4番組のうち、僕が見た日は、2番組だけに上演だった。トイガーデン『もらる』とくらがり『しごじゅうしち、はち』。正直言ってどちらもあまりおもしろい作品ではない。だが、見終えて、とてもすがすがしい気分になれた。それはアクタートークで2作品の代表である安武剛さんと永原圭介さんの2人といっしょにほんの少しお話していても同じような感想を持った。
如月小春が好きだ、と語る安武さんは、好きだから彼女の作品を演出して見たかったと言う。なんだか単純だ。だが、そんな単純さがいい。永原さんは自分の中ではっきりしないものを形にしたくて、この作品をもう3度も上演しているらしい。
彼らはまだ今は確かな技術を持たないから、うまく伝えることができていない。だが、自分の表現に対してはっきりした使命感を持っている。その1点に於いて、彼らの作品は認められる。きちんとした作品として観客に届けることが出来なくては作家としては失格なのかもしれない。だが、伝えきれることだけが目的ではない。もどかしさをもどかしさのままに形にすることで、ほんの少しでも前に踏み出すことができたなら、いい。
『MORAL』を『もらる』として見せたのは、安武さんのテレではない。彼はこの作品をひらがな表記することで自分の表現にしようとした。今と言う時代にこの作品を見せるための彼なりの仕掛けである。整然とした如月戯曲を解体し、自分の作品に翻訳する。その時、彼はルーズさを前面に出す。これはトイガーデンのいつものやり方だ。戦争と家族、国家のありかた。そんな問題をこの短い作品の中にちりばめていく。すれ違っていく父と母の思いを中心にして、象徴的なイメージの連鎖の中で、それを見せる。
くらがり『しごじゅうしち、はち』(なんだか、凄いタイトルだ!)は、引越しの風景を通して、17歳で死んでしまったクラスメートへの思いを切々と綴る。それをハートウォーミングとしてではなく、自分の中でもはっきりしないもどかしさとして描く。なぜ、彼女がここにいるのか。2人の関係は?そして、今という時間はどこにあるのか。説明がないから疑問がたくさんある。わざと説明しないのではなく、説明する余裕がないみたいだ。
この芝居を通して作者自身がその答えを見出そうとしているような気がする。もちろん芝居はそんな甘いものではない。だが、徹底的にこの戯曲と付き合うことによって、永原さんはその答え見えてくると信じているようなのだ。彼はそこに突破口を見る。そんな潔さは、見ていて気持ちがいい。
如月小春が好きだ、と語る安武さんは、好きだから彼女の作品を演出して見たかったと言う。なんだか単純だ。だが、そんな単純さがいい。永原さんは自分の中ではっきりしないものを形にしたくて、この作品をもう3度も上演しているらしい。
彼らはまだ今は確かな技術を持たないから、うまく伝えることができていない。だが、自分の表現に対してはっきりした使命感を持っている。その1点に於いて、彼らの作品は認められる。きちんとした作品として観客に届けることが出来なくては作家としては失格なのかもしれない。だが、伝えきれることだけが目的ではない。もどかしさをもどかしさのままに形にすることで、ほんの少しでも前に踏み出すことができたなら、いい。
『MORAL』を『もらる』として見せたのは、安武さんのテレではない。彼はこの作品をひらがな表記することで自分の表現にしようとした。今と言う時代にこの作品を見せるための彼なりの仕掛けである。整然とした如月戯曲を解体し、自分の作品に翻訳する。その時、彼はルーズさを前面に出す。これはトイガーデンのいつものやり方だ。戦争と家族、国家のありかた。そんな問題をこの短い作品の中にちりばめていく。すれ違っていく父と母の思いを中心にして、象徴的なイメージの連鎖の中で、それを見せる。
くらがり『しごじゅうしち、はち』(なんだか、凄いタイトルだ!)は、引越しの風景を通して、17歳で死んでしまったクラスメートへの思いを切々と綴る。それをハートウォーミングとしてではなく、自分の中でもはっきりしないもどかしさとして描く。なぜ、彼女がここにいるのか。2人の関係は?そして、今という時間はどこにあるのか。説明がないから疑問がたくさんある。わざと説明しないのではなく、説明する余裕がないみたいだ。
この芝居を通して作者自身がその答えを見出そうとしているような気がする。もちろん芝居はそんな甘いものではない。だが、徹底的にこの戯曲と付き合うことによって、永原さんはその答え見えてくると信じているようなのだ。彼はそこに突破口を見る。そんな潔さは、見ていて気持ちがいい。