが、大丈夫だったのだろうか。
これは映画監督の平野勝之さんがAV女優、林由美香と自分との恋愛を撮ったものだ。彼女との出会いから、やがて自分一人でカメラを廻し作るつもりだった東京から北海道の最北端までの自転車旅行の記録映画(AV映画)に出演してもらい、2人で旅する。その記録は『由美香』という映画になっているが、その時のもうひとつの記録としてこの映画は、あの旅をアナザーサイドから描く。その後、2人は別れる。だが、彼の中で彼女への想いは終わらない。再び彼女を映画に撮りたいと願う。そんな時彼女が死んでしまう。彼は偶然から(その日彼女と会い、撮影する約束をしていた)死んでしまった現場をカメラに収めることになる。彼女の死から6年。この映画が完成する。
これを映画と呼ぶのは憚られる。これはただのプライベートフィルムでしかない。人様に見せるものではない。それは彼のこれまでの映画も同じであろう。だが、この切り口しか彼にはないのだ。ここから彼は自分の映画を撮る。それがすべてだ。映画はこうあらねばならない、という決まりなんかない。本人が「これが映画だ!」と言い、観客がそれを認めたなら映画になる。この痛ましい魂の告白を、劇場にかける勇気がこれを映画にしたのだ。
こういう極私的な記録を通して、自分と一体化したカメラによって、気持ちを語ること。それを由美香が理解してくれたから、自分たちの姿をビデオに収めることが出来た。自分たちのすべてにカメラを廻してと彼女が言った。でも、彼はいくつかの場面は撮れなかった。勇気がなかったのだ。死んでしまった彼女が彼に言う。この映画を作ってよ。だから、作り上げた。もちろんそんな筋書きはない。死人は無言のままだ。結局は自分の自己満足でしかない。作られたこの映画は果たしてどれだけの力を持ち得るものとなったのか。1時間51分。自転車旅行から死までの10年間。さらには、この映画を作るまでのブランクも含めて、15年の歳月が流れた。その中で、彼がどれだけ彼女を愛したのか。彼の言葉からは確かに伝わってくるけど、それが観客である僕の胸には届かない。それでいいわけはないだろう。もちろん、僕がこの映画に嵌れなかっただけなのかもしれないが。
映画のためなら、プライバシーなんかいらない。それだけの覚悟だ。そこまでして、作られたこの映画が観客の胸に届かないのなら、それは悲しい。だが、これは監督のひとりよがりにつき合わされただけだ、とは思わない。
だが、である。いくらなんでもこの映画である。ビデオカメラを自分たちに向けて、その日常を撮っただけのホームムービーもどきの、作品とも言えないようなものなのだ。いいのか、これで。きっと1週間でうち切りになるのではないか、と思い、公開2日目の日曜日の劇場に行く。客は10人ほどだった。想像できたことだが、見に来ている客層があまりにバラバラでこの人たちは今から上映される映画が何なのかわかってきているのか、心配になった。さすがに暴動は起きなかったが、大丈夫だったのだろうか。
これは映画監督の平野勝之さんがAV女優、林由美香と自分との恋愛を撮ったものだ。彼女との出会いから、やがて自分一人でカメラを廻し作るつもりだった東京から北海道の最北端までの自転車旅行の記録映画(AV映画)に出演してもらい、2人で旅する。その記録は『由美香』という映画になっているが、その時のもうひとつの記録としてこの映画は、あの旅をアナザーサイドから描く。その後、2人は別れる。だが、彼の中で彼女への想いは終わらない。再び彼女を映画に撮りたいと願う。そんな時彼女が死んでしまう。彼は偶然から(その日彼女と会い、撮影する約束をしていた)死んでしまった現場をカメラに収めることになる。彼女の死から6年。この映画が完成する。
これを映画と呼ぶのは憚られる。これはただのプライベートフィルムでしかない。人様に見せるものではない。それは彼のこれまでの映画も同じであろう。だが、この切り口しか彼にはないのだ。ここから彼は自分の映画を撮る。それがすべてだ。映画はこうあらねばならない、という決まりなんかない。本人が「これが映画だ!」と言い、観客がそれを認めたなら映画になる。この痛ましい魂の告白を、劇場にかける勇気がこれを映画にしたのだ。
こういう極私的な記録を通して、自分と一体化したカメラによって、気持ちを語ること。それを由美香が理解してくれたから、自分たちの姿をビデオに収めることが出来た。自分たちのすべてにカメラを廻してと彼女が言った。でも、彼はいくつかの場面は撮れなかった。勇気がなかったのだ。死んでしまった彼女が彼に言う。この映画を作ってよ。だから、作り上げた。もちろんそんな筋書きはない。死人は無言のままだ。結局は自分の自己満足でしかない。作られたこの映画は果たしてどれだけの力を持ち得るものとなったのか。1時間51分。自転車旅行から死までの10年間。さらには、この映画を作るまでのブランクも含めて、15年の歳月が流れた。その中で、彼がどれだけ彼女を愛したのか。彼の言葉からは確かに伝わってくるけど、それが観客である僕の胸には届かない。それでいいわけはないだろう。もちろん、僕がこの映画に嵌れなかっただけなのかもしれないが。
映画のためなら、プライバシーなんかいらない。それだけの覚悟だ。そこまでして、作られたこの映画が観客の胸に届かないのなら、それは悲しい。だが、これは監督のひとりよがりにつき合わされただけだ、とは思わない。