応典院の広い舞台を自在に使って、夜の闇に取り込まれた男の孤独を描く。この大竹野正典の傑作戯曲の初演にも出演し、初期の大竹野作品に関わってきた昇竜之助が、三部作の最後として取り組む。若いキャストを率いて、彼らが生まれる以前の作品を今の芝居として見せる。大竹野家庭劇は、人間の抱く根源的な不安や孤独をテーマにしているから時代を経ても古びない。いつの時代、どこであろうと変わらない。
この作品に29年振りに挑む昇竜之助は堂々と主人公のコスギを演じた。今までの2作では演出をメインにしたが、今回は作品のセンターに立ち、夜に捕まえられてしまう男を熱演する。
確かにこれは力作だ、と言うことは、認めるけど、だけど、この作品はもっと面白かったはずなのに、という想いが拭えない。そんな不満を抱えたまま、芝居を見ることになる。とても丁寧に作られてあるのに、なんだか、今一歩パンチが効かない。どうしてだろう。何かが空回りしている。
もうここには妻や子はいない。家族から逃げようとした男が、家族を失い、孤独にひとり生きていたという事実。幻の妻子との生活。それをかき乱す階下から聞こえるピアノの音。貯水タンクで育てられるメメクラゲが一瞬で巨大化する。不安はどんどん増殖する。
世界との齟齬が彼を追い詰めていく.自分の居場所がない。狂気に至る過程が静かに綴られる。彼は偏屈で団地の住民から疎まれる。人と人との繋がりが希薄になった今、ここにいる奥さんたちのような連帯(でも、本当はそうじゃない)はもう消えてしまったはずだが、他者との距離感はなくならない。誰もがそこここにある集団の中で、平和に生きていかなくてはならないから、その距離感を埋めるふりをする。
コスギと周囲という図式がもっと大胆に前面に出ればよかったのかもしれない。全体の中から昇竜之助が浮いてしまうのが残念だ。
3階の孤独なピアノ少女と4階のコスギはお互いに共鳴しあうものを感じ、それが殺人に至る。なぜ少女を殺さなくてはならなかったのか。共鳴し合うからこそ、殺すという不条理。一番大切なそこが伝わらないから、芝居は空回りする。ピアノの音がうるさいのではない。神経を逆なでするものはなにか。そこで妻子とのことが浮かび上がる。家を疎ましく思って、いつもここから出て、ひとりで暮らすことを夢見ていた。それは彼のささやかな抵抗で有り、プチ家出願望だ。それが現実になったときの果てしない孤独。ラストの昇竜之助の一人芝居の部分の悲痛さが、周囲との齟齬の深まりを描き切れてないから、空転するのが惜しい。