今、劇場でTVシリーズの第2シーズンに引き続いて劇場版第2作が公開されている。そんな『ウシジマくん』の劇場版第1作を見た。2時間11分という長尺である。深夜TVで火がついて、劇場版が作られるという、最近ではよくあるパターンなのだが、主人公の山田孝之の無表情に心惹かれて、ついつい見てしまった。
これはとても怖い映画だ。安易なTVシリーズの映画版ではない。独立した1本の映画として完成している。『ミナミの帝王』の第1作を見たときの興奮を思い出す。もちろん、これはあの作品よりも、さらにハードルの高いレベルをクリアしている。それは主人公のキャラクターの違いも大きい。竹内力の当たり役となり、それからの彼の方向性すら定めてしまったあのシリーズと違い、ここでの山田孝之は、このキャラクターと心中することはない。ここまで強烈なキャラクターなのに、クールだ。冷静に目の前の事実を見ているだけ。
お金は怖い。お金は人を狂わせる。そんな当たり前のことを、この映画は冷静に描いていく。それは一重に山田孝之のその視線の故だ。彼の独壇場である。そのことを知る山口雅俊監督は、すべてを彼に委ね、彼が動く通りに、映画を作る。まるでウシジマのドキュメンタリーのような作品なのだ。だから、途中で彼が拘留されてスクリーンから姿を消すと、急に映画は減速する。そのことも含めて、映画全体はちゃんとコントロールされていく。ウシジマの不在によるストレスも計算のうえだ。
山田孝之は出しゃばらない。ただ、そこにいて、金にうごめく男や女たちを冷徹に見ている。彼は闇金をしているが、金の亡者ではない。それどころか、愚かな人間たちを天使のように(まるで、『ベルリン 天使の詩』のブルーノ・ガンツだ!)見ている。大島優子演じるプーの女の子が、体を売ることなく、お金を稼ごうとするのを、(要するにギリギリで、そこは避けるのだが、紙一重でしかない)それもただ、見ている。彼女は本作のヒロインのはずなのに、まるでそうは見えない。ゲストですらない。彼にとっては、ただの債務者だ。利息をちゃんと取り立てるだけ。手を差し伸べるわけでも、地獄に突き落とすわけでもない。それは、誰に対しても同じだ。
お金に溺れる人々を、ただ、見守る。そこから見えてくるさまざまな人の営みを映画は描く。ぶれることのないウシジマの視線がこの映画をドライブする。
これはとても怖い映画だ。安易なTVシリーズの映画版ではない。独立した1本の映画として完成している。『ミナミの帝王』の第1作を見たときの興奮を思い出す。もちろん、これはあの作品よりも、さらにハードルの高いレベルをクリアしている。それは主人公のキャラクターの違いも大きい。竹内力の当たり役となり、それからの彼の方向性すら定めてしまったあのシリーズと違い、ここでの山田孝之は、このキャラクターと心中することはない。ここまで強烈なキャラクターなのに、クールだ。冷静に目の前の事実を見ているだけ。
お金は怖い。お金は人を狂わせる。そんな当たり前のことを、この映画は冷静に描いていく。それは一重に山田孝之のその視線の故だ。彼の独壇場である。そのことを知る山口雅俊監督は、すべてを彼に委ね、彼が動く通りに、映画を作る。まるでウシジマのドキュメンタリーのような作品なのだ。だから、途中で彼が拘留されてスクリーンから姿を消すと、急に映画は減速する。そのことも含めて、映画全体はちゃんとコントロールされていく。ウシジマの不在によるストレスも計算のうえだ。
山田孝之は出しゃばらない。ただ、そこにいて、金にうごめく男や女たちを冷徹に見ている。彼は闇金をしているが、金の亡者ではない。それどころか、愚かな人間たちを天使のように(まるで、『ベルリン 天使の詩』のブルーノ・ガンツだ!)見ている。大島優子演じるプーの女の子が、体を売ることなく、お金を稼ごうとするのを、(要するにギリギリで、そこは避けるのだが、紙一重でしかない)それもただ、見ている。彼女は本作のヒロインのはずなのに、まるでそうは見えない。ゲストですらない。彼にとっては、ただの債務者だ。利息をちゃんと取り立てるだけ。手を差し伸べるわけでも、地獄に突き落とすわけでもない。それは、誰に対しても同じだ。
お金に溺れる人々を、ただ、見守る。そこから見えてくるさまざまな人の営みを映画は描く。ぶれることのないウシジマの視線がこの映画をドライブする。