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映画・演劇のレビュー

真紅組『夢ばかり』

2015-05-24 18:48:40 | 演劇
真紅組が今回、大正ロマンに挑戦した。ベル・エポックだ。だが、それはほんの短い夢でしかない。だが、誰もがその時ささやかな夢を見た。そんな愛おしい時代の幻のような時間を、いつものようにみんながあつまって無為な時を「やり過ごす」そんな幸福として描いた。

脚本の阿部遼子さんと演出の諏訪誠さんの黄金コンビは、決して大事(おおごと)として、彼らの物語を見せようとはしない。時代に埋もれていく庶民の哀歓をきちんと丁寧に掬い取ることを大事(だいじ)とする。ひとりひとりを大切にするから、結果的に焦点の定かではない芝居になる危険性も多々あった。というよりも、そういうことで失敗していると言ってもいい。だが、彼らはそんなこと、気にも留めない。完成度の高い芝居よりも、みんなが生き生きしていて楽しそうにしている姿を描くことを第一義とするのだ。

作品のレベルを上げるためには時代との関わりをもっと明確にしたらよい。やがて戦争に突入していく時代を背景にした陽だまりのような時間として彼らの営みを俯瞰したらならもっと芝居には深みとコクが生まれたはずだ。だが、そういう芝居や映画、小説なら、もうごまんとある。真紅組が描くのならもっと「いいけげん」で、底の浅い芝居にする。それは作り手の覚悟なのだ。庶民と寄り添うことを信条とした。だいたい「庶民」なんていう上から目線はここにはない。真佐江さんのカフェに集まってくるひとりひとり。彼らを迎える春さんや佐和子さん、そういう固有名詞が優先する。というか、それしかない。

ドラマとしては東京の子爵のお嬢さんが、大阪に家出してきて過ごす時間を描く、というのが作品の骨格で、本当ならそのエピソードを前面に押し出して、彼女と彼女をここに連れてきた男の子とのラブストーリーにしたらいい。要するに『ローマの休日』である。(もちろん、『大阪の休日』ね)だが、そんなエピソードも群像劇の中に埋もれてしまうのだ。だから、芝居は焦点の定かではないものとなる。先にも書いたとおりだ。ウェルメイドを目指さない。

それは意図的なものなのか、たまたまそうなったのか、実を言うと定かではない。だが、僕はこういう作り方をする真紅組の「いいかげんさ」が好きだ。彼らならこれでいいのだ。


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