うちやまつりの続編である。6年後のお話だ。だが、登場人物が重なるわけではないし、お話の連続性もない。舞台となる場所も違う。あの団地はすでに取り壊されている。その跡地となった場所を望むドライブインが舞台となる。演出は、「劇団清水企画」の清水友陽。
とても丁寧に作られてある。深津さんの戯曲を大切にして、その描こうとしたものを余すところなく、掬い取ろうとした。その誠実な姿勢は気持ちいい。しかし、それはただ単に深津作品をコピーしようとするものではない。彼がたどりつこうとしたところへと、自分もまた行ってみようとする試みなのだ。演出を担当した清水さんの姿勢には好感が持てる。
先の見えない不安の中で、ここにとどまりいつまでも無為な時間を過ごす人たちのスケッチ。何かが変わろうとしている。その兆しはある。しかし、それが何なのかは見えない。団地はもうなくなり、「こやまさんちのにわ」がどこにあったのかも定かではない。ここから見えるあそこは確かに存在するけど、あまりに漠然としすぎている。あそこに何があり、何があったのかも今では定かでない。事件は彼らにとってもう何の意味も持たない。彼らはただの傍観者でしかないからだ。そんな対岸の火事の名残りをここから見つめながら、彼らがどこに向かって行こうとするのか。
心の中にある空白を埋めるためではなく、そのぽっかりと空いたままの穴にいつまでもとどまり続ける人々。それはあの団地で暮らしていた人々の抱える空洞と似ている。もともと『うちやまつり』自体が事件を描く作品ではなかった。事件の後の心の空白を描いていたのだ。これはさらに6年後、風化していく事件の残り香を噛みしめていくだけのお話だ。そこにはもう何もない。
その何もないことをとても丁寧に掬い取っていく清水演出は深津さんの見たものを追い求める。もちろんそこにはもう何もない。
とても丁寧に作られてある。深津さんの戯曲を大切にして、その描こうとしたものを余すところなく、掬い取ろうとした。その誠実な姿勢は気持ちいい。しかし、それはただ単に深津作品をコピーしようとするものではない。彼がたどりつこうとしたところへと、自分もまた行ってみようとする試みなのだ。演出を担当した清水さんの姿勢には好感が持てる。
先の見えない不安の中で、ここにとどまりいつまでも無為な時間を過ごす人たちのスケッチ。何かが変わろうとしている。その兆しはある。しかし、それが何なのかは見えない。団地はもうなくなり、「こやまさんちのにわ」がどこにあったのかも定かではない。ここから見えるあそこは確かに存在するけど、あまりに漠然としすぎている。あそこに何があり、何があったのかも今では定かでない。事件は彼らにとってもう何の意味も持たない。彼らはただの傍観者でしかないからだ。そんな対岸の火事の名残りをここから見つめながら、彼らがどこに向かって行こうとするのか。
心の中にある空白を埋めるためではなく、そのぽっかりと空いたままの穴にいつまでもとどまり続ける人々。それはあの団地で暮らしていた人々の抱える空洞と似ている。もともと『うちやまつり』自体が事件を描く作品ではなかった。事件の後の心の空白を描いていたのだ。これはさらに6年後、風化していく事件の残り香を噛みしめていくだけのお話だ。そこにはもう何もない。
その何もないことをとても丁寧に掬い取っていく清水演出は深津さんの見たものを追い求める。もちろんそこにはもう何もない。