習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

桃園会『a tide of classics~動員挿話・ぶらんこ・父帰る~』

2011-07-20 23:05:03 | 演劇
 正面を向いてしゃべる。会話の相手を見ない。前作『ダイダラザウルス』でも試みたことを今回はさらに先へと進めた。テキストを持ち、下を向いてしゃべっていた三田村啓示を中心にして内省的なドラマを作り上げた前作のアプローチはアクシデントからの仕方がないこととはいえ、それでも、今、芝居で可能なひとつの取り組みとして、とても前向きな試みだったと思う。

 あの作品を経てその後深津さんが何をするのかと、期待していたら、今回のやり方である。大胆だが、とても興味深い。もちろんこれはただの実験ではない。このスタイルでしか描けないものを見せる。しかも3本とも共通してこのやり方を貫き通した。

 森川万里が、たとえ自分が間違っていると言われようとも絶対に自分を曲げない女を演じる『動員挿話』がすばらしい。彼女は見ていてイライラするくらいに自分しか見ていない女だ。正面を向いて自分の意志を一分も曲げず、「いやです」と言い切る。そして、それを自らの死を賭しても貫く。周囲の状況とか、夫の立場とか、すべてわかった上で、でも、1歩も譲らない。彼女は腹が立つくらいに自分である。こんな女を表現するためには、この芝居のスタイルはとても有効だった。

 『父帰る』と『ぶらんこ』では、同じスタイルの中で描いたものは、著しく異なる。『父帰る』の戸惑い。『ぶらんこ』の日常。それらは本来なら他者との関係の中で描かれるべきものだからだ。彼らは普通に向き合い対話すべきところであろう。だが、『動員挿話』を描ききった後の2本でそういうブレは許されないとばかりに、ここでもスタイルの変更はない。この一貫したやり方がこんなにも潔く心地よい。

 『父帰る』の封印された「父」という言葉。『ぶらんこ』のコロスとして登場する女たち。ちょっとした仕掛けだが、それが必要以上に、なんだか気になる。ただ、それが効果的だったかどうかは判断が難しいところだ。しかも、この2作の中で、今回のスタイルは『動員挿話』ほどには成功していない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ババロワーズ『クレイジー・... | トップ | 『スプリングフィーバー』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。