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映画・演劇のレビュー

『スプリングフィーバー』

2011-07-20 23:09:37 | 映画
 「春の嵐」という素晴らしいタイトルが示す心のざわめきをこの映画は見せたかったのだ。もちろん原題はたぶん別にあるし、邦題も『スプリングフィーバー』とカタカナになっているから、誰も直接的には『春の嵐』とは言ってないけど、僕にはその清々しいタイトルが、この割り切れない映画にぴったりだと思えた。

 3人の男たち、2人の女たち。5人の恋愛感情の揺らぎが描かれていく。もっと平穏で穏やかな人生を送りたかったはずだ。ここに出てくる5人はとても真面目で常識のある人たちばかりだ。なのに、こんなことに巻き込まれていく。人の気持ちを曲げることは出来ない。誰かを好きになり、その気持ちを抑えきれない。狂おしく相手を求める。その相手が同性である男であろうとも、異性であろうとも、同じことのはずだった。

 しかし、同性を求めるということに対する偏見は根強い。それだけで、世間は変態扱いする。この映画は赤裸々に男同士のセックスを描く。この生々しさには目を背けたくなる。しかし、監督はそれをしっかり見つめさせようとする。目を背けるな、これも現実なのだと言う。正しいとか、間違っているとか、そんな問題ではないのだ。同性愛を描くことが目的ではないことは明白だ。ここに描かれるのは普遍的な愛の物語である。だが、そこを敢えて同性愛にしたことで、この映画はより不穏で、根元的な問題を描くことを可能にした。極限での愛情を突き詰めることで恋愛を甘美で生半可なものにはしない。ひとつの戦いとして描く。

 この映画は、『天安門、恋人たち』のロウ・イエが国家(中国だ!)から5年の映画製作禁止処分を受けているにもかかわらずゲリラ的に撮影を敢行し作り上げた魂の1作である。反体制的な映画ではなく純愛映画である。だが、この取り組みは当局を逆なでにする。そんな映画でもある。おとなしく穏やかに撮ることはしない。過激に大胆に見せる。それは故意にセンセーショナルなものにするためではないことは明らかだ。突き詰めることで明確になるものがある。それを見せるためなのだが、彼のやり方はなかなか理解されない。だが、そこが素晴らしい。敢えて困難な茨の道を行く。すべては簡単なことではないからだ。





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