クエンティン・タランティーノ監督第8作。だから、このタイトルなのか。まぁ、そんな冗談のようなタイトルでやりたい放題。怒濤の2時間48分である。なんと、これは今時ありえない70ミリ大作なのだ。時代錯誤も甚だしい。しかし、もうそこはそれ、周囲のことなんか一切考慮しないで、自分のことだけで映画を撮る。
帝王なのだ。それができるのが今の彼で、許されている。もちろん、何をしてもいいわけではない。でも、何をしてもいいのだ、という状況を作れてしまう。それが独りよがりにはならないのは、彼にはそれなりの覚悟があるからだ。こんなにも自由にむちゃくちゃができる、って凄くないか。ルーカスやスピルバーグだってそんなことしていないし、できない。オタクで、自己中で、商業ベースなんていう考えを一切気にしないバカだからこそ、できる。そして、それについてくる観客がいる。なんと、幸福なことか。
血まみれ、残酷。なんでもこい! である。贅沢の限りを尽くす。それが観客のためではない。自分の満足のため。こういう完璧主義ってありか、と思う。もちろん、ありなのだ。こうだからこそ、観客も納得する。好きにしろ、と思いながらやりたい放題の行為に快哉を叫ぶ。下品で、無意味で、バカバカしい。ここには主義主張なんかない。だが、ただのバカでもない。これはエンタメとして、ちゃんとおもしろいのだ。3時間飽きさせないだけではない。ドキドキさせられる。この先どうなるのか、見守る。でも、きっと行き当たりばったりで、くだらない、とも思う。でも、それでも、大丈夫。それでこそ、タランティーノ、と僕たちが思えれる。許す。
話は無意味だし、めちゃくちゃだ。なのに、それを非難する気にはならない。何があってもいいじゃないか、と思う。なんでもあり、だと思う。呆れつつも、納得するのだ。それだけの勢いがあるからである。彼ははったりをかますのが上手い。こんなのペテンだ。なのに、素直にだまされよう、と思えれる。やんちゃ坊主への愛か。要するにあるレベルを超えると、大丈夫になるということだ。しかも、それが映画愛に裏打ちされているから、同じように映画フリークは共感してしまう。仕方ないなぁ、と思う。(これと較べると、同じようにやりたい放題の『珍遊記』はまだまだだなぁ、と思う。 この映画については、また後日に書く。 ここはまず、タランティーノだ!)
豪華キャストが、好き放題。彼らもまた、タランティーノのたくらみの共感者(共犯者!)なのだ。だいたい今時、西部劇なんか、作るか? ふつう。ない、ない。ふつうじゃない。終盤のどんでん返しにしたって、あんなのはないわぁ、と思う。伏線なんかないし。まだ終わりたくないし、もっと暴れたかっただけ。こじんまりと纏まるのが嫌だった。そんなわがまま、なのだ。2時間の映画なんかにしない。1本の映画で骨の髄までしゃぶり尽くすぞ。バランスなんか崩れてもかまわん。これは「そんなこんな」の映画なのだ。娯楽映画にごタクはいらない。見ろ! それだけ。