高校1年の夏、プールに落ちた坡平隆と同級生の水村まなみはその日の翌朝(その瞬間ではなく)目覚めるとお互いの体が入れ替わていた。そこから始まる荒唐無稽で奇想天外なお話がリアルの感触のもと、描かれる。
このパターンはさんざんドラマや映画でやり尽くされている。だから、最初は「なんだかなぁ」と思いながら読み始めたのだが、すぐにこれは従来のパターンとは違うぞ、と襟を正した。本気でこの設定と向き合っている。
最初は大林亘彦監督の『転校生』である。あの映画が「男女の入れ替わりもの」の元祖だ。もちろん原作の山中恒の小説『おれがあいつであいつがおれで』が先にあった(古い話でなら『とりかえばや物語』なんてのもあるし)わけだが、このパターンの認知度はあの映画を起点して高まったはずだ。児童文学の世界から飛び出して、映画史に残る傑作として、みんなの心に刻まれることになった。続く『時をかける少女』も含めて大林さんの映画はレジェンドとなった。
でも、当然の話だが、この小説はあの映画へのオマージュではない。この題材を使ってあの映画の先を行く世界を展開する。もし、ふたりがもとに戻れなかったなら、というお話は今まで誰も作ろうとはしなかったはずだ。だから、この作者はそこに挑戦した。それは凄い発想というわけではない。誰だって思いつくことだ。だけど、誰もやらない。きっと面白くはならないと思うからだ。でも、それって、ありだろうし、そこでこそ描くことが可能な物語があるはずだ。
新人作家である(まだ30代になったばかりの)君嶋彼方はそこに挑む。15年間、入れ代わったままで過ごしたふたりの軌跡を追うのである。30歳の今からスタートして、15歳のある日、朝起きたとき体が入れ替わっていた日からのお話が、現在進行形の今と交互に綴られていく。元には戻らない、という前提で「あの日」からの「今」、そして「今」からの「明日」が描かれていく。
君の顔では泣けない、という覚悟が痛ましいだけではなく、そこには力強いメッセージを奏でられる。あきらめではなく、受け入れることで、どういう未来がそこに始まるのか、が描かれていく。描写は淡々としているのに、ドキドキする。実にうまい。
視点を男子のほうに限定したのもいい。このパターンならふつう男女交互に相互の視点から描こうとするだろう。でも、それはしない。あくまでも彼の視点から描かれぶれることはない。15歳の夏、女の子の体になってしまった彼がいきなり、生理にあたふたするところから(なんとも生々しい!)始まり、27歳の出産までが30歳の今の時間からの回想として挟まれていく。
受け入れることはできないとんでもない出来事をふたりが共有し、ふたりで向き合い、やがてはひとりで(というか、一緒にいても、ずっと一人で向き合うしかなかったのだけど)彼女に甘えることなく自分の生き方と向き合うこととなる。ふたりは結婚しないのもいい。予想されるよくある展開にはならない。でも、それが実に自然の流れに思えるのが見事だ。